第五十九話 鬼嫁の飲み比べ
右前頭部に生えた角の根をカリカリと掻きながら、大きな欠伸を一つ。開いた口から刃のように尖った歯が覗く。
鬼である。鬼がいる。
聞いていないぞポチ神よ。
「どうだ。俺達の側にはオーガ族がいるのだ。お前達の言う人間の力がどれほどのものであろうとオーガ族に敵う訳が無い。俺達はこのお方の力を借りて……」
意気揚々と語り出すオークの長だが、あまり頭には入ってこない。
どうしても彼より、彼の背後。憤るようにずんずんと近付く赤鬼さんに気を取られてしまう。
「最早山の主も竜も恐れることなど無――ブヒッ!?!?」
その赤鬼がオークの長の大柄な体の陰に隠れてしまったかと思うと、ずどん。と重たげな音と共に長の演説が豚らしい鳴き声で締め括られ、その体が崩れ落ちた。
「ウチを起こしておいて無視するとはええ度胸じゃ! おまんはウチの亭主か! 大体ウチは“おーが"じゃのぅて鬼じゃと何べん言うたら解る! この豚っ鼻!」
倒れ伏せるオークの長をげしげしと蹴らう赤鬼の姿は、正に鬼である。
オーク達はおどおどと見守るだけで止めようとしないが、大丈夫なのだろうか? 蹴られる度にビクンビクンと震えているのだが。
「……へっくち」
その行為は可愛らしいくしゃみを皮切りに漸く止まり、赤鬼女はぶるりと震える肩を両手で抱き締めた。
薄着どころか下着姿と変わらんのだ。肉厚なオークや毛深いノールと違って寒いにきまっているだろうに。
「毛布でも出してやろうか?」
「ふん。巣に引っ込んで酒でも飲んでおれば暖まるわ…………って、誰じゃあおまんら!? おい、客が来とるぞ!」
今まで気付いていなかったのか。どれだけ攻撃に集中していたんだ。
尋ねられたオーク達が慌ててブヒブヒフゴォと声を発すると、赤鬼はそれにふんふんと耳を傾ける。
解せないオークの鳴き声では、どのような説明をしているのかが不明瞭で些か不安である。あまり事を荒立てる内容で無ければ良いのだが。
と、心配してみたが、次に鬼の発した言葉はそれを拭い去るに足るものであった。
「何を言っとるのか全然わからんわ!」
アホなのか?
怯えて涙目になるオーク達に憐れみすら覚える。
そこに、地面から声がした。
「その者らは……竜の部下です」
オークの長。生きてたのか。
あの猛攻を受けきるとは見た目通りタフな生き物である。だが、まだ立ち上がることは出来ないようで太い首をアザラシのように上げて言葉を紡ぐ。
「俺達の計画を止める為に来たと」
「竜の……止めにのぅ。ふぅむ」
悩むように指を顎に当てて、俺達を順番に眺める赤鬼。
彷徨く視線がノールの長に定まると、すらりと伸びる赤い足をそちらへ踏み出した。
「うむ。おんしが一番強そうじゃ。勝負は力比べで良いかの?」
肩を慣らすようにぶんぶんと腕を振り始める赤鬼。
ノールの長の顔が青冷めていくように見えた。
「待て待て。何故そうなる」
「うん? おんしらはウチを止めたいんじゃろ? ならば、力づくで止めれば良かろう」
「俺達はお前と争う為じゃ無くて、オークと話し合う為に来たんだ。部外者が勝手に決めるな」
「ウチは旅の途中で此奴らにねぐらを借りた。その義理あればこそ、此度の戦いにも助太刀しようと思うておる者じゃ。無関係でもあるまい。それに、ほれ。ここの長は体調が優れん故、ウチが代わりに話を聞いてやらんとな」
お前が言うな。
「大体にして、何を話し合う必要がある。此奴らは仲間を殺されたと聞いたぞ。仇に報わねばを死んだ者も浮かばれんじゃろう。おんしらが止めようとすることの方がウチには介しあぐねるわ」
心底不思議そうに赤鬼が言う。
それが鬼……いや、魔物の考え方なのか。だが。
「そうかもしれん。だがな、死んだオーク達も自分達が発端で群れが人間達に滅ぼされることになって喜ぶとは思えんぞ」
「人間に滅ぼされる? おんしのような弱っこい人間にか?」
赤鬼がかんらかんらと笑いをあげた。
またかよ。何故魔物は皆、この話題になると笑うのだろうか。形式美か?
