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21 私の王子様



「待った?」


「うんうん、今来たばかり」


「よかった」


 彼は安堵した表情を見せた。実は「今来たばかり」というのは嘘だった。本当は待ち合わせの時間の30分前から来ていた。無職の私には時間は無限と言っていいほどある。自分が待つことよりも、忙しい中、私のために時間を作ってくれた彼を待たせるわけにはいかなかった。


「でも少しは待ったんじゃないか? ごめん。急なトラブルがあって会社に寄って来たから」


「お休みの日なのに大変ねぇ」


「まあ、しょうがないよ」


 彼はIT企業の社長だった。コンピューターのセキュリティ関係の仕事をしているらしかった。だが、休みの日も呼び出されて仕事をしなくてはならないなんて、やはり社長というのは大変だと思った。


「どこに行く」


「おまかせするわ」


 ちょうど昼時だったのでまずは昼食を取ることになった。


 彼は麻布十番にある老舗のビストロに連れて行ってくれた。


 店内に入ると品の良いマダムが接客してくれた。


 ランチはコースのみで、メインを肉か魚かのどちらかを選ぶようになっていた。ビストロということでリーゾナブルな値段だったが、味は本格的なフレンチレストランと引けを取らなかった。


 私はデザートのリンゴのタルトにフォークを入れながら彼を見た。


 レモンのタルトを選んだ彼は、器用に崩れやすいタルトを口に運んでいた。


 私は食べ方が汚い人は苦手だった。その点、彼は本当に綺麗に食べる。マナーを守っているというのではなく、食べ物を口に運ぶ仕草がとても自然で気品があるのだ。こういうのは、見せかけのために作ることができない種類のものだ。


 彼の手の先を見た。爪は切りそろえてあり清潔な指先だった。


「何を見ているんだい?」


 私は顔を赤らめた。


「爪を丁寧に手入れしているなって思って」


 彼は笑った。


「僕の仕事は、毎日パソコンに向かってキーボードを打つ仕事だろ。爪が伸びているとキーボードを打つ時にひっかかって邪魔になるんだよ。だから爪はいつも短く切っている」


「そうだったの」


 でも、彼はそれ以上だった。


 彼はサイズの合った清潔な白いシャツを着ていた。彼が着ているものの中でその白いシャツが1番高価であることはひと目で分かった。パンツはファストファションで売っているベージュ色のチノパンで、ブルーのジャケットはスタンダードなものだ。さりげなく高価な白シャツを着てカジュアルな服を着こなしているのが素敵だった。


 地下アイドルの時に、広告代理店の人が連れてきたIT企業の経営者は、よれよれのジーパンにティシャツという学生みたいな格好か、アルマーニのスーツを着て全身から成金オーラを放っているような人だった。彼はそのどちらでもなく、服だけでなく自分の年齢や社会的地位も上手く着こなしている感じがした。


(どうして、こんな素敵な人が私のことを……)


 こうして、彼とデートをしていることがまだ信じられない思いだった。


 彼との出会いは、Vチューバーアイドルグループが配信事故で身バレして解散し、事務所に退職の手続きをしに行った帰りだ。


 私は中村裕子とお茶をした後に暴走車に轢かれそうになった。


 突進してくる車に、恐怖のあまり私は身体を固くし、目を閉じた。


 自分の身体が飛んだ。


 車にはねられたと思った。


 アスファルトの路面に叩きつけられた。


 私は目を開いた。


 空が青かった。


(これで死ぬのかしら)


