八話 想いめぐる
朝の少し冷たい空気が残っている丘の上に、暖かな陽射しが降りそそぐ。
丘の上は芝生が広がり、中央には街を見下ろすように大きな木が立っている。
所々にベンチがあり、芝生を掻き分けるように黄色い花の蕾が顔を出していた。
整えられた広場だが、少しの登山が必要なので、来る人は少ない。
そんな場所に、何日かに一度いくつかの人影が現れる。
若い男女を先頭に、その後ろには七人ほどの子供達が、まるで仔犬のしっぽのように、せわしく動きながら着いてきている。
丘の上に着いた一行。
子供の一人が、待ちきれない様子で若い女性に、
「チグサ姉さん! 遊んでいい?」
と腕を掴んで問いかける。
「いいわよ。皆で仲良く遊んできなさい」
チグサは、優しく了承した。
子供達は、わー! っと言いながら一斉に駆け出した。
「すごい元気だな! この坂を上がった後に……」
男は、感心するような、呆れたような表情をしている。
「レオ。あなたの子供の頃は、もっと元気だったわよ」
チグサは、クスクスと笑いながらレオをからかう。
「そうだったかな?」
「よし……なら、まだまだ元気な所を見せてやる!」
そう言うと、レオは子供達の輪の中に飛び込んで行った。
「あ! レオが来た!」
「逃げろ!」
子供達は笑いながら逃げ出した。
鬼ごっこの始まりだ。
「子供のままね……」
チグサは、少し呆れたような顔で笑った。
そんな中、遅れて坂を上がってくる人影が二つ。
困ったような顔の老女と、手を引く少女。
それに気付いたチグサが歩みよる。
「ツツミ母さん、大丈夫?」
手を引いてきた少女が、心配そうに老女の顔を覗きこむ。
「ありがとう……」
「大丈夫だよ……ほら、遊んでおいで……」
ツツミは息を切らせながら、少女を遊びに行くように促す。
「私に任せて、遊んでおいで」
チグサは二人の近くに来ると、そう言って少女の背中をそっと押した。
少女が元気に駆けていくのを見送ると、
「お母さん、大丈夫?」
そう言って、ツツミの手を優しく引いた。
「ありがとう。この坂は堪えるねぇ……」
ツツミはそう言いながら、ゆっくりと歩きだした。
二人は、近くのベンチに並んで腰を下ろした。
「お母さん、無理について来なくていいのに……」
「そうねぇ……でも、ずっと来ている場所だしねぇ」
「子供達が、元気に遊ぶ姿を見たいからねぇ……」
「でも、もう歳だし。危ないから……」
「そうねぇ……もう少ししたら考えてみようかねぇ」
二人は言葉を交わすが、どこか上滑りしたような会話だ。
お互いに、言ってはいけない言葉があるように感じる。
「今日も天気が良いし、子供達も楽しそうだねぇ」
「そうね。楽しそう」
「一人、大きな子供も混じってるけど」
チグサがそう言うと、二人はレオを見た。
すばしっこい子供達に翻弄されて、ずっと鬼のままだ。
しかし、誰よりも楽しんでいる。
「あの子も変わらないねぇ」
「本当ね。成長してない」
二人はそう言うと、クスクスと笑った。
「でもレオは、ウチの孤児院を出てから頑張ったわよ」
「今じゃ、小さな商会をやってるんだもの」
「そうだねぇ。頑張ったねぇ」
ツツミは、ゆっくりと頷く。
しばらく、二人は子供達を眺めていた。
ツツミは気持ち良さそうに、辺りを見回す。
「あら……あのタンポポ……」
「あなたみたいよ」
その声に誘われ、チグサはツツミの見ている方を見てみた。
少し離れた所に、一輪だけタンポポが咲いている。
「他はまだ蕾なのに、あわてんぼうねぇ」
「確かに、わたしみたいね」
二人は、アハハと笑った。
「あなたも、レオも。大きく育ってくれて、立派になったけど……」
「わたしの中では、お調子者の男の子と、あわてんぼうの女の子のまんま……」
「何も変わってないんだよ」
ツツミはそう言うと、遠くを見つめた。
チグサは、そんなツツミの横顔を寂しそうな目で見つめていた。
そうしていると、
「ツツミ母さん、お花の王冠作って!」
一人の少女が、ツツミの手を引っ張りながら、小さな白い花が咲いている方を指差す。
「じゃあ、一緒に作ろうねぇ」
そう言うと、少女に手を引かれるままに歩いて行った。
入れ替わるようにして、レオがベンチにどっかりと座った。
どうやら、鬼ごっこは終わったらしい。
「あー! 疲れた!」
「アイツら元気過ぎる! 全然捕まえられなかった!」
レオは、悔しそうに膝を叩いた。
チグサはクスクス笑いながら、
