涙の理由③
榊原洋介。この男の妻は、なぜ殺されたのか。何か引っかかる。動くのは、Mr.Tの情報を得てからだ。
埼玉連続女性殺人事件は、解決したのだから、もう、19歳のちひろに変身する必要はないのだが、俺は毎晩、変身をして、繁華街に出かけた。ハイヒールを履いて、歩く練習をするために。六本木だと、万が一、洋介さんに出会うと気まずいと思い、過ごし慣れている新宿に繰り出していた。夜9時から10時くらいまで、新宿の繁華街を歩いた。ナンパされることにも慣れて、上手に断る術も身につけた。しかし、なかなか、洋介のような好青年はいなかった。自宅に戻り、化粧を落とすのも日課になっている。これを見られるのも、結構恥ずかしかった。
『ちひろちゃん、化粧、上手になったわね。洗顔の後、化粧水、乳液、美容液まで、つけちゃって、完全な女の子になっちゃったね。』
『ママ、女の子って、毎日、大変なのね。』
俺は、服を脱ぎ裸になって、いつものように、ベビーに変身した。
『ママ、お喉乾いた。』
俺はかすみに甘えた。かすみは俺を抱いて、リビングに行き、オムツを履かせ、ベビー服を着せ、哺乳瓶でミルクを飲ませ、お腹をポンポンして、いつものように俺を寝かせつけてくれた。一日の疲れが、一気に取れていく。幸せだ。
朝起きると、スマホにメールが届いていた。Mr.Tからの連絡だ。
『榊原洋介。28歳。居住地は板橋のマンション。現在は一人暮らし。2年前に妻を亡くしている。職業は、高校の教師。現代文の教えている。職場の評判もよく、真面目な男のようだ。
そして、亡くなった妻。名前は、榊原泉美。旧姓は小林。享年24歳。専業主婦であった。子供はいない。
事件は2年前の夏。神奈川県相模原市の森林の中で遺体で発見される。性的暴行の跡があり、衣服を着けていない状態で見つかっている。死因は絞殺。現場に遺留品はなく、また、指紋やDNAなどの採取は出来たが、容疑者の特定に至っていない。』
うーん!目新しい情報は書かれていない。警察も手の打ちようがないのだろう。考えていると、新たにメールが届いた。写真が添付されている。榊原泉美の写真であった。俺は、その写真を見て、心に引っかかるものが何だったのかが分かった。洋介の話だと、俺は亡くなった妻と似ているということだ。写真の中の榊原泉美は、確かに19歳のちひろに似ている。俺が驚いたのは、それだけではない。俺以上に似ている人物がいる。かすみだ。俺の最愛の女性。恋人であり、今は母親として生活している。その、かすみに似ているのだ。単なる偶然なのか。言われてみると、俺はかすみのことを、あまり知らない。知る必要がないと思っていたからだ。その美貌と心があれば十分だと思っていたからだ。
俺は、Mr.Tに返信した。元AGUのコードネームangelこと、大沢香澄について、調べて欲しいと。
俺は、かすみの旧姓すら知らない。既婚者であるが、夫も知らない。本人も、そのことを語ろうとしなかった。だから、あまり詮索しない方がいいと思っていた。いや、何となく聞くのが怖かったというのが本当の理由かもしれない。
裏社会の組織に所属している人間は、自分の身分を隠したり、偽ったりしている者が多い。AGUや俺が以前所属していたJUKUも、同じであろう。それは、自分の身を守るため、家族を守るためである。実際、俺自身についても、詳細は不明になっていたはずだ。
半日ほどで、Mr.Tからメールが届いた。
『大沢香澄については、トップシークレット扱いで、調査は困難であるが、ヒロさんの依頼なので、裏技で調べました。しかし、結局のところ、AGUの幹部も詳しく知る者もいなく、文書も残っていませんでした、力になれなくて、申し訳ありません。』
やはりな。まあいい。かすみのことは、今のままで問題ない。解決するべきは、洋介の妻の事件である。