 でも、不思議なことに身体のどこも痛くなかった。血も流れていないようだった。


 私は、自分の下に誰かが下敷きになっていることに気がついた。


 起き上がると、その男性も肩や腰をさすりながら起き上がった。


 スーツが破れて、額には血が流れていた。


「大丈夫ですか」


「君こそ怪我はないか」


 私は再度自分の身体をチェックした。どこにも痛みはないし、出血も無い、不思議なくらい無傷だ。


「はい」


「よかった」


「何があったんですか」


「車が君に突っ込んで来るのを見て、とっさに君を突き飛ばして、一緒に地面に転がった。君が怪我をしないように自分がクッションになった」


 私は一瞬のことで自分に何が起きたのかを把握できていなかった。


「その車はどうしましたか?」


 何だか的はずれなことを訊いてしまった。


「走り去った。まったく、なんて運転だ」


 彼は怒っていた。


「それよりも、頭から血が出ているじゃないですか、救急車を呼ばないと」


 私はスマホを取り出した。


 119番しようとする私の手を彼の手が止めた。


「大丈夫だ」


「でも……」


 彼は額の血を片方の手で触り、傷口を確かめるようにした。


「ただの擦過傷だよ。道路に転がった時に路面で擦っただけだ。それにこれから仕事がある。救急車が来て病院に搬送されると夕方までかかるから困る」



「本当に大丈夫ですか」


 彼は人懐っこい笑みを浮かべて頷いた。


「もう、行かないと」


 彼は時間を確認するかのように腕時計を見た。


「あれ、壊れちゃった」


 見ると高そうな腕時計の風防が割れて、秒針が動いていなかった。


「それ、私を助けようとして壊れちゃったんですか」


「ああ、気にしなくてもいいよ」


「でも高そうな時計じゃないですか」


「オヤジの形見だから、別にお金はかかっていない」


「そ、そんな大切なものを……」


「物はいつか壊れるものだ」


 彼は父親の形見の時計が壊れたことを気にしていないようだった。


「スーツと時計を弁償させて下さい」


 彼のスーツは汚れて破れていた。おそらく買い換えないとならないだろうと思った。


「いいよ」


「でも、命を救ってもらった上に、洋服と大切な時計がそんなことになって……」


 私は泣きそうになった。


 いや、泣いていた。


「命を救ったなんて大げさだよ。それに君が泣くことない」


 多分、私は泣きたかったのだ。それは彼の時計が壊れたからじゃない。これまでいろんなことがあり、仕事も失い、アイドルとしての夢も断たれからだ。でも、そんな自分の泣きたい気持ちを受け止めてくれる人はどこにもいなかった。


 彼は見ず知らずの人で、会ったばかりだ。それなのに前からずっと知り合いだったような不思議な気がした。そして何よりも、こんな私を救うために自らの身を投げ出し、自分のスーツや父親の形見の時計をだめにしてしまっても、私のことを責めるわけでもなく、私の身を案じてくれている。


 ずっと、誰かに甘えたかった。


 自分を受け止めてもらいたかった。


 泣き出したら止まらなくなった。


 子供のように泣きじゃくった。


 彼は私のことを、おそるおそる抱きしめると、髪を撫でて子供をあやすようにしながら、「大丈夫だよ。もう泣かないで」と私に言った。


 こんな風に男に人に抱かれて守られている気持ちになったのは何年ぶりだろうか。


 アイドルは現役の間は恋愛禁止だ。


 恋愛が禁止されているのに業界内でのドロドロした枕営業は公然の秘密としてまかり通っていた。


 確かに狂った世界だった。


 私は彼の腕に抱かれて、こんな安堵感を得られるならば、あの狂った世界を卒業してよかったと思った。


 彼は私から身体を離した。


「もう行かなくちゃ。仕事がある」


「待って」


 私は必死だった。もう一度彼に会いたかった。このまま別れて一生会えないのは嫌だった。


「何かお礼をさせて下さい」


 彼は考える仕草をした。


「別に何もいらないけど、いちおう連絡先は渡しておくよ」


 そう言うと彼は名刺を渡してくれた。


 肩書は代表取締役社長になっていた。そして携帯電話の番号やメールアドレスも書いてあった。


「ここに直接連絡してもいいですか」


「ああ、これは僕の携帯とメールアドレスだからね」


 彼に自分の連絡先も訊かれると思った。だけど私は自分の名刺を持っていなかった。


 だが彼は私の連絡先も訊かないで、そのまま行こうとした。


「あの」


「なんだい」


 彼が振り向いた。


「小坂亜紀といいます。ありがとうございました」


 そう言って頭を下げた。


 彼は片手を上げてこたえて、そのまま去って行った。


 その日の晩、私は彼にお礼のメールをした。


 すぐに彼から返事が来た。


 私はどうしても弁償とお礼がしたいと告げたが、彼は弁償とかはしなくていいと拒んだ。


 私は彼に食事をご馳走することにした。


 彼はそれを承諾してくれた。


 1週間後、私は彼とフレンチレストランに行った。


 そうして、彼とのお付き合いが始まったのだ。






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