「すぐムキになるんだから……」
そう言うと、汗だくのレオにハンカチを差し出した。
レオの汗が引く頃、二人で花の王冠を作っているツツミを眺めていた。
「チグサ、今日は話をしたのか?」
チグサは顔を横に振る。
「そうか……ツツミ母さん、頑固な所があるしな……」
「なかなか難しいよな……」
レオは、ツツミから目を離さずに言った。
「今までも、何度か話をしたけど……」
「すぐに、喧嘩みたいになっちゃうから……」
チグサは俯いて話し始める。
「そうか……俺としても、早くツツミ母さんには楽してほしいんだけどな……」
「わたしもそうよ……でも、意地になってるのか、なかなか話を聞いてくれないの……」
「そうか……」
二人は、そこで口をつぐんだ。
重い空気を洗い流すように、優しい風が吹いた。
二人はベンチを立ち、子供達の方へ歩いていった。
あわてんぼうのタンポポが、ゆらゆらと揺れた。
日が傾き始めた頃、一行は長い影を引き連れて坂道を降りて行った。
それからしばらくして――
タンポポの蕾が開き、丘の上に春の色が濃くなる頃、あの一行がまたやってきた。
レオの周りを子供達が囲み、何やら楽しげに坂を上がってくる。
丘の上に着くなり、レオが駆け出す。
どうやら、鬼を回避する作戦のようだ。
子供達も散り散りに走り出す。
今日の鬼は、一人の少年のようだ。
笑い声が、丘の上を包む。
しばらくして、レオが鬼に捕まって地面を叩いている時、遅れてツツミとチグサが上ってきた。
チグサがツツミの背中に手を当て、寄り添うようにしている。
ツツミの表情は、いつにもまして苦しそうだ。
二人はやっとの思いで丘の上に着き、ベンチに並んで腰を下ろした。
チグサは、苦しそうなツツミに飲み物を差し出した。
ツツミは「ありがとう」と礼を言い、飲み物を受け取り、ゆっくりと口に含んだ。
息が乱れていたせいか、ツツミはごほごほと噎せこんだ。
なかなか止まらない。
背中をさすりながら、その様子を見ていたチグサは、穏やかな声でツツミに話しかけた。
「お母さん……前から言ってる事だけど……」
「孤児院は私に任せて、お母さんはゆっくりしてほしいの」
「今日だって、坂を上るのが精一杯……」
「お願いだから、もう辞めてほしいの……」
チグサの言葉は、声こそ穏やかだが、強い意思が含まれていた。
「また……その話かい?」
少しずつ、息が整い始めたツツミが答える。
「わたしは、まだまだ働けるよ。子供達の成長も見たいしねぇ」
ツツミはそう言って、チグサの要求をやんわり断る。
「辞めても子供の成長は見れるでしょ? なにも院から出ていけとは言ってないじゃない」
「こうやって子供達を遊ばせたり、寄付を集めたりするのは、わたしに任せてって言ってるだけよ……」
チグサも簡単には引き下がらない。
「寄付も集めるのも大変なのよ……」
「あなたがそんな苦労をしなくていいのよ」
ツツミも首を縦に振らない。
「お母さんも、もう歳なんだし。ずっと苦労してきたから……少しは楽してほしいの!」
チグサの言葉が少し熱を持ち始める。
「大変なのよ……あなたは知らないけど……」
「お金も足りないし……子供だって……いつも元気じゃないし……」
「病気だってするからねぇ……」
ツツミは、ずっと同じ温度で淡々と返す。
「知ってるわよ……わたしだって!」
チグサの声は、いよいよ大きくなってきた。
「お母さんに拾ってもらって……」
「ずっと育ててもらって……」
「どこにも行くあてのない私を、養子にしてくれて……」
「ずっと見てきたから知ってるわよ!」
「だから、お母さんには楽してほしいのよ!」
チグサの瞳からは、涙がぼろぼろと落ちている。
「だからって……あなたが苦労する必要はないからねぇ……」
「レオと一緒になって、普通に暮らせるんだもの……」
「その方が幸せなんだから……」
ツツミは、優しくチグサをなだめる。
「子供達はどうするの? 孤児院は?」
「お母さんに何かあったら……」
「子供達は、行く所なんてないのよ?」
「孤児院だって……」
「わたしにも、子供達にも大事な場所なのよ?」
チグサはそう言うと、顔を抑え、その場にしゃがみこんでしまった。
「苦労はさせたくないからねぇ……」
ツツミはそう呟くと、チグサの肩に手を添えた。
話し合いはいつも、こんな調子だった。
いつの間にか周りには、ただ事ではない空気を心配した子供達と、レオが来ていた。
チグサの涙を拭ってやる子。
