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【第2話】穢れとアリアの歌

あの日、理不尽な理由でダイニング・オリエッタをクビになってから、新しい仕事を見つけるのは想像以上に困難だった。


王都とはいえ、割のいい仕事はそう簡単には見つからない。結局、私がたどり着いたのは大通りから少し離れた裏路地にある酒場だった。ここで給仕の仕事を始めてから、すでに二ヶ月が経とうとしていた。


私が働く店は、通りに面した木造のテラス席がメインの、とても開放的な造りになっている。常連客も多くアットホームな雰囲気で、実家の小さな大衆食堂にどこか似ている。私にとっては気取らずに働けるこのお店の方が、性に合っているのかもしれない。


ただ、現実的な問題として、収入は以前と比べてかなり減ってしまった。王都の高い物価で生活すると、日々の暮らしで精一杯だ。


このままでは、音楽院の高いレッスン料を貯めるなんて夢のまた夢になってしまう。焦る気持ちがないと言えば嘘になるけれど、今はとにかく目の前の仕事を頑張るしかなかった。


お店は今日も朝から活気に満ちていた。夜勤明けで一杯飲んでいく労働者の人たちや、休日の昼下がりを楽しむ常連客たちで、テラス席は賑わいを見せている。


「アリアちゃん、今日も可愛いね」


ジョッキを片手に陽気に声をかけてきたのは、常連客の一人だ。


「ありがとうございます。でも、そんなに褒めていただいても何も出ませんよ」


私が笑顔で言葉を返すと、テーブルからはどっと笑い声が起こった。私はすっかり、この酒場での仕事と常連客たちとのやり取りに慣れていた。


朝から立ちっぱなしでフロアを駆け回り、太陽が西に傾き始めた頃、夕方のシフト交代の時間を迎えようとしていた。


「いらっしゃいませ。いつもありがとうございます、オルドさん」


いつものように来店した常連客のオルドさんに声をかけた。彼は体格が良く、いつも豪快に笑う気さくな人だ。しかし、今日の彼はどこか様子がおかしかった。


「あ、ああ……」


私の声かけに対する返事も上の空で、表情はどんよりと暗く、目つきには妙な鋭さがあった。いつもなら冗談を言って笑わせてくれるのに、今日は口数も少なく、一人でテラス席の隅に座り込んで強いお酒をあおっている。


心配になった私は、カウンターの奥でグラスを磨いているオーナーにこっそりと耳打ちをした。


「オーナー、オルドさん……なんだか今日、少し様子がおかしくないですか?」


オーナーは手を止め、心配そうにオルドさんの背中を見つめて小さくため息をついた。


「ああ、時々ああなるんだ。彼は元冒険者でね。現役時代に魔獣から受けた穢れ(けがれ)のせいで、時々ひどく情緒が不安定になるんだよ」


「穢れ、ですか……」


その言葉を聞いて、私は息を呑んだ。


穢れの正式な呼び名は『瘴気汚染』という。瘴気汚染とは、魔獣が放つ瘴気に触れることで身体や精神に深刻な不調をもたらす、一種の病のようなものだ。


瘴気に汚染されると徐々に生命活動が弱くなり、寿命も縮んでしまうと聞いている。さらに悲しいことに、世間の一部の人達は穢れが伝染するものだと信じ込んでおり、穢れを受けた人達を忌避の目で見ているのだ。


ダイニング・オリエッタにやってきた黒の騎士様が浴びせられていた心ない言葉を思い出し、私の胸はチクリと痛んだ。


「お疲れ様でした!」


夕方の交代のスタッフがやって来たので、帰り支度を終えた私が店を後にしようとした、まさにその時だった。


ガシャーン!!


グラスが床に叩きつけられ、派手に割れる音が店内に響き渡った。驚いて振り返ると、テラス席にいたオルドさんが立ち上がり、隣の席に座っていた見知らぬ、お客様の胸ぐらを掴んでいた。


「どいつもこいつも、俺をバカにしやがって!」


オルドさんは血走った目で怒鳴り散らしている。酒に酔っているのもあるのだろうが、明らかに普段の彼ではなかった。


「ちょっと、オルドさん!やめてください、落ち着いて!」


私が慌てて止めに入ろうとすると、オルドさんはさらに声を荒げた。


「うるさい!お前も、どうせ心の中では穢れを受けた俺をバカにしているんだろう!俺に近づくな!」


ドンッ!


