【第1話】ウェイトレスと黒の騎士
「いらっしゃいませ、ご予約の二名様ですね。こちらのお席へどうぞ」
王都の中心部に店を構えるレストラン、『ダイニング・オリエッタ』は、今日も大盛況だ。
広い店内は香ばしい肉の焼ける匂いと、ワイングラスを傾ける人々の楽しそうな話し声で満たされている。幅広い価格帯で上質な料理とお酒を楽しめるこの店は、少し背伸びした平民から貴族まで、連日多くの客で賑わっていた。
私は厨房から出来立ての料理をトレイに乗せ、フロアを忙しく立ち回る。亜麻色の髪を仕事の邪魔にならないよう高い位置でポニーテールに結び、紺色の上下に白いエプロンというシンプルな制服を身にまとっていた。
背はやや低いけれど胸元が豊かなせいか、支給されたブラウスが少し窮屈に感じることがあった。
そんな私は、お客様の前では常に笑顔を絶やさないように心がけている。若草色の瞳を細めてにっこりと微笑むと、お客様も微笑み返してくれることが多かった。
私は歌手になるという夢を抱いて、田舎の学園を卒業した三ヶ月前にこの王都にやってきた。けれど、現実はそう甘くはない。
独学で歌を歌ってきただけの私が、いきなりプロの舞台に立てるわけがなかった。まずは王都でプロのレッスンを受けようと音楽院を調べてみたのだが、そのとんでもない受講料を見た瞬間、ひゅっと変な声が出てしまったほどだ。
おまけに王都の家賃や生活費などの物価は、地元とは比べ物にならないほど高い。実家には十歳も年の離れた双子の弟テオと妹リリーがいる。両親は小さな大衆食堂を営んでいて決して裕福とはいえないし、幼い弟妹のためにも仕送りを頼むなんて絶対にできない。
そもそも、生活費は自分でなんとかするからと、親の反対を押し切って王都に出てきたのは私なのだ。
「はぁ、いつになったら歌の勉強ができるのやら……」
とため息をつきたくなる時もあるけれど、このお店で雇ってもらえたのは本当に幸運だった。実家の食堂で小さい頃から手伝いをしてきたから、接客と料理の基礎が身についていたおかげだ。王都の一等地にあるこのお店のお給料は、他のお店と比べてかなり良かった。おかげで少しずつではあるが、レッスンに通うための貯金もできている。
「よし、今日もがんばろう!」
気合を入れ直したその時、カランカラン、と入り口のドアが開き、一人のお客様が店に入ってきた。
「いらっしゃいませ。ご予約はされていますか?」
私が声をかけると、そのお客様はゆっくりと首を振った。
「いいや、予約はしていない」
低く、どこか疲れを滲ませた声だった。
見上げると、そこには目を奪われるほどの美しい男性が立っていた。スラっと背が高く、深い夜のような艶やかな黒髪に、吸い込まれそうなほどに澄んだ碧眼。顔立ちは、今まで見たどんな貴族の男性よりも端正で、思わず見とれてしまいそうになる。
「かしこまりました。お席に空きがありますので、こちらへどうぞ。あ、マントをお預かりいたします」
私が手を伸ばすと、彼は少し躊躇うように身を引いた。
「いや、汚れているから大丈夫だ」
「お気になさらないでください」
私が笑顔でそう返すと、彼は少しだけ驚いたように私の瞳を見つめ返した。
「そうか。じゃあ……ありがとう」
そう言って彼が私に預けたのは、ところどころ泥や煤のようなもので薄汚れた、黒いマントだった。
その黒いマントを手にした瞬間、店内の空気がわずかに変わったのを感じた。彼を席へ案内してフロアを歩いていると、すれ違う客たちがヒソヒソと声を潜めて囁き合っているのが耳に届く。
「おい、あの制服。黒の騎士団だぞ」
「やだ、穢れ(けがれ)がうつらないかしら。こっちに来ないでほしいわ」
(そうか、この騎士様は黒の騎士団の方なんだ……)
彼もその言葉が聞こえているはずなのに、表情一つ変えずに歩いている。きっと、こんな心ない言葉を日常的に浴びせられているのだろう。
私は彼を、他の客の好奇や嫌悪の視線が届きにくい、フロアの端の落ち着いた席へと案内した。彼が椅子に腰を下ろしたのを見計らって、私は静かに声をかけた。
「騎士様は、周りの声は気にならないのですか?」
「君こそ、……俺のことが気にならないのか?」
彼は逆に私に問い返してきた。その瞳には、微かな諦めのような色が混じっていた。
「はい、全然。いつも私たちの街を守ってくださって、ありがとうございます!」
