九話 青い海
人や風、あるいは光さえも拒むような深い森の中、
ぽっかりと開けた場所に青い海が広がる。
海の正体は、無数の小さな青い花。
所々盛り上がった地面が波を作り、そのてっぺんには剣が突き刺さっている。
ここは気味が悪いくらい静かで、時折聞こえる鳥の声と木々の囁きがなければ、世界から音が消えたと錯覚しそうなほどだ。
ハルは、この場所が気に入っていた。
静かで、海だけを照らすような光は幻想的で、穏やかな時間を堪能していた。
ある時間を除いて……だが。
そろそろ、その「ある時間」がやってくる。
ハルは少し、心が重くなった。
森の奥から、ガチャガチャと金属がぶつかり合う音が聞こえてくる……。
あの男が来た。
ハルは、そう確信した。
男は、いつもこの時間にやって来る。
光の射し込む角度が真上に来る少し前。計ったように同じだ。
男は、この開けた場所に入る前、必ず立ち止まり頭を下げ、目を閉じ、手を合わせる。
男は、鍛えられた体に鎧を纏い、腰に一振の剣。そして、酒を手に持っている。
出で立ちも、いつも同じだ。
ハルは、その鎧に見覚えがあった。
ソラが以前見せてくれた過去の記憶……。
父が着けていた鎧と似ていると感じていた。
男は少しの間手を合わせた後、一つの波の前に行き、もう一度頭を下げる。
そして、ドカッと座り込み、酒を煽りはじめる。
いつも同じ時間、同じ出で立ち、同じ場所。
ゆっくりと酒を飲むのも変わらない。
荒っぽい風貌とは裏腹に、その動きは妙に几帳面だった。
ハルは、ずっとその様子を黙って見ている。
どれくらい経っただろう。
日射しが、男が来た時より反対に傾いたのがはっきり分かる頃。
男は空の酒瓶を持ち、立ち上がる。
この後が問題だった……。
立ち上がった男は、ゆっくりと辺りを見回しながら、一つ一つの波に頭を下げていく。
そして、視線が海の中央に来ると突然――
「なんだ! 目立ちやがって!」
「自分を特別だと思ってるんだろ!?」
ハルの方を指差し、怒鳴って来る。
所狭しと花が咲いているので勘違いかと思ったが、なぜかいつも、自分に言っているように思えた。
身に覚えのない言いがかりに、いつもハルは困惑していた。
しばらくすると気が済んだのか、ヨロヨロと男は帰って行った。
「ねえ?」
「なんだ?」
「なんで、あの人。いつも僕の方に叫ぶのかな……?」
「目立つとか……特別とか……。よく分からない事ばっかり」
ハルはソラに問いかける。
「ああ……。それはお前だけ、違う花だからだろ?」
「……え?」
「だから、お前だけ違うんだよ」
ソラは、淡々と答える。
「違うって……。僕は周りの青い花じゃないの?」
「違うな」
「何で教えてくれないの?」
「聞かれてないからだ」
ソラはきっぱりと答える。
「逆に、なんで聞かないんだ?」
「え? それは……」
説明が長いからとは言えず、ハルが返事を探していると、
「まあ、これだけ同じ花が咲いてたら無理も無いか」
ソラはそう言うと、指をパチンと弾く。
空間が歪み、赤い花が浮かび上がる。
「私の見てる物を投影した。これが、お前だ」
なるほど……。
数えきれないほどの青い花の中に、真っ赤な花が一輪。
男の言う事の意味が分かった。
しかしそれでも、花に怒ってどうするのかと思う。
だが、過去に花を相手に会話の練習をする男がいた事を思い出した。
「ま、名前だけ教えておいてやる。お前の花がポピーで、周りの青い花がネモフィラだ。詳しく知りたければ――」
「いや、大丈夫……」
ソラが得意気に喋り出しそうな気配を感じ、ハルは会話を打ち切った。
次の日。
ハルは光輝く青い世界で、森を通り抜ける僅かな風に、一人そよそよと揺られていた。
