【第18話】二つの選択
冬も終わりに近づく、ある日の黒の騎士団寮。
朝の冷え込みは厳しいものの、日中の日差しにはわずかに春の気配が混じるようになってきた。
私は寮母としての午前の仕事を終え、ふうっと小さく息を吐いた。
その時、食堂の隅でレイモンド様とセドリック様が真剣な顔で話をしているのが見えた。
「おう、団長。ちょっと話があるんだけどいいか?」
「セドリックさん。はい、大丈夫ですが……」
レイモンド様はセドリック様に促され、二人は連れ立って裏庭の方へと移動していった。
珍しく神妙な雰囲気の二人に少しだけ首を傾げたものの、私は自分の仕事に戻ることにした。
「あら、しまったわ。洗濯カゴを裏庭へ置いてきちゃった」
午前中に干した洗濯物を取り込んだ際、うっかりカゴの一つを物干し台のそばに置き忘れていたことに気がついた。
私は急いでカゴを取りに裏庭へと向かった。
裏庭に続く勝手口のドアを少し開けた時、すぐ先の壁の向こうから二人の低い声が聞こえてきた。
「話ってのはアリアのことだ」
セドリック様の口から自分の名前が出たことで、私はビクッと肩を震わせ、思わずドアの影に身を潜めてしまった。
立ち聞きなんて絶対にいけないことだとわかっている。
けれど、二人の会話の内容がどうしても気になってしまい、その場から離れることができなかった。
「レイモンド、お前はアリアのことをどう思ってるんだ?」
セドリック様の単刀直入な問いかけに、私は息を呑んだ。
短い沈黙の後、レイモンド様のまっすぐな声が響いた。
「それは……もちろん好きです」
ドクンッ!
私の心臓が大きく跳ねた。
レイモンド様が、私に好意を持ってくれている。
今までも、彼のふとした優しさや、私を見つめる碧い瞳の熱に、なんとなくそんな気配を感じてはいた。
けれど、レイモンド様の口からはっきりとその言葉を聞けたことで、私は胸がいっぱいになり、これ以上ないほどの幸せな気持ちに包まれた。
「気持ちは伝えたのか?」
「いいえ。まだです」
そうだ。レイモンド様はずっと私を大切にしてくれているけれど、直接好意を伝えていただいたことはない。
「俺はお前たちのことは応援してるつもりだ。だが、お前たちが結ばれるためには、超えなきゃならんことがある。わかるか?」
「身分差のことですか?」
「そうだ。お前は次男とはいえ、侯爵家の人間だ。一方アリアは平民だ」
セドリック様の言葉に、私ははっと現実に引き戻された。
レイモンド様は国内でも非常に有力な貴族である、ランカスター侯爵家の次男であり、黒の騎士団の団長。
対する私は、田舎の大衆食堂の娘で、平民だ。
超えられない身分の壁が、私たちの間には確かに存在している。
「ですが、貴族と平民が結婚できないなんて法律はないはずです」
レイモンド様が少し食い下がるように言った。
「たしかにそんな法律などない。だが、貴族社会では暗黙の了解ってもんがある。お前もわかってるんだろ?」
「……じゃあ、俺が平民になれば」
「そんなことアリアが許すと思うか?だが何も結婚できないってわけじゃない。おそらくアリアを側室として迎えるのであれば、ランカスター家も認めてくれるだろう」
「つまり正妻として、アリア以外の貴族令嬢と結婚しろと?」
「そうなるな」
レイモンド様が、他の女性と結婚する。
その言葉を聞いた瞬間、私の心に冷たくて黒い霧が立ち込めるような感覚に襲われた。
レイモンド様の隣で微笑む、見知らぬ貴族の女性の姿が頭をよぎり、胸が締め付けられるように痛む。
「そんなこと、考えられません」
レイモンド様が強い口調で否定した。
その言葉に少しだけ救われた気がしたけれど、セドリック様の次の言葉が、私をさらなる混乱へと突き落とした。
「まぁ、お前ならそう言うだろうな。……だが、アリアを正妻として娶る方法もあるにはある」
「え?そんな方法があるんですか?」
「ローレンス様によればアリアは歴代最高峰の力がある聖女だ。聖女や聖者ってのは、貴族の身分をもこえる地位だ。つまりアリアを正式に聖女として認定してもらうんだ」
「アリアが正式な聖女に……。そうすればアリアとだけ婚姻することができるんですよね?」
「ああできる。だが正式な聖女になるということは、教会に所属するということだ」
「つまり、騎士団寮から出ていくということですね」
「それだけならまだいい。問題は、聖女は聖女でなければならないということだ。つまり正式な聖女に認定されれば、歌手になることはできない。それに聖女はお布施で祈るんだ。俺はアリアが、金が物をいう世界で生きていけるとは思えない」
歌手になることはできない。
その残酷な事実が、頭の中で何度もこだました。
私は頭の中がぐちゃぐちゃになりそうだった。
平民のままでいれば、レイモンド様の正妻になることは絶対にできない。
もし正式な聖女になれば、身分を超えてレイモンド様の正妻になれるかもしれない。
