第一章 閉店
朝の駐車場には誰もいない。
俺は銀色のカートを、黙々と揃えていた。
二十年やってきた、慣れた仕事だった。
カートを五台ずつ、向きを揃えて、白線の内側に並べる。
それだけの作業に毎朝、二十分かける。
雨の日も雪の日も台風の日も、二十年欠かしたことがなかった。
夜明け前の空気はまだ夏のものなのに、どこかひんやりしていた。
九月の終わり、季節の変わり目。
俺の店、ヒノマル青葉店、地方ロードサイドのごく普通の総合スーパー。
その駐車場の灰色のアスファルトに、街灯の光が白い円を描いていた。
俺は深く息を吸った。
今日が、この店の、最後の営業日だった。
ヘッドライトが、駐車場の入口からこちらに、向いてきた。
軽トラの音。
このエンジン音は、聞き慣れている。
「店長、おはようございます」
運転席から降りてきたのは、青果のミッチ姉さんだった。
通称ミッチ姉さん、本名は蒲生美津江、五十八歳。
うちの店の青果歴、二十一年。
俺が新卒で配属された日からすでにこの店にいた、生え抜きのパートナー社員だった。
「おはよう、ミッチ姉さん」
「店長、しんみりした顔してますよ」
「そりゃそうだろ、最後だぞ」
「店長は現場が一番好きですもんね」
ミッチ姉さんは、何気ない口調で、そう言った。
そのまま軽トラの荷台に回り、地元の契約農家から仕入れたキャベツを、ひょいと抱える。
朝採れのキャベツの葉が、薄い水滴を、まだ纏っていた。
「あ店長、今日のレタス、シャキシャキだからお試しコーナーに出しときますね」
「いつも悪いね」
「いいのもう最後だから」
ミッチ姉さんは、店の裏口の方へ慣れた足取りで消えていった。
俺はもう一度、カートを押し直した。
冷たい鉄の取っ手が、手のひらに、ひんやりと馴染んだ。
二週間前、本部からの一本の電話が、俺の二十年を、終わらせた。
「真壁店長、決定しました青葉店来月閉店です」
電話の向こうの声は、機械のように、冷たかった。
氷川透、本部経営戦略部長。
俺と同期入社の、男だった。
「お疲れさまでした、後任には事務処理だけお願いします、では」
通話は、十秒で切れた。
俺は、受話器を握ったまましばらく動けなかった。
赤字続きの店だった。
本部の決断は数字の上では、間違いなく、正しい。
ただ、ここには、七十三人の従業員がいた。
午前九時、開店時刻。
シャッターを両手でゆっくりと、引き上げる。
シャッターの軋む音は、二十年毎朝聞いてきた音だった。
駐車場にはすでに客の列が、できていた。
そして、その列は駐車場を、ぐるりと囲むほど伸びていた。
「店長長い間、お世話になりました」
最前列の、近所の独居老婆が、紙袋を差し出した。
中には、できたばかりの、手作りのおはぎが、入っていた。
包装紙がまだほんのり、温かかった。
「奥さん、これいただきます」
「店長さん、寂しくなるねえ」
「私もです」
俺は何度も、頭を下げた。
頭を下げるたびに、列の人々が次々と、頭を下げ返してくれた。
その所作の、一つ一つが胸に、突き刺さってきた。
午前中だけで、売り上げは、過去最高を軽く、更新した。
皮肉な話だった。
潰れる店に、人が集まる。
普段は、夕方しか来ない、共働きの若い夫婦も、来た。
普段は、ネット通販しか使わない、引きこもりの青年も、来た。
普段は、ライバル店ばかり使う、節約家の主婦も、来た。
みんな、最後の挨拶に、来ていた。
レジの里見沙耶ちゃんが、釣銭機の前で、ハンカチを握りしめていた。
シングルマザーで息子を育てながら十一年、勤めてくれたうちのレジ主任だった。
釣銭ミスは、七年連続ゼロ。
毎月本部から表彰されていた、職人だった。
「沙耶ちゃん大丈夫か」
「店長、私ここで、働けて本当に楽しかったです」
「俺もだ」
それ以上言葉が、続かなかった。
俺は売場を、ぐるりと、見回した。
午後三時、鮮魚部の戸塚海斗が、最後の刺身を、盛り付けていた。
二十歳、水産専門学校中退寡黙な、若者だった。
しかし、その包丁の手つきはすでに本職の板前を凌駕している。
「海斗、いつもより、丁寧だな」
「最後だから」
戸塚は刺身の薄造りを、皿の上に扇のように並べていた。
サクの切り口が、鏡のように、光っていた。
「店長これ、今日売れなかったらまかないにします。夜みんなで」
「いいな、それ」
戸塚は、答えずにただ、頷いた。
午後六時、シャッター閉店。
最後の客は、子供連れの若い母親だった。
牛乳と卵と、食パンを、買っていった。
ごく普通の、ごく当たり前の、買い物だった。
俺は、シャッターの前で深々と、頭を下げた。
そのまましばらく頭を、上げられなかった。
午後七時、閉店セレモニー。
俺は売場中央の特売コーナーがあった場所に、従業員七十三人を集めた。
正社員、契約社員、パートナー、アルバイト。
全員揃っていた。
俺は、ポケットから、挨拶原稿を、取り出した。
A4の紙、三枚。
二週間毎晩考えて、書いた、原稿だった。
握る手が、震えていた。
「皆さん、長い間本当に、お世話になりました」
声を絞り出した。
次の文字を、読もうとした。
しかし文字が、滲んで、読めなかった。
俺は、原稿をゆっくり畳んだ。
そして顔を、上げた。
七十三人の顔が、俺を見ていた。
ミッチ姉さんが口を、噛みしめていた。
戸塚が、無表情のまま、まばたきを、忘れていた。
沙耶ちゃんが両手で口元を、覆っていた。
副店長の宇都宮が肩を、震わせていた。
清掃の田所さんが、ほうきを両手で握っていた。
「俺は、皆さんと、働けて」
俺は、絞り出した。
「本当に誇りに、思っています」
ぱらぱらと拍手が始まった。
それは、すぐに波になった。
温かいぎこちなく、温かい拍手だった。
その瞬間。
天井の、蛍光灯が青白く、光った。
雷鳴。
腹の底に、響くような、雷鳴。
青白い、稲妻のような光が店全体を貫いた。
視界が、ぐにゃりと裏返る。
足元の、リノリウムの床がふっと、消えた。
俺は、原稿を握りしめたまま宙に、放り出された。
世界が消えた。