ハルは人に聞くばかりで、本当に海を見た事は無かったが、おそらくこんな感じなんだろうなと感じていた。
そうしていると、森の奥からいつもの気配がしてくる。
男は、いつものように儀式を済ませた後、また同じ場所で酒を飲む。
ハルは昨日、自分の姿を見て男が自分に怒鳴ってくる理由を理解した。
だが次に、男がなぜ毎日やって来るのか、何に腹を立て怒るのか、そこに興味を持った。
屈強そうな一人の兵士が、ただ一輪違うという理由だけで、花に本気で腹を立てるとは思い難いからだ。
一面に広がる青い花。
盛り上がった地面。突き立てられた剣。
おおよそ墓である事は見当がつく。
ハルは自然と、男をじっと観察し始めた。
いくつかの墓があるが、座る場所はいつも同じ。
知り合いの墓だろうか。
来た時は伸びていた背筋が、今は丸まり小さく見える。
何となくだが、悲しみよりも、自分を責めているように思えた。
時折、何かぶつぶつと喋っているが、声が小さ過ぎて聞き取りにくい。
手のひらの付け根で目尻の辺りをぐっと擦るのは、涙を拭いているのだろうか……。
ハルがじっくり観察していると、男は空になった瓶を持って立ち上がる。
そして辺りを見渡した後、ハルを睨みつける。
「一人だけ違うからって、いい気になるなよ!」
男は怒鳴り出す。
毎回、内容は中身の無い言いがかりだ。
しかしハルは、もう気にならなくなっていた。
これは、僕に言っているんじゃないな……。
ハルはなんとなくだが、そう感じた。
一通り喚き散らすと、男はまたふらふらと帰って行った……。
ハルは男の背中を見送ると、
「友達の墓参りかな?」
とソラに語りかけた。
「そんな所だろうな。毎日来るんだ。親しい仲だったんだろう」
「そうだね。僕に怒鳴るのも……僕が気に入らない訳じゃなさそうだ……」
「同感だな」
「でも……なんでこんな森の深くにお墓を作ったのかな?」
「ここに埋葬するしか無かったんじゃないか?」
「ああ……そうか……」
毎日来る兵士。突き立てられた剣。
そうか、ここで戦闘が……。
ハルがそう考えていると、
「気になるなら、見るか?」
とソラが言う。
「何を?」
「記憶だよ」
「だから、あんまり人の記憶は……」
「悪趣味と言いたいんだろ? 心配するな。大地の記憶だ」
そう言うと、ソラは指を弾いた。
目の前の空間が歪み、この地に眠る記憶が投影された。
夜の森……。
ぽっかりと開けた何も無い場所に、月明かりが射し込む。
ガチャガチャと金属音を立てながら、男達がその場所にやって来る。
十五人くらいだろうか。
一人の男が、背中に誰かを担いでいる。
あの男だ――。
男は、背中に担いだ男をゆっくりと地面に寝かせるように下ろした。
「アイズ、大丈夫か?」
男は、担いで来た男にそう声をかける。
アイズと呼ばれた男は、苦しそうな顔をしている。
男は手袋を外し、アイズの額に手を置く。
「ひどい熱だ……さっきより体温が高くなってる」
男は冷静にアイズの顔を見ながら呟く。
「ケージ! どうする?」
近くにいた男が言う。
いつもの男の名前は、ケージと言うらしい。
「そうだな……」
ケージは少し考えてから言う。
「この森の中には、熱冷ましの効果のある野草があるはずだ。俺が探してくる。お前達は夜営の準備をしながら、アイズの様子を見ててくれ」
「お前が一応、隊長だろ? 隊を離れたらまずいだろ?」
「誰か、野草の判別が出来るのか? 俺が行くしか無いだろ」
ケージは、そう言って男の肩に手をやる。
「でもよ……どこに敵がいるか分からないんだぜ? お前も一人で行くのは危険だぜ?」
ケージは少し考え込む。
