【第5話】歌声は夜風にとけて
黒の騎士団の寮母として働き始めてから、二週間が経った。
ここでの私の仕事は、朝早く起きて朝食の準備をすることから始まり、昼食、夕食の用意、そして約四十人いる団員たちの大量の洗濯や、施設内の掃除と、一日中休む暇もないほど忙しい。
とはいえ、実家の大衆食堂での手伝いや、王都に出てきてからのウェイトレスの仕事で体力には自信があった。ドリスさんが手伝ってくれることもあり、仕事自体は決して苦ではなかった。
ただ、少しだけ困ったことがあった。
一部の団員たちからの、ささやかな嫌がらせだ。突然現れた平民の小娘が寮母になったことが、まだ受け入れられていないのだろう。
例えば、洗濯の時間だ。
四十人分の大量の洗濯物を洗い終え、中庭に干し終わってやっと一息つこうとした絶妙なタイミングで、数人の若手団員がやってくる。
「あ、ごめん。これもお願い!」
彼らがわざとらしく申し訳なさそうなふりをして追加で出してくる訓練着には、たった今つけたような泥が少しだけ不自然に付着している。完全に二度手間になることを狙った、子供のイタズラのような嫌がらせだ。
「はい、わかりました!すぐ洗いますね」
私が文句を言うとでも思っていたのか、満面の笑みで受け取ると、彼らは拍子抜けしたように気まずそうな顔を見合わせて去っていく。
食堂での嫌がらせも、似たようなレベルだった。
黒の騎士団の食堂では、食べ終わった食器は各自で下膳口まで運ぶのが昔からのルールになっているとドリスさんから聞いていた。しかし、私が寮母になってからは、広い食堂のあちこちのテーブルに、ぽつん、ぽつんと食器が一つずつ置かれたまま放置されるようになった。
わざと片付けるための往復回数を増やして、私を疲れさせようという魂胆らしい。
「ふふっ、なんだか実家の弟たちが反抗期だった頃を思い出すなぁ」
私は空になったお皿を一つずつ回収しながら、小さく笑い声を漏らした。実家の双子の弟妹の容赦ないイタズラに比べたら、こんなもの本当に可愛いものだ。こんなことで文句を言ってへこたれる私ではない。
これも私が彼らの信頼を得るための試練だ。そう割り切って、私は黙々と笑顔で仕事をこなしていた。
そんなある日の午後。王都の空が急に暗くなり、バケツをひっくり返したような大雨が降り出した。私は雨漏りや開いている窓がないか、寮内の見回りをしていた。そして、二階の廊下に出たところで思わず足を止めた。
「え?、窓が開いてるじゃない!」
廊下の窓が大きく開け放たれており、強風と共に吹き込んだ雨で、石造りの床が広範囲にわたって水浸しになっていたのだ。ついさっきまで開いていなかったはずなのに。誰かが私が来るタイミングを見計らって、わざと開けたままにしたのだろう。
雨で湿気を含んだ空気が廊下に充満している。こんなところで滑って転んだら危ないし、濡れたまま放置すれば建物も傷んでしまう。
「急いで片付けないと。……はぁ、今が夏で良かったわ」
私は慌てて窓を閉めると、用具入れから雑巾とバケツを持ってきた。夕立で濡れた床に膝をつき、一人で一生懸命に拭き上げを開始する。
「どうしたんだ、これは!」
背後から驚いたような声が聞こえ、振り返ると、そこには団長であるレイモンド様が立っていた。水浸しになった廊下と、一人で床を拭いている私を見て、彼はすぐに状況を察したようだ。
いつもは穏やかな彼の端正な顔立ちが険しくなり、その碧い瞳に明らかな怒りの色が浮かんでいる。
「あいつら、こんな子どもじみたことをやってるのか!今すぐ全員を集めて注意してくる!」
踵を返して団員たちを呼びに行こうとするレイモンド様を、私は慌てて引き止めた。
「待ってください、レイモンド様!お願いですから、怒らないでください」
「しかしこんな嫌がらせを、黙って見過ごすわけにはいかないだろう」
「ここで団長様から叱られたら、きっと私が告げ口したと思い、さらにみなさまとの距離が離れてしまいます。それに、上から押さえつけて無理やり言うことを聞かせても、本当の信頼は得られません」
私がまっすぐに彼の目を見つめて言うと、レイモンド様はハッとしたように目を見開いて立ち止まった。
「私が自分で彼らの信頼を勝ち取りますから。どうか今は、私を見守っていてください」
気丈に微笑んでみせると、レイモンド様は少しの間ためらうように私を見つめ、やがて小さくため息をついた。
