第三十章 最後の章
車の中でラジオが流れていた。
朝のニュース、天気予報。
「本日、地方ロードサイドの晴れ間が広がる見込み、最高気温二十二度、絶好の行楽日和です」
俺はハンドルを握りしめた。
二十一年目、二十二年目、二十三年目と、青葉店は続いていく。
毎日毎日、同じようにシャッターを上げる。
毎日毎日、同じようにいらっしゃいませと、頭を下げる。
毎日毎日、同じように客が来て、商品が売れて、レジで釣銭が出る。
それが店長の仕事だった。
地味で、世界一誇らしい仕事だった。
二十年前、夏祭りの夜、屋上で氷川に言った言葉。
その言葉が、青葉店の二十一年目の朝に生きていた。
俺は青葉店の駐車場に車を停めた。
夜明け前の駐車場には、誰もいなかった。
俺は車から降りた。
銀色のカートを整列させ始めた。
向きを揃えて、五台ずつ並べる。
二十一年毎朝続けている習慣だった。
冷たい鉄の取っ手が、手のひらにひんやりと馴染んだ。
その時、軽トラのエンジン音が聞こえてきた。
ミッチ姉さんだった。
「店長、おはようございます」
「おはよう、ミッチ姉さん」
「店長、しんみりした顔、してますよ」
「いや別に、しんみりはして、ない」
「あら私、いつものジョークで言ってるのよ」
ミッチ姉さんは軽トラの荷台から、キャベツを降ろした。
「店長、今日のキャベツ、絶品よ。地元の契約農家、頑張ったね」
「ええ。いつもありがとう」
ミッチ姉さんは店の裏口に消えていった。
俺はカートを、もう一度押し直した。
軽いと感じた。
カートは軽いはずない。
しかし今朝、カートが軽かった。
胸の内ポケットの中で、エルナの手紙と新しい紙片が、わずかに温かかった。
二つの世界の二つの手紙だった。
戸塚が自転車で店の駐車場に入ってきた。
月に二回の青葉店出勤の日だった。
「店長、おはようございます」
「戸塚、おはよう。お疲れ、本部から」
「ええ」
戸塚は自転車を停めて、出刃の研ぎ箱を抱えた。
「店長、本部の新作刺身、十種類開発しました」
「すごいね」
「本部フラッグシップ店のヒット商品五種類、すべて青葉店の技術です」
「ええ、誇らしいよ」
戸塚はいつもの仏頂面だった。
しかし、その目には確かに誇りが宿っていた。
戸塚は店の裏口に消えていった。
沙耶ちゃんも、自転車で入ってきた。
「店長、おはようございます」
「沙耶ちゃん、おはよう」
「店長、息子が看護学校に合格しました」
「えっ、おめでとうございます」
「ありがとうございます、店長のおかげです」
「いえ、息子の努力です」
「息子、店長にお礼を言いたいと言ってました。また店に連れて来ます」
沙耶ちゃんは店の裏口に消えていった。
田所さん、仁科さん、福田さん。衣料の遠藤さん、家電の中野さん。グロサリーの高橋さん、警備の久保さん。
七十三人全員、いつものように店に出勤してきた。
副店長の宇都宮が最後に入ってきた。
「店長、おはようございます」
「副店長、おはよう」
「本日も青葉店開店、よろしくお願いします」
「ええ、よろしくお願いします」
俺は店のシャッターの前に立った。
両手でシャッターのチェーンを握った。
ぐっと引き上げる。
シャッターが上がっていく。
朝の光が売場に差し込んだ。
俺は深く息を吸った。
そしてゆっくり頭を下げた。
「いらっしゃいませ」
俺は言った。
「本日も、青葉店開店です」
駐車場の向こうから、最初の客が歩いてきた。
近所の独居の老婆だった。
毎朝、最初に店に来る人だった。
「店長さん、おはようございます」
「奥さん、おはようございます」
「店長さん今日も、ありがとうね」
「いえ、こちらこそ」
老婆は両手でカートを引いた。
俺は頭を下げたまま、彼女を見送った。
そして、ふと思った。
この老婆の姿は確かに、二つの月の世界の王女エルナの姿と繋がっていた。
両者とも、青葉店で最後のスープを飲んだような目をしていた。
そして、両者とも、二十年青葉店を愛してくれた。
俺は頷いた。
それでよかった。
それでいいんだ。
俺は店内に入った。
蛍光灯の白い光。
冷蔵庫の低い唸り。
レジのピッという音。
すべてがいつも、通りだった。
しかし、すべてが、いつもより、わずかに輝いて、見えた。
それは、二つの月の世界の思い出を抱えて戻ってきた俺の目にしか見えない輝きだった。
それは、二十年地味に続けて、きた、現場の仕事の輝きだった。