「良いか。この世界には星の数ほど人間がいる。その人間は全部で一つの群れで、脅威には一丸で立ち向かう。そして、その中には大きな力を持った奴もいるんだ」
「嘘じゃな。ウチは人と人との争いを知っておる。それに、ウチより強い人間なぞ見たことが無いわ」
そう言うと鬼は再びノールの長へと詰め寄った。
「どうじゃ。おんしの言葉ではウチは止められん。ならば、力づくしかあるまいて。尻尾を巻いて逃げるか。ウチとの勝負に勝つか。おまんらの答えは二つに一つじゃ」
無茶苦茶な理論だ。
鬼という種族は決闘を好むと聞いていたが、もっともらしい理由も無くそれに持っていこうとしてやがる。
しかし、気付いてやって欲しい。ノールの長は既に尻尾を股の内に巻いてしまっていることを。
「マシロよ。この女は言葉で動く類では無い。我が……」
ノールの長が振り絞るように言うが、その先は出ないようである。
「ほぅ。ウチの眼力に怯まんとは見所のある犬っころじゃ」
「犬では無い。俺はノール。ノールの誇りは、振りかざされる剣に……剣に……」
牙で応える。だったと思うが、やはりその先は出てこないようである。
頭の中では先のオークの長への仕打ちを自分に置き換えて再生しているのだろうか。眼には悲壮感が溢れていた。
こんなノールの長に「良し行け!」と命ずるのは鬼畜の所業である。とても俺の口からは言えん。
「待て」
幸いノールの長はまだ決闘を受けてはいないのだ。
折角勇敢に立ち向かおうとしている所悪いが、正直勝負になるとも思えん。が、逃げても状況は変わらん。
「人間が強いことを信じられんと言うが、一度負けてしまえばそうも言えんだろう?」
「マシロ? 何を言わんとしている? ここは我が……我が……ぐぅ!」
落ち着け。その気持ちだけで十分だ。
俺達のやり取りは赤鬼に伝わらないようで、不思議そうに首を傾げてこちらを見上げた。
「わからんか? 俺がお前を負かしてやると言ってるんだ」
「おんしが、ウチをか?」
口端を吊り上げる赤鬼。
その笑みは当然だ。オークの長より弱い俺が土俵に立つと言うのだ。
「あぁ。だが、力比べじゃない」
しかし、不思議空間から取り出した俺の勝負方法に、鬼の表情から余裕が消える。
「コイツで、だ」
「おんし……それは……」
笑みは消え、代わりにゴクリと唾を飲み込む音が響いた。
「勝負は飲み比べ。どうだ、受けるか?」
突き付けたるは食の国の貢ぎ物。多種多様に渡るお酒達。
それを幼子のようにキラキラとした瞳で眺める赤鬼は、首が千切れる勢いで縦に振る。
「おぅおぅ! 受けぬ訳が無いじゃろう!」
思惑通りである。
鬼は力比べと飲み比べの二つを好むと聞いている。
但し、そのどちらを選んでも待つのは地獄。
力比べはオークの長を見れば言わずもがな。飲み比べを選んでも、人より遥かにうわばみな鬼が満足するまで付き合わされると。
俺も酒には弱くないが、とても鬼に勝てるとも思えん。
だから、戦う前に勝つ。
手品師が盤の外で赤竜に勝ったように。
「ここは火の力が強うて気に入っておったが、酒が無いことだけは不満だったんじゃ。ウチは力比べも好きじゃが、酒も大好きでのぅ!」
じゅるりと垂れる涎を拭おうともせずに、視線を酒瓶に突き刺す赤鬼。
まだだ。こちらはあと一手打たねばならん。
「ルールを決めておこう。まず、俺の注いだ酒をお前が飲み、その後に俺が逆。先に酒以外の物を口にするか、潰れた方が負けだ」
「何でもええわ! 早う飲もうぞ!」
「受けたな? これは決闘の申し込みだぞ?」
「応とも! 鬼は約束は破らん! もし負けたらおんしを婿に迎えてやろう!」
いや、それはいらん……が、策は成った。
赤鬼は露とも思っていないだろう。今、自分が負けただなんて。
勝敗は盤の外。
まず勝利を掴み、それから勝負を始める。
それが手品師に倣った俺の戦術だ。
木製グラスを鬼の赤い手に渡して、次に取り出したる一枚の布を口に巻く。
「何をしておるんじゃ? 早う飲ませんか?」
「マスクだ。急かさなくても、今開けるさ」
酒瓶の蓋という封印を解き――息を止めた。
風上に移動する俺を落ち着かない赤鬼の眼が追ってくる。この意味はすぐに解るだろう。
「焦らすのう! 早う早う!」
「慌てるな。すぐに飲ませてやるさ」
瓶を傾けると、忌々しくも透き通った麦色が赤鬼の持つグラスへと溢れ出た。
「おぉ! 見たことの無い酒じゃのぅ! 何と言う酒じゃ!?」
「……ドラゴンブレスだ」
先月に続いて何処かの馬鹿が送ってきた、竜すらも六日酔いに陥れる悪魔の酒である。とくと味わってくれ。
赤鬼は悪魔の劇薬がなみなみと注がれたグラスの縁に顔を近付けると、すんすんと鼻を鳴らした。
どうだ? 俺はそれで記憶が飛んだぞ。
「んんん! 芳しいのぅ! このような濃密な酒の匂いは初めてじゃ! これはよほど上等な酒ではないかの!?」
……何と。普通に嗅ぎきりやがった。
まさか、鬼は竜よりも酒に強いのか? こんな爆発物を普通にたしなむほどに。
だとすれば、非常に不味い。
この一杯を飲まれてしまえば、次は俺の番である。ただの人間である俺が竜の息に耐えられる筈が無い。
「ちょっと待」て間違えた。とっておきの酒があるからそちらを飲もう。と言うより前に、鬼の喉がゴキュゴキュと心地よい音を奏でる。
終わった。いや、ゴシュジンに貰った命をそう簡単に諦めてなるものか。
生き延びるプランを練りあげろ。
こうなれば、先に酒以外の物を飲むか? この飲み比べが大好きな鬼が飲ませてくれるだろうか?