「きゃあっ!」


オルドさんは、止めに入った私を強く突き飛ばした。私は体勢を崩し、テラス席の隅に積まれていた空の酒樽に激しくぶつかった。


ガガガガッ……ガシャーン!!


積み上げられていた酒樽が崩れ、私の上に落ちてくる。


「ああっ……!」


私は目を瞑り、身を竦めることしかできなかった。


だが次の瞬間、衝撃ではなく、何かを切り裂くような鋭い音が響いた。


ザシュザシュザシュッ……!


何かが空を切る音。そして、私の体を襲うはずだった酒樽は、空中で無数の木片となり、私の周りに舞い散った。


「え……?」


恐る恐る目を上げると、そこには、私の前に背を向けて立つ一人の男性の姿があった。


深い夜のような艶やかな黒髪。凛とした後ろ姿。


彼は、ゆっくりと剣を鞘に納める。


チャキッ。


その音と共に、彼が振り返った。


私を救ったのは、あの黒の騎士様、レイモンド様だった。


彼の碧い瞳は、ダイニング・オリエッタで見た時よりも、ずっと力強く、そして心配そうに揺れていた。


「大丈夫かい?」


その声を聞いた瞬間、私の胸はドクンと大きな音を立てた。


以前見た時の、疲れ切った諦めのような表情ではない。


凛々しく、力強い騎士としての姿。そして、私を守ってくれた、その圧倒的な強さと優しさに満ちた声。


「は、はい……」


レイモンド様は私を一瞥した後、オルドさんへと視線を向けた。


「突然なんだお前は!き、騎士か?!騒ぎをおこした俺を、捕まえにきたのか!」


彼は自分自身の感情をまったく制御できていないように取り乱していた。これが、穢れがもたらす影響なのか。いつも優しくて面倒見のいいオルドさんが、こんな風に苦しんでいるのを見るのは辛かった。


何とかして彼を落ち着かせたいが、暴れる彼を力で止めることなんて私にはできない。でも、このまま放っておくことは絶対に嫌だ。そんな私にできることは、結局一つしかなかった。


私は深く息を吸い込み、彼の荒ぶる心が少しでも安らかになるようにと強く願いながら、歌を歌い始めた。


選んだのは『星屑を編む舟』という、私の故郷に伝わる穏やかな子守唄だ。幼い頃、熱を出して苦しんでいた双子の弟妹を看病しながら、何度も何度も歌った曲だった。


どうか、オルドさんの苦しみが和らぎますように。優しい光が彼の心に届きますように。


私の歌声が響き渡ると、騒然としていた酒場が水を打ったように静まり返った。お客様たちが驚いたように顔を上げ、私の歌に耳を傾けてくれている。暴れていたオルドさんも動きを止め、信じられないものを見るような目で、私をじっと見つめながら歌を聞いてくれていた。


ここにいるみんなに、そして苦しんでいる彼に、安らぎを与えたい。


私は祈りを込めて、力強く、そして優しく歌い続けた。


「や、やはり……君は……」


レイモンド様は私を見つめながら、何かを呟いていた。


その時だった。


私の体から、淡く温かい光がふわりと溢れ出したのだ。光は波紋のように広がり、瞬く間に酒場のテラス全体を優しく包み込んだ。


「え?いったい何?」


私自身も、自分の体から溢れ出た光に戸惑ってしまった。しかし、その幻想的な光はほんの数秒でふっと消え去り、元の活気ある酒場の風景へと戻った。


「なんだったんだ、今のは……?」


お客たちが不思議そうに顔を見合わせ、ざわめき始めている。


「ま、まさか……」


テラス席の中心で、オルドさんが自分の両手を見つめながら震える声で呟いた。彼の顔からは先ほどの険しい表情がすっかり消え去り、まるで憑き物が落ちたように穏やかになっていた。


「穢れが……穢れが消えた……」


信じられないといった様子で、オルドさんは何度も自分の体をさすっている。何が起きたのか、私にはまったく分からなかった。けれど、オルドさんの瞳には以前のような優しい光が戻っていた。


「アリアちゃんの歌を聞いたら、急に心が晴れ渡ったんだ。体も嘘みたいに軽い。どうやら俺の中に巣食っていた穢れが消えたようだ……。ありがとう、きっと君の歌のおかげだ」


オルドさんは目に涙を浮かべながら、私に向かって深く頭を下げた。


私の歌がオルドさんの穢れを払っただなんて、到底信じられなかったけれど。


でも、苦しみから解放され、以前の明るい彼に戻ってくれたことが、私にはとても嬉しかった。

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