俺は、店内をゆっくり、歩いた。
青果売場で、ミッチ姉さんに、頷いた。
ミッチ姉さんがリンゴを磨いていた。
「店長今日も、よろしくね」
「ええ、よろしく」
鮮魚売場で戸塚に、頷いた。
戸塚が出刃を、研いでいた。
「店長本部月例、報告午後、します」
「ええ、よろしく」
ベーカリーで、仁科さんに、頷いた。
仁科さんが、焼きたての、白パンを、運んでいた。
「店長新作の、クロワッサン今日十時からです」
「ええ楽しみです」
惣菜で、福田さんに、頷いた。
福田さんがハムを、並べていた。
「店長今日は、ハムたくさんです」
「ええ。いつもありがとう」
レジで、沙耶ちゃんに、頷いた。
沙耶ちゃんが、釣銭機を確認、していた。
「店長釣銭ばっちりです」
「ええ、ありがとう」
入口で床を、磨く、田所さんに、頷いた。
田所さんが、ほうきを両手で握りしめていた。
「店長床、今日も、磨きます」
「ええ。いつもありがとう」
事務所で書類を、見ている、副店長の宇都宮に、頷いた。
宇都宮が業績、報告書を、めくっていた。
「店長今月、廃棄ロス、一・一パーセント過去最低です」
「ええ、皆さんのお陰です」
七十三人がそれぞれ笑顔で頷き、返した。
俺の店、ヒノマル青葉店。
地方ロードサイドのごく、普通の、総合スーパー。
その店が、今日も開店、していた。
そして明日も、開店する。
明後日も、開店する。
毎日毎日、開店する。
それが店長の仕事だった。
それが現場の、誇りだった。
それを、二十一年続けてきた。
これから何年、続けるか、わからない。
しかし続ける、限り俺は、店長だった。
俺は店の中央で、立ち止まった。
胸の内ポケットに、手を当てた。
エルナの手紙と新しい、紙片、が確かにそこに、あった。
俺は心の中で彼女に、頭を下げた。
「エルナ王女様、青葉店本日開店です」
「氷川青葉店、今日も開店です」
二つの世界の、二人に向かって、俺は頭を下げた。
そしてゆっくり顔を、上げた。
最初の客が、青果売場で、ミッチ姉さんに声を、掛けていた。
「ミッチさん、今日のトマトどう」
「今日のトマト、完熟よ明日、明後日には過熟、今日が買い時ね」
「あらじゃあ、買おう、かしら」
ミッチ姉さんが、トマトを二つ、ビニール袋に、入れた。
俺は深く息を吸った。
朝の、青葉店の空気だった。
蛍光灯の白い光、商品の匂い客と、店員の会話の声、レジのピッという音。
すべてがいつも、通りだった。
しかし、それは確かに、二つの月の世界の、王都の市場の空気と、繋がっていた。
二十年ぶりに餓死者ゼロになった王都の市場の活気と、繋がっていた。
俺は頷いた。
二つの世界、両方とも、誰かの毎日のご飯を、支える仕事で、繋がっていた。
両方の世界で、俺は店長を、続ける。
両方の世界で、俺は、誰かの毎日のご飯を、支える仕事を、続ける。
それでよかった。
それでいいんだ。
俺は新しい客に向かって、頭を下げた。
「いらっしゃいませ」
俺は言った。
「本日も、よろしく、お願いします」
新しい、客は笑顔で頷いた。
「こんにちは、店長さん」
「こんにちはいつも、ありがとうございます」
客は、カートを引いて店内に、入っていった。
俺は、その後ろ姿を、見送った。
そして、もう一度頭を下げた。
ヒノマル青葉店本日、二十一年目の朝開店、中。
そしてこれから二十二年目、二十三年目と続いていく開店中だった。
俺は深く息を吸った。
そして笑った。
「明日も青葉店開店です」
俺は声に出して言った。
朝の光が、青葉店の売場に、差し込んでいた。
そして、その光は確かに、二つの月の世界の、王都の朝の光と、繋がっていた。
俺は心の中でもう一度頭を下げた。
「いらっしゃいませを、ありがとうございました、エルナ王女様」
「夏祭りの夜の、缶ビール、ありがとうございました、氷川」
そして。
「青葉店を二十一年支えてくれて、ありがとうございました、七十三人の皆」
「これからも、よろしく、お願いします」
俺は店の中央で深々と、頭を下げた。
その姿を、誰も見て、いなかった。
しかしそれでよかった。
それでいいんだ。
地味な仕事を、続ける限り、俺は、店長だった。
そしてその地味な仕事は確かに、二つの世界を繋ぐ仕事だった。
俺はゆっくり顔を、上げた。
そして深く息を、吸った。
「いらっしゃいませ」
「ヒノマル青葉店二十一年目の朝開店中です」




