第三章 一杯のスープ
店の事務所に、エルナを運び込んだ。
応接用の、安物の合皮ソファに、寝かせる。
毛布を、もう一枚、かぶせる。
惣菜部の福田さんが、調理場から、紙コップを、運んできた。
電子レンジで温めた、レトルトの、コーンスープだった。
「店長これ、温かいですから」
「ありがとう、福田さん」
福田さんは、ぺこりと、頭を下げて、戻っていった。
事務所には俺と宇都宮、ミッチ姉さん、それから警備の久保さんがいた。
久保さんは、エルナの足の傷を手早く消毒して、ガーゼで押さえていた。
「店長、傷は深くないです。二日もあれば塞がります。ただ栄養失調がひどい」
久保さんは、潜めた声で、言った。
「最近、まともなものを、食べていないですね」
俺は頷いた。
エルナがゆっくり、目を開けた。
紙コップに視線が、向いた。
「お嬢さん」
俺は、紙コップを両手で彼女に、差し出した。
「これ飲めるか」
エルナは、ぼんやりと、紙コップを受け取った。
両手で、抱えるように、持った。
匂いを嗅いだ。
その瞬間。
彼女の目が、見開かれた。
色が、戻った。
一口、飲む。
二口、飲む。
三口、飲む。
涙が頬を、伝った。
紙コップを両手で握りしめて彼女は、声もなく、震えていた。
肩の上で涙が、ぽたり、ぽたりと毛布に、落ちた。
「あた、たかい」
エルナはそれだけ、言った。
「あたたかい、食べ物」
それ以上言葉が、続かなかった。
俺は何も言えなかった。
宇都宮も、ミッチ姉さんも久保さんも、誰も何も言わなかった。
ただ、彼女の隣に静かに、立っていた。
しばらくして、エルナは、紙コップを、空にした。
最後の一滴まで、舐めるように、飲み干した。
そしてぽつりと語り始めた。
ここは、アーヴェルク王国温帯の、中規模国家。
肥沃な穀倉地帯と深い森林を持つ、かつての豊かな国。
二十年前から、「魔王」と呼ばれる存在が北の岩山に現れた。
その日から、王国の土地はゆっくり、腐り始めた。
保存食はわずか、二週間で、虫が湧くようになった。
牛乳は絞ったその日のうちに、酸っぱくなるようになった。
冬の蓄えは消えた。
配給網は二年で、壊滅した。
王国の餓死者は毎年増え続けた。
王女である自分は辺境の修道院で、隠遁生活を送っていた。
しかし二週間前、修道院が魔王軍の襲撃を受けた。
修道女たちは皆、殺された。
彼女だけ、地下道から、逃げた。
二週間森を、彷徨った。
最後の食事は四日前の生水とベリーの実、だった。
「五年ぶりです」
エルナは、紙コップを両手で握ったまま、繰り返した。
「こんなにあたたかい、食べ物をいただいたのは」
俺は無言で席を、立った。
事務所を出た。
売場に、従業員たちがぎゅう、と固まっていた。
七十三人の顔が、いっせいに、俺を見た。
「店長どうしますか」
「帰る方法わからないですよね」
「私たちここに置き去りですか」
「家族、家族にはどうやって」
不安の声が、波のように、押し寄せた。
俺はしばらく俯いていた。
帰る方法はわからない。
ここが、どこかも、わからない。
エルナの話が、本当なのかも、わからない。
しかし、一つだけ、わかることが、あった。
俺は顔を、上げた。
「とりあえず店を、開けます」
事務所のスタッフ全員が、ぽかんと、した。
七十三対の目が俺を、凝視した。
「は店長、ここ異世界ですよ」
「客なんて来ませんよ」
「いや店長、まず帰る方法を」
「来ますよ」
俺は、店の正面ガラスを、指さした。
二つの月の光に照らされた草原に、ぽつぽつと人影が現れ始めていた。
ぼろをまとった子供連れの女、痩せた男、足を引きずる老人。
光に、引き寄せられた、避難民たちだった。
百人二百人、いや、もっと。
夜の草原を、ひたひたと、店の光に向かって、歩いてくる。
その姿はまるで台風の日に店を駆け込み寺にする近所の人々のように、見えた。
「明日の朝、開店します」
俺は静かに、言った。
「青果のミッチさん、グロサリーの高橋さん、保存食の在庫を全部リストアップして賞味期限順に並べてください」
「鮮魚の戸塚、肉の岩崎さん、店の電気が落ちる前に冷蔵庫の中身を緊急に処分する。戸塚は加工、岩崎さんは調理をお願いします」
「レジの沙耶ちゃん釣銭は不要、配給制で行きます。ただし入退場の整理券は必要。整理券、何枚刷れるか、確認」
「副店長外に並んでもらう導線を引いてくれ。ロープと、コーンで、いつもの整理券売り場の、レイアウトを」
俺は二十年繰り返してきた年末年始の混雑日の業務指示を、口にしていた。
ただ客が、避難民、というだけの、違いだった。
「店長」
副店長の宇都宮がぱっと顔を上げた。
「いつもの店長、だ」
宇都宮はそれだけ、言って笑った。
七十三人が動き始めた。
二十年毎日、繰り返してきた、開店準備の、動作だった。
夜明け前、店の前には三百人を超える避難民が、整然と並んでいた。
俺たちが整理券を配り、ロープで整然と並べたからだった。
エルナは、店の入口で、その光景を見ていた。
包帯を巻いた足で、ぎこちなく、立っていた。
「真壁様」
俺の隣で彼女が、呟いた。
「あなたがたは、いったい何者、なのですか」
俺は両手で、レジ前のカートの取っ手を、握り直した。
二十年磨いてきた、慣れた感触だった。
「ただのスーパーマーケットの店員です」




