【第19話】スタンピード
『穢れの森』
それは王都の西の外れにある、瘴気を帯びた禁足地だ。人々が足を踏み入れることを固く禁じられたその森は魔獣がはびこり、常にどす黒い霧に包まれ、不気味な静寂を保っている。
この恐ろしい森から王都を守るため、国で最も偉大とされる聖者たちが強力な結界を展開し、魔獣の脱走を防いでいた。
しかし今、その結界の一部に生じていた大きなひび割れに向け、森の奥深くからおびただしい数の魔獣の群れが押し寄せようとしていた。
ドドドドドドドドド……。
地鳴りのような足音が森を震わせる。理性を失い、瘴気に狂った異形のものたちが、結界のほころびへと殺到する。
ガァン!ガァン!ガァン!
バキィィィン!!
硬質なガラスが砕け散るような鋭い音と共に、ついに聖者の結界が破られた。
王都を守る最後の壁を打ち破った魔物の大群は、まるで堰を切った濁流のように、王都を目指して猛然と突き進んでいった。
――
春の足音が近づく王都の西区。
澄み切った青空の下、人々は爽やかな朝の空気を胸いっぱいに吸い込み、穏やかな一日を始めようとしていた。
しかし、その平和な街並みを、黒い魔獣の群れが無残に踏み荒らし、濁流のように押し寄せてきたのだ。
「ま、魔獣だ!魔獣の群れだ!」
「スタンピードだ!早く騎士団へ知らせろ!」
穢れの森と同じ方角に位置する西区には、緑豊かで閑静な住宅街が広がっている。
瘴気に汚染された魔獣は、人々の生きた気配に強く引き寄せられる習性がある。そのため、怒り狂った群れは住宅街を抜けて西区の大通りをまっすぐに走り抜け、今まさに、人口密度が最も高い王都の中心街へと到達しようとしていた。
逃げ惑う人々の悲鳴と、魔獣の群れの地鳴りのような足音が、美しい王都の朝を引き裂いていく。
「いいかお前達!ここで食い止めるぞ!」
王都の警備と治安維持を司る、青の騎士団。総勢約三千人という王国最大の規模を誇る彼らは、今まさに中心街の主要な道路の封鎖に尽力していた。
彼らの作戦は、大通りを封鎖して魔獣の群れを一箇所に追い込み、そこで殲滅するというものだった。
「よし。報告では魔物の群れはうまく誘導され、この時計台広場に向かっているようだ」
討伐の任を受けた部隊が、王都の中心にある広大な時計台広場で陣形を組み、魔獣を待ち受ける。
広場周辺の市民の避難はすでに完了しており、逃げ遅れた人々は広場を囲む建物の上層階から、その恐ろしい光景を息を潜めて、不安そうに見下ろしていた。
「ここからは俺が全体の指揮をとる。いいか、相手が魔獣であっても、所詮は知能が低いたかが動物だ。普段の厳しい対人戦の訓練で鍛え上げられている我々の敵ではない」
自信に満ちた声で部隊を鼓舞するのは、青の騎士団の部隊長であるワイアットだった。子爵家の令息である彼は、以前エスターを街で無理やり誘っていたあの男だ。
「ワイアット隊長。黒の騎士団に応援要請は出さないのですか?」
副官らしき男が不安そうに尋ねるが、ワイアットは鼻で笑ってそれを一蹴した。
「不要だ。あいつらの管轄は王都の外だ。市街地に入られてしまった以上、ここは我々青の騎士団の領分。縄張りを荒らされてはかなわん。それに魔獣の数は百体を超えると言うじゃないか。たかだか四十人程度のあいつらに何ができる。それより、迎撃部隊は何人集まった?」
「はい、約三百人です。残りは街の封鎖と市民の警備に回っております」
「十分だな。三人で一体の魔獣を相手にすれば余裕で勝てる。よしお前ら、持ち場につけ!」
ワイアットの号令と共に、青の騎士団が武器を構える。
こうして百体を超える魔獣との市街地戦が開始されようとしていた。
――
一方、その頃の黒の騎士団寮。
いつもは和やかな朝食後の食堂に、今日はひどく物々しい空気が立ち込めていた。
「というわけで、魔獣のスタンピードが発生し、青の騎士団が時計台広場にて迎撃体制をとっているということだ」
食堂の前に立ったレイモンド様が、極めて険しい表情で団員たちに状況の説明をしていた。
「おそらく先日、白の騎士団のローレンス副団長から報告のあった、結界のひび割れが完全に決壊したと思われる。白の騎士団の護衛の元、現在複数人の聖者が結界の修復をしているそうだ」
その報告に、食堂の空気はさらに重くなった。
「我々も迎撃に向かったほうがよいのでは?」
トビー様が焦燥感を滲ませて提案する。王都の地理や魔獣の生態を知り尽くしている彼にとって、この状況がいかに危険か痛いほどわかっているのだろう。
「報告を受けた時に、我々は騎士団本部から待機との指示を受けた。今は青の騎士団による討伐の成功を祈ることしかできない」
レイモンド様が苦渋の表情で首を横に振る。
騎士団は白を筆頭に、青と黒は同列という建前になっている。しかし、街の治安を守り市民の目に触れやすい青の騎士団と、人知れず汚れ仕事のように魔獣と戦う黒の騎士団とでは、世間の評価が大きく違う。
