2.不思議なことってあるのね
「と、まあ、そんなことがありましたの」
私は、ダージリンを一口ふくむ。フルーティーで花のように甘い香りが、ゆっくりと鼻腔をくすぐる。
舌の上に広がる繊細な渋みと柔らかな甘みが、先ほどまでの喧騒を洗い流すように静かに溶けていった。
あの騒がしい階段とは、まるで別世界。ようやく、まともに息ができる。
その香気に包まれながら、私は今日あった出来事を、必要な部分だけを選び取り、お父様へと語っていく。
「ほぉ、それで、お前の婚約者様は大丈夫なのか?」
テーブル越しに座るお父様が、わずかに眉を上げられた。声音は穏やかでも、カップを置く指先に、ほんの僅かな緊張が滲む。
珍しいことでも聞いた、という顔。
無理もないわね。私が婚約者の容体を気にするような話をするなど、普段ならまずありえないもの。
「さすがに、頭から血を流した婚約者様を見捨てることもできず、学校医とともに屋敷まで送り届けて、目が覚めるまで付き添いましたわ」
さらりと告げる。
お父様は“おや珍しい”とでも言いたげに目を瞬かせた。ちょっと失礼だわ。
湯気の向こうで、お父様の表情がほんの少しだけ緩む。興味と、そしてわずかな探り。
「私の婚約者様、目を覚ました途端、人格が入れ替わったかのようにでしたわ」
カップを静かにソーサーへ戻す。小さな音が、やけに大きく響いた。
視線を上げる。
お父様の目を、まっすぐに見据える。
「自分の名前を確認し、“ぼくはヴィクターで合っているか”と聞き、挙句、私をセレナと呼びましたの」
穏やかだったサロンの空気に、ほんのわずかな緊張が混じる。
「お父様は、転生者ってご存じ?」
自分でも分かるほど、言葉の選び方が慎重になっている。そう思いながらも、口をついて出た。
私自身、まだ信じきれていない。整理もできていない。初めて聞いた転生者という言葉。
お父様は眉間にほんの僅かな皺を寄せ、考えるように視線を落とす。そして、ゆっくりと首を横に振った。
そうよね、無理もない。
「婚約者様がおっしゃるには、自分にはこの世界ではない前世の記憶があり、その記憶が急によみがえったのだそうです。今まで何に対しても無気力だったのに、目の前にかかっていた霧が晴れ、視界が明るくなってきたようだ、と――そんなこと、あります?」
自分で口にしてみても、あまりに現実離れしている。物語の中ならまだしも、現実で語られるには、いささか都合が良すぎる筋書き。けれど目覚めた直後の彼の瞳。普段、ぼんやりと濁っていたはずの色が、確かに光を帯びていた。
あれを、どう説明すればいいのかしら。
「……興味深いな」
お父様が低く呟く。けれどその声音には、警戒や不安よりも、明らかに知的好奇心のほうが強く滲んでいる。
さすが、私のお父様は怖がるどころか、“面白がる”側ですのね。
「、別人のようでした。しかも、前と違いものすごくお話しなさるのですもの、びっくりしましたわ」
くすり、と喉の奥で笑みがこぼれる。あの無表情で寡黙だった男が、目を覚ました途端、言葉を溢れさせるように喋り出すのだから。違和感というより――もはや別個体。
そう言ってしまったほうが、まだしっくりくる。
「転生者に関しては、お医者様もよくわかっていないようでしたが、今、失っていた人格が混ざり合って、混乱状態なのかもしれない……のですって」
“混ざり合う”。けれど、少し、違和感が残る。混ざる、というより 上書きに近いのではなくて?