でもそれは、私が幼い頃からずっと抱き続けてきた、歌で誰かを癒す歌手になるという夢を完全に捨てることを意味するのだ。
「お前が気持ちを伝えるということは、アリアにこの事実を伝えなければならないということだ。よく考えてアリアに話すんだ」
「は、……はい」
私はカゴを取りに行くことも忘れ、足音を忍ばせてその場から逃げ出した。
いつの間にか私は自室に戻り、ベッドの上にへたり込んでいた。
私は今まで、何を勘違いしていたんだろう。
レイモンド様や騎士団のみなさまに優しくされ、憧れのジュリアン様のレッスンを受け、自分の夢に向かって進んでいると信じていた。
いつか歌手になって、そしてレイモンド様と結ばれる未来を、勝手に夢見てしまっていた。
あの時、ダイニング・オリエッタの路地で鼻歌を口ずさまなければ、今でもきっと裏路地の酒場で日銭を稼ぐだけの、ただの平民の女だったのだろう。
いや、それでも私は十分に幸運だ。
このままジュリアン先生のレッスンを受け続ければ、いつか歌手になれるかもしれない。
もし歌手になって平民のままでいたとしても、側室としてレイモンド様と一緒になれる道はあるのだ。
愛する人の二番目でもいい。歌手になれるなら。
あるいは、歌手の夢を捨てて聖女になれば、彼の一番になれる……。
「何を欲張ってるのかしら……私は……」
どちらかを選べば、どちらかを失う。
自分にとって一番大切なものは何なのだろうか。
ぐるぐると巡る思考は答えを出してはくれず、この日はずっと眠ることができずに、ただ暗い天井を見つめ続けていた。
――
数日後の日曜日。
「やあ、お帰りアリア。一緒に散歩にいかないか?」
ジュリアン様のレッスンから帰った私は、レイモンド様から散歩に誘われた。
「はい。ご一緒いたします」
以前であれば、自然と手を繋いでいた私たちだったが、今日は触れ合うこともなく、少しよそよそしい距離を保ったまま河原までの道を歩いた。
もうすぐ冬が終わる気配がしているが、この季節の川辺はまだ少し冬の寒さが残っていた。
「アリア。君に話があるんだ」
立ち止まったレイモンド様のその言葉を聞いた瞬間、ドクドクと私の心拍数が跳ね上がった。
レイモンド様は一体何を言おうとしているのだろうか。
「俺の側室になってくれないか?」だろうか。
それとも「聖女の認定を受けてくれないか?」だろうか。
そのどちらの言葉も、今の私に受け入れることはできない気がした。
「わ、私もお話があったんです!先に私の話を聞いていただけますか?」
私は自分でも何を言っているのだろうかと思いながら、必死に言葉を遮った。これはただの現実逃避だった。
「さ、最近、ジュリアン先生がすごく上達したって、褒めてくださるんです。今の調子だと、ひょっとしたら近々デビューできるかもしれません!田舎から出てきて、もうすぐ一年です。こんなに早く歌手になれるかもしれないなんて、これも全部レイモンド様のおかげです。本当にありがとうございます!」
私のその言葉を聞いたレイモンド様は、しばらく黙ったまま何かを思案しているようだった。
気まずい沈黙が流れる。私は自分の勝手な振る舞いを後悔した。
「それはよかった。実は最近のレッスンの状況が聞きたかったんだ。アリアがデビューするのは騎士団全員の夢だ。最初の舞台は絶対にみんなで見に行くよ」
レイモンド様はそう言って、とても優しく微笑んだ。
――
日曜のレッスンから戻ったアリアを、俺は散歩へと誘った。
人気を避けて訪れた河原は、まだ冬の寒さが少し残っていた。
「アリア。君に話があるんだ」
俺は勇気を振り絞って、彼女へ語りかけた。
『俺の今の気持ちを聞いてほしい。俺はアリアのことが好きだ。愛している。君と一緒になりたいと思っている。でも君の歌手への夢、身分の差や聖女のこと、いろいろ考えなければいけないことがある。でも俺は君のためなら、そのすべてを掴んでみせるつもりだ。もし君が俺のことを思ってくれているのなら、俺を信じて付いて来てくれ』
そう言おうとした矢先に、彼女が俺の言葉を遮った。
「田舎から出てきて、もうすぐ一年です。こんなに早く歌手になれるかもしれないなんて、これも全部レイモンド様のおかげです。本当にありがとうございます!」
俺は言葉を飲み込んだ。
そうだ、アリアは歌手になるために王都にきたんじゃないか。もう少しで俺は自分の気持ちだけを押し付けてしまうところだった。
アリアは歌手になる。
つまり聖女にはならないということだ。
俺はアリア以外の女性と結婚するなんて考えられない。彼女を側室にするくらいなら、いっそ身を引くべきだ。歌手となった彼女と俺が結ばれることは、きっとないのだろう。
「それはよかった。実は最近のレッスンの状況が聞きたかったんだ。アリアがデビューするのは騎士団全員の夢だ。最初の舞台は絶対にみんなで見に行くよ」
胸の奥が締め付けられるような痛みを隠し、俺はただ、そう笑顔で答えることしか出来なかった。