ここはやはり、恥も外聞も捨てて逃げるが勝ちか。
騎士人形を囮に全力の“逃走"。その為にも、今の内にノール達に合図を……。
「ぎゃああぁぁぁ!? 熱ッ!? アヅいッ!? なんじゃあごればあぁぁあづぅ!?」
と、あれ?
考え込んでいる内に、赤鬼が断末魔をあげていた。
これは……ちゃんと効いてるのではなかろうか。この劇薬を飲んだ時の正常な反応であるように思えるが。
「みずッ! みじゅを……ああぁぁぁあ! アヅい! 喉が焼げるぅぅぅ!」
うむ。間違いなく効いている。
嗅いだ時は平常な様子であったにも関わらず、今は正常な反応である。
もしかして、この鬼。匂いにとんでもなく鈍感なのか?
冷静に考えてみれば、オークの巣で暮らせるほどなのだから当てはまるかもしれん。
「みず! みずをぐれぇ!」
さて、そろそろ良いだろうか。
持参の水袋を渡してやると、赤鬼は蓋も開けずに噛み千切り、裂け目から首を突っ込んだ。死にもの狂いとはこのことか。
「水を飲んだな。お前の負けだ」
妖怪水袋になってしまった赤鬼への勝利宣言に返事は無く、声が静かに響いた。
そう。静かである。水を飲む音も止んでしまった。
「……死んだのでは無いか?」
ノールの長が恐ろしいことを口にする。
さぁと血の気が引いた。
意地を張って水を我慢されることを防ぐためにギリギリのタイミングで与えたのだが……まさか、ギリギリアウトの方だったか?
慌てて水袋から引き剥がすと、溢れ出る水と一緒にぐったりとした赤鬼の体重が手に掛かった。
「しっかりしろ赤鬼! 気を確かに持て!」
「……ぅ……ここは……現世かの?」
おお、生きてた。
「閻魔様に……別れの挨拶をし損ねたわ」
どうやら本当にギリギリだったらしい。軽く里帰りさせてしまったようだ。
赤鬼は虚な視線で俺の顔を見上げると、弱々しく肩を震わせる。
「おんしの言う通りじゃった……人間は……恐ろしいのう……あんな怖いものを作る力があるんじゃ」
臨死体験がよほど恐ろしかったのか、赤鬼の手が俺の二の腕を掴んでぎゅうと絞る。
「しかし、おんしはあの酒を飲んどらん……ちと卑怯じゃないかの?」
「そういう言葉はな、勝ってから言うもんだ。敗者のそれは負け惜しみにしかならん」
「……やはり卑怯じゃ」
赤鬼は疲れたように曖昧に笑い。
「ウチの負けじゃわ」
決闘の敗北を認めた。
良かった。正直、卑怯だから認めんと駄々をこねられたらどうしようかと思った。
しかし、これで赤鬼への命令権を得ることが出来た。
オーク達をこいつに押さえて貰えば、心配も無かろう。
「まさか……人間に負けるとは……婿が人間とは……のぅ」
なにかうわ言を呟いて、赤鬼はガクリと気を失ってしまった。
婿が人間とか言っていたが、人妻だったのだろうか?
こんな放蕩鬼嫁と結婚するなど、奇特な人間もいるものだ。む? 何だこの手。離れんぞ?
―To be continued―