やがて考えが纏まったようで、指示を始めた。
「野草は、俺が一人で探しに行く。お前の言うように、敵が近くにいるかもしれない。一人の方が察知されにくいし、敵がいないか偵察にもなる」
男は一つ小さく頷く。
「お前達は、ここでアイズの様子を見ながら待機。副隊長のアイズがこの調子だ。その間、指揮はお前が執れ」
男は少し面食らうが、再び頷く。
「火は使うな。敵に見つかる。月明かりがあるから視界は大丈夫だろう。いいか、今回の目的は偵察だ。極力戦闘は避けろ。とにかく、俺が帰るまで全員待機だ。静かに体を休めておけ」
全員が、小さく声を揃えて返事をした。
「ケージ……すまない……」
「気にするな……」
ケージは優しい声を贈ると、静かに森に消えて行った。
男達はケージを見送ると、静かにその場に腰を下ろし、声を潜めて休息を取りだした。
指揮官は、アイズの側に座り、静かにアイズの様子を見守る。
全員が動くのを止めると、異様な程の静けさが部隊を包み込む。
時折、ガサガサと木が揺れる音がする以外は、全くの無音である。
「気味が悪いな」
誰かが呟く。
「そうだな……」
あまりの静けさに耐えられなかったのか、小さな声で会話を始める。
「本当にこんな所まで、敵が来てるのか?」
「それを確認する為の偵察だろ?」
ヒソヒソと会話が進む。
「ここから、俺達の街まで三時間程か……」
「本当だったら、厄介だな」
「とにかく今は、ケージを待とうぜ」
「……しかし、ケージは大丈夫か? 一人で」
「……大丈夫だろ? ケージは森に詳しいし」
「頭は悪いが、腕は立つしな」
全員が、声を殺すようにクックッと笑う。
「でもよ、ケージがいないとこっちは手薄だぜ?」
「アイズも動けねぇしよ……」
「とりあえず、待つしかねぇな……」
そう言うと、部隊はまた静まりかえった。
それから、どれくらい経っただろう。
何人かは、コクリコクリと頭を揺らし、眠っているようだ。
指揮官は、
「おい、起きとけよ……。何があるか分からねぇぞ」
と小声で注意する。
昼間の行軍と緊張、そして静かすぎる薄闇。
無理も無いと思いながらも、寝かしておく訳にはいかない。
その時、森の向こうから微かな足音と、ガサガサと繁みを揺らす音がした。
ケージが帰って来た。
一瞬そう思ったが、指揮官の背筋が凍った。
「起きろ! 立て!」
「全員、剣を抜け!」
指揮官の怒号が響く。
ケージが、あんな物音を出すはずが無い。
指揮官は、敵襲と判断した。
一瞬にして部隊に緊張が走り、全員飛び上がるようにして立ち上がり、剣を構えた。
しかし、その頃には森の木陰から湧いて出て来るように敵兵が姿を表した。
「円になれ! アイズを囲め!」
「お互いの背中と、アイズを守れ!」
急拵えの指揮官だったが、的確に指示を出す。
相手の数は、二十……二十五。
こちらよりは多い。だからこそ、襲撃して来たのだろうが……。
敵は、ジリジリと距離を詰める。
「いいか、こっちからは仕掛けるな……。目の前の敵を迎え討て……」
そう言って小声で最後の指揮を執る。
皆、小さく頷いた。
次の瞬間、敵兵の一人が痺れを切らしたように飛びかかって来た。
そこから激しい戦闘になった。
部隊は勇敢に敵を迎え討った。
事実、序盤は互角以上に戦っていた。
しかし、人数の差とアイズを守るという足枷が、少しずつ部隊を疲弊させる。
アイズを気にした兵士が一人。
動揺した兵士が一人。
次々に倒れて行く……。
陣形は崩れ、乱戦へと突入する。
それでも、残る兵士は死力を尽くして戦う。
敵兵にも、甚大な被害が出ていた。
それでも、数に勝る敵の奇襲を払いのける事は出来なかった。