「なるほど」
「ふふふ、ヴィクター様がこれから、どうなるか楽しみですわ」
自然と、微笑が浮かぶ。驚きの連続ではあった。予測不能で、理解不能で、常識から外れている。それなのに胸が、わずかに高鳴る。
退屈だった盤面に、突然置かれた異質な一手。
――そうね。これはきっと、退屈しない。
「可哀そうに、もう少し心配してやったらどうだ。」
お父様が苦笑しながら、半ば呆れたように私へ言う。責めるでもなく、ただ軽く諭すように。
「しておりますわ、一応は」
事実ではある。お父様は何も言わず、ただこちらを見ている。
私はそっと視線を落とす。思考は自然と、過去へと遡っていく。
無気力で、何にも興味を示さず、ただそこに“置かれているだけ”のようだった婚約者。会話は成立せず、感情の起伏も乏しく、まるで人形のようだった彼。
それが、今日。一度壊れて、別の何かに差し替えられたかのように、動き出した。
……さて。どちらが本物なのかしらね。
◇
この国では、王子の婚約者候補は幼い頃に三人選ばれる。
血筋、家格、そして将来性。
あらゆる基準で選別された上で、さらにその中から“ふさわしい一人”を選び抜く――ずいぶんと手間のかかる制度だとは思うけど。
そのため、選ばれた三人は皆、同じ王子妃教育を受けながら育ってきた。
礼儀、教養、政治、歴史、外交。表に出るための振る舞いから、裏で必要とされる判断力まで。
私たちは、名前で呼び合い、同じ課題に頭を悩ませ、時に笑い合っていた。
いつからだったかしら、ミレーナが課題から逃げるようになり、叱責されれば涙を見せ、それでも評価だけは欲しがるようになったのは。
私と、そしてレティシア・サンチェス侯爵令嬢は、自分より愚かな王子の妃になどなるつもりはなかった。
正確には、その程度の器しかない男の隣に立つために、自分を消耗する価値を見いだせなかった、と言うべきかしら。
それでも教育は受ける。与えられたものは、すべて吸収する。選ぶのはこちら。選ばれるだけの立場に甘んじるつもりはなかった。
ミレーナは、王子妃教育から逃げ続けているくせに、私たちを一方的にライバル視し、蹴落とそうと躍起になっていた。
努力はしない、けれど結果だけは欲しがる。失敗の過程を他者のせいにする。
ずいぶんと都合のいい思考回路だけれど、王太子と似たもの同士よね。
「そんなに婚約者になりたくないのなら、辞退できる力くらいはあるぞ」
お父様の声は穏やかで、けれど本気だった。我が家ならば実際、その気になれば可能だったでしょう。
けれど、辞退する? そんな選択肢は、最初から存在しなかった。ただで最高峰の教育を受けられるのだ。それを手放す理由がどこにあるのかしら。
婚約者の座などどうでもいい。
けれど、そこで得られる知識と経験は、確実に“使える”。だから私は残った。最後まで。
……にもかかわらず。
『婚約者の座のため必死でしたのにね、残念でしたわね』
今でもミレーナは、そんな皮肉を口にする。あの、勝ち誇ったような笑みを浮かべ、勝利だと信じて疑わないのだから、ある意味では幸せな人よね。
でも、ほんとうに、理解しているのかしら。あなたの成績が私たちの中でいちばん悪いという事実を。積み重ねてきたものの差も、評価の裏にある理由もすべてを無視して、選ばれたという結果だけを掬い上げている。
妃になるということが、単なる勝利では済まないという現実を知らないのねきっと。
立場は飾りではない。責務は称号よりも重く、失敗は個人ではなく国に返ってくる。
それを、理解する気がないのか。それとも、本当に想像すらできていないのか。どちらでも、大差はないけれど。
その重みを知る頃には、もう逃げ場など残っていないでしょうに。
……まあ。だからこそ、ああしていられるのでしょうけれど。理解していないからこそ、軽やかに振る舞える。無知というのも、一種の特権ね。
そっと、ため息が落ちる。
視線を落とせば、まだ温もりを保ったままの紅茶がある。琥珀色の液面が、わずかな動きに合わせて静かに揺れる。立ちのぼる穏やかな香りが、思考の熱をゆっくりと冷ましていく。
――さて。しばらくは、退屈しなさそうで嬉しいわ。




