1.あら、大変
「……セレナ……嘘……また待ち伏せですの?」
王太子の婚約者、ミレーナ・アヴリル伯爵令嬢が、潤んだ瞳を大きく揺らし、怯えるように肩をすくめてこちらを見る。
その一言と仕草だけで、階段の踊り場にいた生徒たちの視線が、一斉にこちらへと吸い寄せられる。
ええ、本当に、いつもながら、よくやるわ。
わずかに震える睫毛の角度、息を呑む間の取り方、声のかすれ具合。どれもこれも、計算され尽くしている。
移動教室で急いでいたため油断していた。よりによって、この人目の集まる場所で出くわすなんて……。ああ、ついていないわ。
よりにもよって、“観客席のど真ん中”。
それにしても、自意識過剰にもほどがある。ふふ、私がミレーナを待ち伏せ? そんなに暇じゃないわよ。
本気でそう思っているのなら、少し可哀想になってくるわね。
学院の壮麗な大理石の階段は、朝日を受けて淡い金色を反射し、磨き込まれた模様が床にゆらゆらと揺れている。
高い窓から差し込む光が、逃げ場のない明るさで空間を満たしている。
“可哀想な婚約者”を演じるには、これ以上ない舞台よね。足を止めているだけで、視線が絡みついてくる。
好奇心、同情、そして少しの悪意。
くだらない。さっさと離れたいのだけれど。どうやら、そう簡単には退かせてくださらないらしい。
ミレーナは動かない。むしろ、ほんの半歩だけ位置をずらし、こちらの進路を自然に塞ぐように立っている。通れないほどではない。けれど、通ろうとすれば無理に押しのける形になる絶妙な距離。
最初から、そのつもりでしたのね。転べば私のせい。避ければ逃げたことになる。どちらにしても、都合のいい絵が出来上がる。
実に、よく出来た配置だこと。
「あらミレーナ、待ち伏せなんて誤解ですわ。私のAクラス、空き時間がないことを知っていまして? Cクラスのように時間に余裕があるならまだしも……ふふ。では先を急ぎますので」
わざとらしくもなく、しかし確実に刺さるように、淡々と告げる。軽くスカートの裾を摘み、すれ違おうと一歩踏み出した、
「なっ! アレク様ぁ、セレナが私たちCクラスを馬鹿になさるわ!」
甲高い声が、空気を切り裂いた。一拍も置かずに、すぐさま被害者に戻るあたり、さすがとしか言いようがない。
怒ったのか、ミレーナはわざとらしく王太子の腕に絡みつき、その細い体を押しつけながら、上目遣いで甘えた声を出す。
体重の預け方まで計算済み。寄り添うというより、寄りかかっているわね。
守ってくださいと全身で訴えるような仕草。ここまで徹底していると、いっそ清々しいわ。
それにしても邪魔ね。早くどいてくれないかしら?
「学と金しか取り柄のない女が! いまだに私の婚約者になれなかったことが悔しいのか? 仕方ないだろう、見よ、ミレーナの愛らしさを! 輝く金の髪は、太陽の光を受けてきらめき、豊かな表情の中には知性と優しさが宿って……」
ふふ。
頭の悪い話し方、という感想しか出てこないわね。語彙は貧相、構成は単調、そのくせ声量だけは無駄にある。おかげで一語一句、階段中に綺麗に響き渡ってしまっている。
本当に、迷惑な才能だこと。
並べ立てているのは称賛のつもりなのでしょうけれど、どれも表面を撫でただけで、中身が伴っていない。
王太子の婚約者になれなかったことが悔しい?