私が心の底からの感謝を込めてそう言うと、彼は少し驚いたような顔をした。その無防備な表情が少しだけ可愛らしく思えて、私は自然と笑顔になった。
「ご注文は何になさいますか」
私がメニュー表を騎士様に渡そうとした、その時だった。
「いったい何をしているのですか!」
背後から鋭い声が響き、男性主任が私の手からメニュー表をひったくるように取り上げた。
「え?……お客様のご注文を伺おうと……」
「黒の騎士団を店に入れてはいけません。他のお客様が不快に思われます」
主任は冷酷な目で騎士様を一瞥し、私に向かって声を荒げた。
「そんな!このお店の経営方針は……」
「黙りなさい。ただのウェイトレス風情が私に楯突くのですか?当店には黒の騎士に出す料理はありません」
主任の理不尽な言葉に、私は怒りで唇を噛み締めた。権力や理不尽な差別に屈するのだけは絶対に嫌だ。私が言い返そうとした時、騎士様が静かに口を開いた。
「討伐帰りで、丸一日以上飲み食いしていないんだ。騎士団寮までまだ距離がある。水を一杯だけもらえないか」
その言葉には、隠しきれない疲労が滲んでいた。しかし主任は鼻で笑い、冷酷に言い放った。
「……では、水を飲んだら、さっさと出て行ってください」
そう吐き捨てて、主任はその場を去っていった。私は悔しさと申し訳なさで胸がいっぱいになりながら、マントを彼の向かいの席に置いて、急いで厨房へと向かった。
グラスになみなみと冷たい水を注ぎ、そして私は自分の鞄が置いてある棚を開けた。そこには、今日の私のまかない用のお弁当が包まれていた。
実家の大衆食堂のレシピで作った、厚切りのベーコンとたっぷりの野菜を挟んだ特製サンドイッチだ。私はそれを迷わずお皿に乗せ、水と一緒に騎士様の元へと急いだ。
コトッ。
テーブルに置かれたそれを見て、騎士様は不思議そうに目を細めた。
「これは……?」
「お水とサンドイッチです。私が作った自分用のまかないですので、お代は結構です」
私がそう言うと、騎士様はハッとして私を見上げた。
「それでは君の食事が……」
「私はさっき味見で別のものをたくさん食べたので、どうしようか困ってたんです。だから、食べていただけると、とても助かります」
当然嘘だった。お腹はペコペコだけれど、目の前で丸一日何も食べていないと言う人を放っておくことなんて、絶対にできない。彼は私の嘘を見透かしたように少しだけ目を伏せ、そして小さな声で呟いた。
「……ありがとう、感謝する」
私は彼がサンドイッチに手を伸ばすのを見届けてから、仕事に戻るために他のテーブルへと注文を取りに向かった。
それからしばらくして、フロアの奥から怒鳴り声が聞こえてきた。
「あなた、まだいるんですか!」
主任の声だった。私は嫌な予感がして、慌てて騎士様の席へと戻った。主任は空になった皿を指差して、私をキッと睨みつけた。
「あなたですね、勝手に料理を提供したのは。ここはもういいですから、厨房の片付けにいきなさい。そしてあなたも、今すぐに退店してください」
主任の怒りは頂点に達していた。これ以上私が反論すれば、火に油を注ぎ、騎士様にまでさらなる迷惑をかけてしまうかもしれない。
私は悔しさで涙が出そうになるのをぐっと堪え、騎士様を残して厨房へと下がった。
――
カランカラン、……パタン。
重い木の扉が閉まる音を背後に聞きながら、店を追い出されるように出た俺は、冷たい夜風を浴びながら小さくため息をついた。
「はぁ……さっきのウェイトレスの娘。俺のせいで怒られてしまったな……。また会えるだろうか……」
黒の騎士団である俺に偏見を持たずに優しく微笑みかけてくれたあの少女が、俺のせいで理不尽な扱いを受けてしまった。
気がかりで店の前から動けずにしばらく立ち尽くしていると、店の横の薄暗い路地から、ガサガサと物音が聞こえた。そちらに目をやると、厨房につながる勝手口のドアから、鼻歌を口ずさみながら大きなゴミ袋を運ぶ女性の後ろ姿が見えた。
あのポニーテール。間違いない、彼女だ。
俺は吸い寄せられるように路地へと歩みを進めた。そして、彼女の口ずさむその優しく透き通った鼻歌が、しっかりと俺の耳に届いた瞬間だった。
奇跡が起きた。
「こ、これは……」
俺は思わず息を呑んだ。
一瞬だけ、本当に一瞬だけだが、俺の視界が元に戻ったのだ。
「え?……あ!さっきの騎士様」
俺の呟きに気づいて振り返った彼女は、目を丸くして少し驚いていた。
「驚かしてすまない。さっき口ずさんでいた歌は?」
