第二十章 閉店間際、開店中
目を開けた時、俺は原稿を握ったまま、売場の中央に立っていた。
ヒノマル青葉店閉店セレモニーの、真っ最中だった。
七十三人の従業員が整然と、並んでいた。
時計は午後七時三分を、指していた。
落雷の時間からたった三分しか、経っていなかった。
「店長」
最前列のミッチ姉さんが、囁いた。
「夢では、ありませんでしたよね」
俺は頷いた。
「ああ」
「私の肩、まだ痛む気がします」
「うん」
戸塚が、ぼそりと言った。
「俺の包丁、研ぎが、いい感じですまだ」
沙耶ちゃんが、ハンカチで目を、押さえていた。
宇都宮が頷きながら笑っていた。
田所さんが、すでにほうきを構えていた。
「店長、明日からまた、磨きましょう」
ベーカリーの、仁科さんが深く息を、吸っていた。
「店長明日新しい、酵母を試したいです」
惣菜の、福田さんが頷いた。
「店長明日ハム、もっとたくさん、仕入れて、いいですか子供が笑う顔が、見たくて」
七十三人全員、戻っていた。
全員、それぞれのこちら側の生活と向こう側の記憶を、両方抱えて戻っていた。
俺は、原稿をゆっくり畳んだ。
そして、マイクに向かって、言った。
「皆さん、申し訳ありません本日の、閉店セレモニーは、撤回させて、ください」
会場が、ざわめいた。
「本部とは私が、話します、この店は、続けます必ず続けます」
ぱらぱらと拍手が起きた。
それが大きな、波になった。
ぎこちなく、温かい拍手だった。
それは二週間前、本部からの閉店通告に何も言い返せなかった俺の、初めての抵抗だった。
俺の、二十年に、向き合うための、抵抗だった。
その時、事務所の電話が鳴り、始めた。
宇都宮が、慌てて事務所へ、走った。
しばらくして戻ってきた。
その顔は、青ざめていた。
「店長本部からです」
俺は事務所に入った。
電話の、コードが机から、垂れていた。
受話器を取った。
「真壁です」
電話の、向こうは、若い震える声だった。
「真壁店長ご苦労、様です本部の宮原です」
「はい」
「あの、お伝えしにくいのですが氷川部長が、本日午後七時過ぎに急性心不全で亡くなりました」
俺は、受話器を握りしめた。
しばらく声が、出なかった。
「机の上に、青葉店閉店の決裁書類がありました。その書類は氷川部長の手で、破られていました」
俺は目を閉じた。
宮原くんがおずおずと続けた。
「破られた書類の隣に走り書きがありました。見覚えのある氷川部長の筆跡で」
「何と」
「閉店は撤回する。青葉店は本部のミスだ、現場を信じよと、書いてありました」
俺は、受話器を握りしめた、まましばらく動けなかった。
涙が頬を、伝っていた。
「真壁店長聞いていますか」
「ええ聞いて、います、ありがとうございます、わかりました」
「閉店は改めて本部で再検討します。明日、本部の専務が青葉店に直接伺います。それまで店は続けてください」
「了解しました」
「真壁店長、氷川部長最後に、こう、言っていたそうです」
「はい」
「真壁の、ところに行くと、夏祭りの夜の、ビールを飲み、忘れた、と」
俺は、受話器を握りしめたまま両膝を、ついた。
「ありがとうございます」
俺は何度も、繰り返した。
電話を切った。
事務所の窓から、駐車場を、見下ろした。
夜の駐車場に、客がまだぽつり、ぽつりと来ていた。
最後の挨拶に、来てくれた、常連客だった。
俺は笑った。
涙が、出ていた。
氷川、ありがとうと、心の中で、呟いた。
夏祭りの夜の、缶ビールいつか、絶対飲もう。
俺は事務所を出た。
七十三人がまだ売場の中央にいた。
「店長何か、ありましたか」
ミッチ姉さんが心配そうに聞いた。
俺は首を振った。
「いえ、いい知らせ、です明日、本部の専務が来ます、閉店撤回の相談を、します」
ミッチ姉さんの目が、見開かれた。
「店長」
「皆さん明日もいつも通り出勤、お願いします。ただし、これからは毎日本気で店回しますよ」
七十三人が頷いた。
それぞれの顔に、二つの月の、記憶が見えた、気がした。
翌朝俺は、いつも通り、夜明け前の駐車場に、立っていた。
銀色のカートを整列、させていた。
向きを揃えて、五台ずつ並べる。
二十年毎朝、続けていた、習慣だった。
しかし今朝、その動作は、いつもと、わずかに違って、感じた。
軽いと感じた。
ミッチ姉さんが、軽トラから、降りてきた。
「店長、おはようございます」
「おはよう」
ミッチ姉さんは、店の裏口へ向かう途中で、ふと振り返った。
「店長」
「ん」
「空、見て」
俺は、空を見た。
朝の青空に、雲の切れ間があった。
その切れ間に、一瞬。
二つの月の、影が見えた、気がした。
ほんの一瞬だった。
俺は笑った。
胸の内ポケットにはまだたたんだ、エルナの手紙が、入っていた。
それは確かにここに、あった。
夢では、なかった。
俺は店のシャッターに、歩み寄った。
両手でシャッターのチェーンを握った。
ぐっと引き上げる。
シャッターが上がっていく。
朝の光が売場に差し込んだ。
俺は深く息を吸った。
そしてゆっくり頭を下げた。
「いらっしゃいませ」
俺は言った。
「本日は開店です」
駐車場の向こうから、最初の客が歩いてきた。
近所の独居の老婆だった。
昨日、おはぎをくれた、人だった。
「店長さん」
「奥さん、おはようございます」
「あら店、続けるの」
「ええ、続けます」
老婆の目に涙が滲んだ。
「よかった本当に、よかった私、毎日ここに、来るのが、楽しみで」
「ええ、いつでも、お待ちしております」
俺は深々と頭を下げた。
老婆は、カートを引いて店内に、入っていった。
ミッチ姉さんが、青果売場で、リンゴを丁寧に、磨いていた。
「ミッチ姉さん、おはよう」
「店長リンゴ、今日も、ピカピカよ」
「うん」
戸塚が、鮮魚売場で出刃を、研いでいた。
「店長今日、サーモンええ感じです」
「うん」
沙耶ちゃんがレジで、釣銭機を確認、していた。
「店長釣銭ばっちりです」
「うん」
宇都宮が、事務所の窓から駐車場を、眺めていた。
「店長いつも、ありがとうございます」
「うん」
田所さんが、入口の床を磨いていた。
「店長今日も、磨いてます」
「うん」
ベーカリーの、仁科さんが、焼きたての、白パンを運んできた。
「店長新しい、酵母、いい感じです、今までの二倍ふわふわです」
「うん」
惣菜の、福田さんがハムを、並べていた。
「店長今日は、ハムたくさん、仕入れました、子供たち、喜びますよ」
「うん」
俺は、それぞれに頷きながら売場を、歩いた。
蛍光灯の白い光。
冷蔵庫の低い唸り。
レジのピッという音。
すべてがいつも、通りだった。
しかし、すべてが、いつもより、わずかに輝いて、見えた。
俺は店の中央で、立ち止まった。
胸の内ポケットに、手を当てた。
エルナの手紙が確かにそこに、あった。
俺は心の中で彼女に、頭を下げた。
「いらっしゃいませ」
「本日は開店です」
開店の、チャイムが、鳴った。
俺の店の、二十一年目の朝が始まった。