構成人数にも三千人と四十人という圧倒的な差があるため、青の騎士団が黒の騎士団を下に見ているのが実状であった。彼らからすれば、自分たちの見せ場に泥を塗られたくないという思いがあるのだろう。
しかし、魔獣と対峙することの本当の恐ろしさを知っているのは、この場にいる黒の騎士団だけだ。
重苦しい沈黙が流れる中、副団長のセドリック様が静かに立ち上がった。
「お前たち、いつでも出られるように、装備を整えておけ」
セドリック様が、長年の勘で最悪の事態を予感したかのように団員たちに指示を出した。
みなの顔が引き締まり、食堂はすぐさま出陣の準備へと慌ただしく動き始めた。
――
数時間後。
「伝令!伝令!黒の騎士団に討伐要請です!」
早馬を飛ばしてやってきた青の騎士団の伝令係が、黒の騎士団寮の玄関へと飛び込んできた。
待機していた団員たちの間に、一気に緊張が走る。
「状況は?」
レイモンド様がすぐさま伝令係に歩み寄り、急ぎ確認をとる。
「魔獣は時計台広場への隔離に成功。百体を超える魔獣を、総勢三百人で迎え打ちましたが……」
「何があった?」
「団員の数名が瘴気に汚染されたことをきっかけに隊列は崩壊。現在団員はすべて広場から撤退し、遠巻きに包囲して膠着状態が続いています」
伝令係の悲痛な報告に、食堂の空気が凍りついた。
「魔獣と一度も対峙したことがない人間が、瘴気汚染や呪いの恐怖に勝てるわけがない」
バーナード様がギリッと歯を食いしばりながら苦言を呈した。
日頃から最前線で魔獣の恐ろしさを肌で知っているからこそ、三百人という数の有利だけで勝てるほど甘い相手ではないとわかっていたのだ。
「さらに悪いことに……」
「まだあるのか?!」
口ごもる伝令係を、セドリック様が鋭い声で追求する。
「ワイアット部隊長が、広場に閉じ込めた魔獣に向けて、毒ガスを放ちました……」
「ま、街なかで?!」
トビー様が信じられないというように目を見開き、驚愕の声を上げた。
「それにより数体は討伐できましたが、逃げ遅れた団員と……広場周辺の建物にいた市民が数名巻き込まれました。症状が軽い者は馬で病院へ運びましたが、周辺の道路がすべて封鎖されているため馬車が通れず、重症者を動かすことが出来ずにいます」
「ワイアット……やっぱりあいつロクでもなかったわね」
エスター様が氷のように冷たい目で言い放つ。自分の保身と功名心のために市民まで巻き込むなど、騎士としてあるまじき行為だ。
「白の騎士団は?」
厨房から出てきたドリスさんが、腕組みをして伝令係を睨みつける。
「聖者による結界の修復が継続中で、白の騎士団は現在もその護衛にあたっています。動けるのはあなた方しか……」
もはや、王都の中心で暴れ狂う百体の魔獣を討伐できるのは、黒の騎士団のみとなってしまったのだ。
「よしわかった。お前たち、相手は百体の魔獣だ」
レイモンド様は言葉を切り、団員を見渡した。
「だが今まで魔獣の恐ろしさを知り、それでも立ち向かってきた俺たちなら、きっと倒せるはずだ!」
レイモンド様がよく響く声で宣言する。その碧い瞳には、揺るぎない覚悟の光が宿っていた。
「俺からの命令はただ一つ。死ぬな!この命令が守れるものだけ俺についてこい!黒の騎士団、出陣だ!」
うおぉぉぉぉぉぉっ!
地を揺るがすような雄叫びが食堂に響き渡る。団員たちが士気をあげるために、一斉に拳を突き上げて叫んだ。
その気迫に圧倒されて私が立ち尽くしていると、レイモンド様が静かに私に近づき、優しく語りかけてきた。
「俺たちはこれからちょっと討伐にいってくるよ。みんな腹を減らして帰ってくるから、全員分の夕食を準備しておいてくれ」
いつもと変わらない穏やかな声だった。そこには、誰一人として死なせはしないという彼の強い決意が込められていた。
「トビー。お前はここに残ってアリアの護衛を頼む」
レイモンド様が振り返り、第四部隊長のトビー様に指示を出した。
「そんな!トビー様も行ってください。私なら大丈夫ですから!」
私が慌てて止めようとすると、トビー様は真剣な眼差しで静かに首を振った。
「わかりました。姫様、多くの魔獣が街なかにいるのです。あなたは聖女だ。その身にもしものことがあってはならないのです」
聖女というのは、騎士団の重要な戦力を削いでまで、護衛をつけなければならないほどの存在なのだろうか。
私は未だに、自分がただの田舎の大衆食堂の娘だとしか思えないのに。
「姫、いってくるね。トビーまかせたよ」
「姫さんも気をつけて待っててくれ」
エスター様とバーナード様が、それぞれ私に声をかけてから玄関へと向かっていく。
「はい。みなさまいってらっしゃいませ。どうかご無事で」
私は胸の前でぎゅっと両手を握りしめ、出立する黒の騎士団の頼もしい背中を、ただ祈るように見送ることしかできなかった。




