第二章 二つの月の下で
最初に感じたのは、土の匂いだった。
朝露と草と、湿った土の、匂い。
目を開ける。
頬に何か、冷たいものが、当たっていた。
それは、草の葉先の、夜露だった。
俺は両手をついて、上半身を起こした。
足元の、リノリウムの床が土に、変わっていた。
夜空がおかしかった。
月が、二つある。
大きな白い月と、小さな赤い月。
「店長」
宇都宮の声がした。
横を見ると、副店長が、四つん這いで、震えていた。
「店長店、外にあります。店の外草原です」
宇都宮の言うとおりだった。
俺たちの店ヒノマル青葉店。その建物が丸ごと、見渡す限りの草原の真ん中に立っていた。
入口の自動ドアから蛍光灯の白い光が、夜の草原をぼうっと照らしていた。
その光景はまるで、巨大な灯篭流しだった。
「ああ、あ店、店ごと空に、運ばれて」
ミッチ姉さんが両手で口を、覆って、震えていた。
普段何があっても動じない青果歴二十一年のミッチ姉さんが、震えていた。
レジの沙耶ちゃんは、しゃがみ込んで両膝を、抱えていた。
戸塚はただ、無表情のまま、空の月を、見上げていた。
「副店長従業員、全員いるか」
俺は努めて、冷静に、言った。
宇都宮は半泣きで、首から下げた社員証の名簿を震える手でめくり始めた。
「店長、点呼します。青果ミッチさんはい。グロサリー高橋さんはい。鮮魚戸塚はい。レジ里見はい。惣菜福田さん」
呼ばれた者たちが、震えながら手を、上げた。
「副店長、ちゃんと声出して」
「ははい、福田さん」
「いるよ、副店長」
宇都宮は、社員証の名簿を一枚、一枚、めくっていった。
清掃の田所さん。警備の久保さん。肉部の岩崎さん。ベーカリーの仁科さん。文房具の村瀬さん。衣料品の遠藤さん。家電の中野さん。グロサリーの高橋さん。酒類の山口さん。テナント担当の小田さん。夜間バイトの後藤くん。雑貨の鈴木さん。
全員揃っていた。
正社員十二人、契約社員十八人。パートナー三十二人、アルバイト十一人。合わせて七十三人。
「店長全員、おります」
宇都宮の声が震えていた。
「全員揃って、ここに、います」
俺は深く息を吸った。
少なくとも誰一人、欠けては、いない。
その時。
茂みの向こうから、悲鳴が聞こえた。
女の悲鳴だった。
俺が走り出る前に戸塚が、動いた。
寡黙な少年が、抜き身の出刃包丁を片手に、茂みへ、駆けた。
茂みを割って、出てきたのはしかし、襲撃者ではなく、襲われている方だった。
血まみれの、少女。
金色の髪、十代後半、白いドレスは泥と血で汚れていた。
足には深い、切り傷。
「おお助け、くださ……」
少女は、戸塚の足元に、転がるように倒れ込んだ。
直後。
地響き、馬の蹄音五騎、いや、六騎。
茂みを、力ずくで割って、黒い騎士たちが現れた。
全身を黒い甲冑で固めている。
背中には紫色の、奇妙な紋章の、旗。
馬から、蒸気のような息が、漏れていた。
「捕らえよ」
リーダー格の騎士が剣を抜いた。
俺の体は、考えるより先に、動いた。
倒れた少女と、騎士たちの、間に両手を広げて、立った。
そして深々と頭を下げた。
「いらっしゃいませ」
それは、店長として二十年、染みついた、条件反射だった。
考える前に口が、動いた。
「申し訳ありません当店は、本日、すでに閉店時刻を、過ぎております」
我ながら、意味のわからない、口上だった。
しかし。
騎士たちは、ぴたりと、動きを止めた。
「ななんだ、貴様らは」
リーダー格が馬上で、硬直していた。
「異邦人だそれも、七十人以上。後ろの光る建物はまさか、古代遺跡か」
「殿撤退を、人数差が、ございます」
「くおのれ、ヴェル殿下貴様、命拾いをしたな」
リーダーは、捨て台詞を、吐いた。
そして馬を、反転させた。
騎士たちは夜の闇に紫色の旗をなびかせて、消えていった。
俺は息を吐いた。
足が震えていた。
膝が笑っていた。
座り込みたいのを、こらえて、倒れた少女のそばに、膝をついた。
「副店長水と、毛布それから、傷の手当て」
「了解です」
宇都宮が店内へ、走った。
ベーカリーの仁科さん、看護師資格を持つ警備の久保さんが続いた。
俺は少女に、声をかけた。
「お嬢さんもう大丈夫です敵は、行きました」
少女が、青ざめた顔で俺を、見上げていた。
息は浅い。
唇は紫色に、変わっている。
胸元の、銀の鎖に、小さなペンダント。
剣と麦穂が、交差した、紋章。
少女は、震える声で、名乗った。
「わたくしはエルナ、エルナ・ヴァン・アーヴェルク」
その名前が、何を意味するのか、その時の俺はまだ知らなかった。
宇都宮たちが毛布を、運んできた。
俺は彼女の体を毛布で包んだ。
「とりあえず店の中へ運びます。副店長、惣菜の福田さん、温かい何かをお願いします」
「店長」
宇都宮が、囁いた。
「店長電気、ついてます店の中いつもの店です」
俺は、開きっぱなしの、自動ドアを見た。
蛍光灯の白い光。
冷蔵庫の低い唸り。
レジの、待機画面の青い、点滅。
電気が生きていた。
理屈はわからない。
しかし店は、店だった。
二十年、俺たちが毎日入って毎日出ていた、店だった。
俺は、エルナを、抱え上げた。
ドレスは軽かった。
体は骨と、皮、ばかりだった。