そして、彼はおもむろに私の隣にしゃがみこむと、無言のまま私の手から雑巾を奪い取った。
「えっ?レイモンド様?」
「俺も手伝おう。覚えておいてくれ、何があっても、俺は君の味方だ」
そう言うと、彼は不器用な手つきで、しかし力強く濡れた床を拭き始めた。
普段は凛々しく厳しい黒の騎士団の団長様が、私のために制服の膝が汚れるのも構わず、一生懸命になって冷たい床を拭いてくれている。
その真剣な横顔を見つめていると、私の胸の奥に、ぽっと温かい灯りがともったような気がした。
「……ありがとうございます」
私が小さく呟くと、レイモンド様は耳の先を少しだけ赤くしてそっぽを向きながら、さらにゴシゴシと床を拭き続けた。
二人で並んで濡れた床を拭きながら、私はこの不器用で優しい騎士様への感謝と、心地よい温かさを感じていた。
――
その日の夜。
すべての日課を終えた私は、こっそりと寮を抜け出して近くの河原へと足を運んだ。
夏の昼間の熱気がまだわずかに残る王都だが、夜の河原には心地よい涼風が吹き抜けていた。川のせせらぎと遠くで鳴く虫の音が、静寂な夜の空気に溶け込んでいる。空を見上げると、雲一つない夜空に大きな月がぽっかりと浮かび、水面をきらきらと照らしていた。
ここは、私が最近見つけたお気に入りの場所だ。夜のこの時間帯は誰も通らず、気晴らしと発声練習を兼ねて思い切り歌うことができる。
「よし、今日も練習よ」
大きく深呼吸をして夏の夜風を胸いっぱいに吸い込むと、私は静かに歌い始めた。
選んだのは、心を落ち着かせるようなゆったりとしたメロディの曲、『麦穂ゆれる丘』だ。理不尽な嫌がらせを受けてモヤモヤした気持ちも、拭き掃除で疲れた体も、歌に乗せて空へと放つことで不思議とすーっと軽くなっていく。
歌手になるという夢を叶えるために、私は自分で決めてこの王都にやってきた。そして今、レイモンド様という理解者に出会い、目標に向かって着実に歩みを進めている。どんな試練があろうと、絶対に負けない。
明日もまた笑顔で頑張ろう。
そんな決意と祈りを込めて、私は月明かりの下で声を響かせた。私の歌声は涼しい夜風に乗り、川面に波紋を広げるように、王都の夜空へと溶けていった。
――
その頃、河原から少し離れた住宅地にある一軒の家では、若い父親が泣き止まない赤ちゃんを抱きかかえ、部屋の中を歩き回って途方に暮れていた。
「よしよし、どうしたんだい。夏の夜は寝苦しいよな」
背中をトントンと優しく叩いても、赤ちゃんは顔を真っ赤にしてぐずり続けている。そこへ、階下から慌てた足音を立てて母親が駆け上がってきた。
「あなた、窓を開けるわっ」
母親が勢いよく寝室の窓を全開にすると、少しぬるい夏の夜風が部屋の中へと吹き込んできた。
「たまに風がこの歌声を運んでくるのよ。ほら、聞いて」
父親が耳を澄ますと、風の音に混じって、どこからか女性の優しく澄んだ歌声が微かに聞こえてきた。それはまるで、心に直接語りかけてくるような、不思議な温かさを持った歌声だった。
その歌声を聞いた瞬間、あんなに泣き叫んでいた赤ちゃんがピタリと泣き止んだ。そして、心地よさそうに目を細めると、あっという間に父親の腕の中でスースーと寝息を立て始めたのだ。
「不思議な歌声だね……。まるで魔法みたいだ」
「ええ、本当に。この歌声を聞くと、私まで心が穏やかになるの」
若い夫婦は眠りに落ちた赤ちゃんの寝顔を見つめながら、風に乗って届く優しい子守唄にそっと耳を傾けていた。
さらに別の場所。王都西区の高級別荘地の一室では、一人の青年が窓辺の長椅子に腰掛け、開け放たれた窓からの夜風を浴びながら分厚い本を読んでいた。
金色の長髪を後ろで束ねたその美青年は、ふとページをめくる手を止め、窓の外へと顔を向けた。
「また、この声か……」
青年の緑色の瞳が、夜の闇の奥をじっと見つめる。微かに聞こえてくるその歌声は、技術的にはまだ荒削りな部分があるものの、人の心を強く惹きつける圧倒的な魅力と不思議な力を持っていた。
プロの歌手として王都最大の劇場に立つ彼でさえ、この声を聞くたびに胸の奥を強く揺さぶられるのだ。
「本当に、いい歌声だ。……いったい、どんな女性が歌っているんだろうな。この声の主に会ってみたいものだ」
青年は手にした本をパタンと閉じると、夜空に浮かぶ美しい月を見上げた。
まだ見ぬ歌い手の姿に思いを馳せる彼の口元には、穏やかな笑みが浮かんでいた。