最後に残ったのは、アイズに肩を貸しながら、片手で剣を振るう指揮官。
しかし、体力は底をついていた。
「ここまでか……」
数人の敵兵が一斉に飛びかかった……。
しばらくして、ケージが森の中から帰ってきた。
手には野草を持ち、息を切らしている。
騒ぎに気付いて、急いで帰ってきたようだ。
そんなケージの目に飛び込んで来た光景は、まさに地獄だった。
部隊は、全滅。
敵兵の死体も、無数に転がっている。
ケージは、呆然と辺りを見渡す。
しばらく、魂の抜けた人形のように立ち尽くす。
「アイズ……」
そう呟くと、辺りをせわしく見回す。
すると一つの妙な、仲間の遺体に目を止めた。
一人の体に覆い被さるようにして、もう一人……。
重なるように倒れている。その体の中心を、無慈悲に剣が貫いている。
ケージは近寄ると、二人の顔を確認する。
覆い被さっているのは、指揮を任せた男。
下になっているのは、アイズだった……。
ケージは、小さく震える手で二人の目をそっと閉じてやると、獣のような叫び声を出して、近くに転がる敵兵の死体の胸ぐらを掴み、力任せに引き起こした。
ケージは、死体を殴打した。
殴って。
殴って。
蹴飛ばした。
そして、ケージはその場に膝から崩れるように座り込んだ……。
ケージは、ずっと動かなかった。
動けなかった。
やがて森に朝日が射し込み、辺りが明るくなる頃。
ケージは、ゆっくりと立ち上がり、敵兵の死体を森の中へ引きずっていった。
全ての死体を運び終えると、ケージは一心不乱に地面に穴を掘り出した。
深く、深く。
仲間の数と同じだけ。
部隊が携行品として持っていた三本のスコップがダメになる頃、全ての穴を掘り終えた。
ケージは丁寧に仲間の遺体を穴に納めると、ゆっくりと土をかけた。
出来上がった十六の小さな丘に手を合わせ、剣を突き立てていく。
全てが終わると、ケージはゆっくりとその場を後にした。
数日後。
再び現れたケージは、全ての仲間に手を合わせ、そこら中に小さな種を撒いた。
そうして、ケージは帰っていった。
その直後、空から小さな光る種が一粒地面に落ち、ゆっくりと光を消した……。
「なるほどな……」
ソラは呟いた。
「……」
ハルは黙っている。
少し、ハルには厳しい内容だったな……。
ソラはそう思っていた。
ハルの父親の記憶と重なる部分もあるし、ケージの部隊の鎧はハルの父親と同じ物だ。
「嫌な過去を思い出したか?」
ソラはハルに問いかける。
「……そうだね。……でも、気にしてないよ……」
ハルは、静かにそう答えた。
「ま、あの男がこの場所に来る理由は分かったな。鎮魂の意味もあるだろうが……後悔しているんだろう。お前に怒る理由も、理解できる……」
「僕に怒る理由?」
「分からないか?」
「仲間を守れなかったから……?」
「でも、僕に怒る理由には……」
ハルの答えに、ソラは返す。
「仲間と一緒に戦えなかった。死ねなかった。自分だけが、生き残った……。それが、許せないんじゃないか?」
「……そうかもね」
「自分の撒いた花の中に、違う花が一つ。たった一人生き残った自分に、重ねてるんじゃないか?」
「……うん。理解できる」
ハルとソラは、青い海を見つめる。
森に射し込む光は無くなり、辺りは闇に染め上げられていく――。
「ハルは、あの男をどう感じる?」
ソラはハルに問う。
「そうだね……。始めは、好きではなかったかな……」
ハルはゆっくりと答えていく。
「今は……同情とかでは無いと思うけど……。嫌いではないかな……」
「そうか……」
二人の会話が終わる頃、
ほんの一筋の月明かりが、
青い海を柔らかく浮かび上がらせた――。