俺が尋ねると、彼女は少し恥ずかしそうに頬をかいた。
「あ、……聞いてらしたんですね。……恥ずかしいな。さっきのは私の地元に伝わる歌で、戦いに行く家族や友人が無事に帰ってくることを祈る歌です。追い出してしまって申し訳ないなと、騎士様のこれからの無事を祈りながら歌っていました」
彼女は俺のために、俺の無事を祈って歌ってくれていたのか。その事実が、疲れきっていた俺の心を温かく包みこんだ。
「そうか、ありがとう。……すまないが、もう一度歌ってもらえないだろうか?」
藁にもすがる思いでそう頼んだが、彼女は困ったように微笑んだ。
「え……いや、さすがに少し恥ずかしいです。……ごめんなさい」
照れくさそうに下を向いてしまった彼女を、これ以上困らせるわけにはいかない。彼女の優しさに触れ、その照れた可愛らしい笑顔を見た俺は、胸の奥に今まで感じたことのない不思議な愛おしさのような感覚を覚えていた。
「俺はレイモンド・ランカスターだ。君の名前を聞いてもいいだろうか?」
「アリアです。平民なので姓はありません」
「そうか。ありがとうアリア。君のおかげで今日は良い日になった。後日あらためてお礼をさせてくれ」
俺はマントを翻し、黒の騎士団の寮への道へと歩きはじめた。
その足取りは、店に入った時よりもずっと軽やかだった。
――
ガチャ……カランカラン。
数日後のダイニング・オリエッタ。
「あ、すみません。まだ営業時間外なのですが……。あ、あなた様は!も、申し訳ございません、しばらくお待ちください!……支配人、支配人!」
店内に足を踏み入れた一人の青年の姿に、準備をしていたスタッフたちはみな慌てふためいた。
「お、お待たせいたしました!ローレンス・オーナー。本日はどういったご要件で……」
血相を変えて飛んできた支配人は、栗色の髪に碧眼を持つ長身の美青年の前で深く頭を下げた。
「アリアという名のウェイトレスの女性を探している。呼んでもらえるだろうか?」
ローレンスの静かだが威圧感のある声に、支配人は困惑したように店内を見回した。
「アリア……ですか?私は現場のスタッフのことはわからないもので、現場主任に聞いてまいります。とりあえず、お席へ」
ローレンスがテーブル席に腰を下ろすと、スタッフたちが遠巻きにその様子を伺っていた。
「きゃっ、白の騎士団のローレンス副団長よ!はぁ、素敵ね……」
「本当に、このお店のオーナーだったのね。私ここで働いていてよかった!」
代わるがわる見物のスタッフが入れ替わった後、支配人と現場主任の男が連れ立って、ローレンスの元に現れた。
「……女性が見当たらないようですが?」
ローレンスが冷ややかに問うと、現場主任の男が勝ち誇ったような顔で口を開いた。
「アリアでしたらクビにいたしました」
「……クビ?」
「はい」
「行き先は?」
「わかりません」
主任は悪びれる様子もなく答えた。
「アリアはたかがウェイトレスでありながら、私の命に背いて黒の騎士を店に入れ、さらに勝手に水と食事を提供したのです。この店の品格を落としかねない行為を行ったのです。元々少し容姿が良いだけで雇われた、ただの田舎娘です。クビは当然かと!」
「……なるほど。……支配人、この店の経営方針は、なんだっただろうか?」
ローレンスは主任の言葉を無視し、支配人へと視線を向けた。
「は、はい。マナーを守れるのであれば、身分や立場に関係なく、全てのお客様に平等のサービスを提供する。……です」
「その通りです。残念ながら今回はそれを守れなかったようだ。はぁ……主任、君は今日限りでクビだ」
静かに、しかし絶対的な命令として告げると、ローレンスは立ち上がり入り口に向かって歩き出した。
「お、お待ちくださいオーナー!」
主任は慌ててローレンスにすがりついた。
「この店に来た黒の騎士は、討伐後の薄汚れた格好だったのです。きっと魔獣から穢れ(けがれ)を受けていたはずです!私は他のお客様を守ったといっても過言ではないかと!」
必死に弁明する主任の言葉を聞いた瞬間、ローレンスの纏う空気が氷のように冷たく張り詰めた。彼は見下ろすように、ひどく冷たい目で主任を睨みつけた。
「お前が言う、その穢れた騎士は、私の愛する弟だ……」
カランカラン……パタン。
ローレンスが店を出ていくドアの音が響く。
主任は絶望に顔を歪ませ、それ以上何も言えずに、その場にへたり込んでしまった。