いいえ。むしろ、ならないように水面下で動いていたというのに、この言い様。妬んでいるなんて、どこからどう捻じ曲がれば、そんな結論に辿り着くのかしら。不思議。
思考の過程を一度丁寧に書き起こしていただきたいものね。きっと、途中がごっそり抜け落ちているのでしょうけれど。
この二人の中では、選ばれなかった私がしつこくつきまとっている――そういう物語が、もう完成しているのね。
だから現実がどうであれ、いくらでも都合よく変えられる。
……冤罪もいいところ。
さて2人の世界から戻ってくる気配もないし、もう行きましょう。これ以上付き合う価値もないわ。
「待て! 勝手に行こうとするな! ……はぁ、ヴィクターもこんな可愛げのない女が婚約者などとは可哀想に。私がセレナを婚約者に選ばなかったため、従弟のお前の幸せを犠牲にしてしまった。苦労をかけるな」
あら? ヴィクター様、いらしたのね。まったく気配がなかったわ。
ヴィクター・アルマンド公爵令息。
王弟の息子で、王太子の従弟。学院では、何を考えているかわからないミステリアスな美形として人気の私の婚約者。
……ただの無表情で、何も考えていないだけだと、私は思っているけれど。
婚約者が呼び捨てにされていますのよ? 注意くらいすればよろしいのに。本当に他人に興味がない人ね。このやりとりも、きっと雑音程度にしか思っていないのでしょうね。
ヴィクター様は深くため息をつき、階段の手すりに無造作に寄り掛かった。長い脚をわずかに崩し、重心を預けるような気だるい姿勢は、絵になる。
あらあら、さすがに時間がないわ。
「ところで、お三方は、この後の授業はありませんの?」
王太子にしなだれかかっていたミレーナが、はっとしたように顔を上げ、慌てて体を離した。
「大変! アレク様! 急がないとまた遅刻してしまいますわ」
また……、ね。何をやっていらっしゃるのかしら。ミレーナは王太子の腕をぐいっと掴み、半ば引きずるようにして進もうとする。
不意を突かれた王太子は足元を崩し、体勢を立て直す間もなくぐらりとよろめいた。
そのままの勢いで手すりに寄り掛かっていたヴィクター様に、正面からぶつかる。
ほんの一瞬。本当に一瞬だけ、空気が止まった。ヴィクター様の体が、支点を失う。手すりから離れた背が、空間に浮いたように見えた。
――あ。
そう思ったときにはもう遅い。
ぐるり、と。スローモーションのように、長い体が回転しながら、階段の下へと落ちていく。
「きゃっ──!」
誰かの悲鳴が、遅れて弾けた。階段にいた生徒たちが一斉に声を上げ、道を開けるように後ずさる。
王太子が慌てて手を伸ばすが、その指先は虚空を掴むだけで、まったく届かない。
ドンッ!!
鈍い衝撃音が、石の階段を震わせた。反響して、上階まで響き渡る。
「ヴィクター様!」
ミレーナが叫び、裾を翻しながら駆け下りていく。
あら。人の婚約者を、ずいぶん親しげに名前呼び。ヴィクター様は地面にぐったりと倒れ、頭から鮮血が流れ出していた。
白い大理石の上に、じわり、と赤が広がっていく。
あまりにも鮮やかなその色に、周囲の生徒たちが息を呑み、口元を押さえ、後ずさる。
誰も近づけない。ただ、見ているだけ。
「大丈夫か!」
王太子も駆け寄り、焦ったように顔を覗き込む。ミレーナは泣きながら彼の手を握りしめ、必死に名を呼び続ける。その声は震えている。
……。
あら、大変。私の婚約者でしたわね。心の中で実況してる場合ではないわ。
いけない、いけない。
軽く息を整え、スカートを押さえながら階段を駆け降りる。
騒然とした輪の中へ、一歩踏み込む。血の匂いが、わずかに鼻を刺した。青ざめたヴィクター様の傍にしゃがみこみ、ミレーナと同じように声をかける。
けれど、私は彼女のように泣かない。ただ、静かに観察する。息はしているわね。
そのとき彼の長いまつ毛が、ぴくりと揺れた。閉じられていた瞼が、ゆっくりと持ち上がる。焦点の合わない瞳が、ぼんやりと天井を映し、それから周囲をさまよう。
そして私と、目が合う。
ぱちん、と。美しい瞳が、大きく見開かれた。
「うわっ!!! セレナ! ……そうだ、セレナだ! ……ぼくは、ヴィクター……だよな?! え? ……あっ、気を失う……ご、めん、セレナ、また……後で……」
――はい?
意味不明なことを叫び、次の瞬間、糸が切れたように、ふっとまた意識を手放した。再び、完全に動かなくなる。
……。
今の、何?




