8.父&友人②
ふと顔を上げると、お父様が返事を催促するような視線を向けていた。どこか愉快そうに楽しみにしている様子が伝わる。
「そうですわね。とても、ヴィクター様らしい反応でしたわ。一度は楽しそうにお話しなさいましたわ。“ざまぁのようだ”と。ですが、その後すぐに気に病まれて……それを見たら私まで悲しくなりましたわ」
柔らかく微笑む。それ以上は語らない。一瞬、父が何かを探るように視線を寄越す。けれど、私はただ静かに受け止めるだけ。
「そうか、本当にセレナは、彼女たちの処遇が悲しくなったのか?」
「彼女たち? いいえ? ヴィクター様が悲しい思いをしたことが悲しいだけですわ」
言い切ると、父は一瞬だけ目を丸くして、それからくつくつと笑い出した。
……変なお父様。
◇
「うるさい鳥がいなくなって、だいぶ過ごしやすくなったわね、セレナ」
レティシアは紅茶を片手に、優雅な仕草で、サロンの奥まったソファへとゆったり身を沈めた。足を組み替えるその動きすら、どこか計算され尽くした美しさがある。
静寂の中に、カップ同士が触れ合う微かな音だけが心地よく響く。
「まあ、口が悪いですわよ。レティシア」
思わずたしなめるように口にする。けれど、言葉とは裏腹に、私の口元はわずかに緩んでいる。——私とまったく同じことを考えていたなんて、可笑しいわ。
レティシアは紅茶を一口含み、愉快そうに目を細める。
「そうそう、あなたの婚約者様に会ったけど、すごいわね! あれは別人ではないかしら。『セレナとこれからも仲良くしてくれ』と、輝くような笑顔で頼まれたわ。あの方、あんな顔もなさるのね」
「ヴィクター様が? ふふ」
思わず小さく笑みがこぼれる。
思い浮かぶのは、最近ますます素直に感情を見せてくれるようになった彼の姿。以前の彼からは考えられないほどに、まっすぐで、少しだけ、不器用で愛らしい。
レティシアは肩をすくめながら、そんな私の表情を見逃すまいとするかのように、じっとのぞき込んだ。その視線には、からかいと、それからほんのわずかな興味が混じっているように見えた。
「……アルマンド公爵令息様の変わりようにも驚いたけど……あなたの変化にも、一応驚いているのよ、私」
私の変化?
あら、ヴィクター様の愛らしさを伝えすぎたかしら。
あんなに懐いてくる、まるで子犬のようにこちらを真っ直ぐに見上げて、隠しきれない好意を向けてくるだなんて。……可愛がらないという選択肢など、最初から存在しませんわ。
レティシアはそっとカップをソーサーへ戻し、かすかな音すら立てぬよう気を配りながら、わずかに声を落とした。空気が、すっと切り替わる。
「ねえ、セレナ? 次の『ざまぁ』とやらは……きっと、あの方かしら? 時期的に」
その言葉には、先ほどまでの優雅な談笑とは異なる、冷ややかな確信が滲んでいる。
「そうですわね。そろそろ騒ぎだす頃ですもの。冬季休暇前のテストの時期になりましたから」
自然と応じながら、カップの縁に指先を添える。
マリアーノ侯爵令息。
名を思い浮かべただけで、不快感が走った。
無意識のうちに、指先へわずかな力がこもる。白磁のカップがかすかに軋む気がして、私はそっと力を抜いた。
同じクラスに属し、常に私と首位を争っている——と、本人だけが信じて疑わないお方。
もっとも、私がその座を譲ったことは、ただの一度もないのだけれど。
答案が返却されるたび、掲示板に順位が貼り出されるたび、現実は、何一つ変わらない。それなのに彼は、納得できない子供のように、毎度決まって私へ疑いの目を向けてくるのだ。
『こんな僅差で負けるはずがない』
『不正だ、テストの内容を得ているのだろう』
『怪しい動きを見た、カンニングだ』
……実力で勝ち取っているというのに、何かと絡んできてうっとうしい。
しかも、それらを、彼は臆面もなく周囲へ吹聴して回るのだ。廊下で、教室で、時にはわざと私に聞こえるような声量で飽きもせずに、ねちねちと。
私の評判を傷付けるのに、本当に熱心。
その執念を、私ではなく勉学へ向ければよろしいのに——と、そう思わずにはいられなかった。
成績にまつわる陰口や根も葉もない噂。私の積み重ねた努力も、積み上げてきた結果も——そのすべてを否定するような噂のほとんどは、彼仕業で間違いない。
そして、ヴィクター様は今、その件を調べてくださっている。
「全く、私たちと同じ A クラスなのにCクラスの王子と仲がいいとか。どういう神経をしているのかしら。勉強はできても頭はよろしくないのね、きっと」
レティシアの辛辣な一言が、静かなサロンに鋭く落ちる。
「レティシア、彼は宰相を狙っているのですもの。王子殿下や、その婚約者にすり寄るのは、ある意味当然かもしれませんわよ」
淡々と告げながらも、内心ではわずかな皮肉が滲む。本来であれば、一言たしなめる立場にあるでしょうに。王子殿下の成績にも興味がなくご自身のことばかり。
実は、王子の婚約者から外れた際、マリアーノ侯爵令息様との婚約の話も挙がっていた。
本当によかったわ。あのとき、安易に『学問が好きそうだから、お話が合うかもしれない』などと選ばなくて。
家柄を重んじてヴィクター様を選んだ当時のお父様と私。
ええ、今にして思えば、これ以上ない慧眼でしたわ。褒めてあげたいくらい。
結果としては、大当たりなのですもの。
あんなにも素直で、愛らしくて、それでいて——いざとなれば、静かに事を進めるだけの強さを持っているヴィクター様ですもの。
優雅にカップを傾けていたレティシアが、堪えきれないといった様子で、深く息を吐いた。
「いやですわね。王子をたしなめることができないご学友が次期宰相。あの王子が王でミレーナが王妃でしょ? 宰相が彼……。あらあら、この国も終わりね。あとは、あなたの計画がうまくいくことを祈るのみだけど、正直、どちらに転んでも、私は隣国に嫁ぐから別に構わないの」
あまりにもあっさりと、レティシアは言い切った。そこには情も躊躇もなく、ただ冷静な観察と割り切りだけがある。
隣国の第二皇子を婚約者に持つ彼女にとって、この国の行く末は、どこか現実味の薄いものなのだろう。まるで舞台の外側から眺めている観客のようだわ。
でも、他人事のようにおっしゃるけれど、ご自分のご家族は、この国に残りますのよ?
喉元まで出かかった言葉を、紅茶とともに静かに飲み下す。ここでそれを口にするのは、あまりに無粋というものだ。
人生がどの瞬間に、どの方向へ転がるかなど、誰にも分かりはしない。盤上に並べられた駒でさえ、思わぬ一手で価値を変えるのだから人の縁など、なおさらだ。
どこまでも現実的で、どこまでも自分の立ち位置を見誤らない。その冷静さと割り切りこそ、いかにも彼女らしくて私は、レティシアのそういうところを気に入っている。
「当然、宰相は諦めてもらいますわ。まあ、彼が行き着く先だけは、もう決まっているようなものですけれど」
「ふふ、セレナが、どれだけ強大な存在か、そろそろマリアーノ侯爵令息は理解するといいのよ」
マリアーノ侯爵令息様には——せめて、見苦しくならない程度にはお励みいただきたいものですわ。