目に涙を浮かべている子。
ツツミの足に抱きつく子。
子供達の反応は様々だが、二人を心配しているのは皆同じだった。
「ツツミ母さん……」
「今までは、口出ししませんでしたが……」
「チグサの言うように、隠居して下さい!」
「お願いします!」
レオに、いつものお調子者の面影はない。
「そうは言ってもねぇ……」
「俺がチグサを支えます!」
「結婚して、一緒に頑張ります!」
「お金だって……寄付がなくたって、俺の商会から出しますから!」
「お願いします! 俺もチグサも……母さんに楽してほしいんです!」
そう言って、頭を深く下げた。
「困ったねぇ……」
「あなた達は、小さい時に辛い思いをしたんだから……」
「自分の幸せだけ考えたらいいのよ……」
ツツミはそう言うと、ゆっくりと立ち上がった。
「わたしは、先に帰るから……」
「皆は、ゆっくりと遊んでから帰ってきてねぇ……」
そう言い残して、歩きだした。
「俺が送ります!」
そう言ってレオは、ツツミの元へ駆けて行った。
「チグサ姉さん。大丈夫?」
一人の少年がチグサを慰める。
「うん……平気……」
「ごめんね! さあ、皆で遊びましょう!」
そう言って、チグサは涙を指で拭うと、子供達と一緒に遊んだ。
しばらくして、日が傾く頃、チグサと子供達は一緒に歌を歌いながら坂を下りて行った。
冬の姿はいよいよ消えさり、生命が咲き誇る季節に、誰もが浮かれる頃。
丘の上にはまた、一行の姿があった。
走り回れば暑いくらいの陽気と、時折吹く静かな風が、景色をより美しく見せていた。
子供達は元気に遊んでいる。
今日はどうやら、かくれんぼのようだ。
この日、ツツミは誰の助けも借りず、丘の上まで上って来ていた。
おそらく、あの会話を避ける為だ。
心配をかけたくない思いもあるだろう。
現にツツミは、一人で上って来たにも関わらず、さして遅れることもなく到着していた。
いつものベンチに、チグサと並んで腰を下ろす。
「今日は暑いねぇ……」
「その分、風が気持ちいいわね」
二人は、他愛のない親子の会話を楽しんでいた。
ツツミはゆっくりと辺りを見回し、穏やかな表情で景色を楽しんでいるようだ。
その横でチグサは、少し離れた所にいるレオに視線を送った。
レオは小さく頷き、二人の元へ歩みよってきた。
「お母さん」
静かに、チグサが切り出す。
「この前の話だけど……」
「お願いします。院の経営から離れて下さい」
チグサは背筋を伸ばし、ツツミの目を真っ直ぐに見て話した。
「またその話かい……?」
「俺からもお願いします。」
「ツツミ母さん、どうか楽をして下さい」
レオは頭を下げる。
「困ったねぇ……」
ツツミは二人に言われ、返す言葉に困っていた。
「じゃあ……帰ってから話そうかねぇ……」
とりあえず、この話題を切り上げようとする。
「母さん。今決めてほしいの……」
チグサは、穏やかだが芯のある声でツツミに迫る。
「……」
「わたしはねぇ……」
ツツミはゆっくりと話し出した。
「あなた達が可愛くてねぇ……」
「今まで巣立った子達も、みんな覚えてるのよ……」
「みんな、悲しい思いをした子だから……」
「幸せになってほしいのよ……」
ツツミは、丁寧に話を続ける。
「だから……あなた達もねぇ……」
「自分の幸せだけを考えてほしいのよ……」
「今の子供達がみんな巣立ったら……」
「その時には、辞めるから……」
「そうさせてちょうだい……」
ツツミは、二人を優しく説得した。
チグサは、前を見たまま一筋の涙を溢す。
「お母さん」
「そうやって、いつまでも続けたら」
「お母さんの幸せは、どうなるの?」
チグサは、静かにツツミに話す。
「皆、お母さんが心配で」
「お母さんに、幸せに暮らしてほしいの」
「お願い。わたしとレオに任せて……」
チグサはそう言って、頭を下げた。
「二人でやっても……苦労はするから……」
ツツミは困ったような顔で、受け入れようとしない。
三人が次の言葉を探すように沈黙していると、坂の方からたくさんの足音が聞こえてきた。
足音は三人を取り囲むようにして立ち止まる。
「お久しぶりです。ツツミ母さん。覚えてますか?」
一人の男性が、ツツミに声をかける。
ツツミは声の主に目をやると、
「もちろん覚えてるわよ……」
「あなたは、泣き虫でねぇ……」
そう言って思い出話を始める。
「わたしも覚えてますか?」
「僕も覚えてますか?」
四方八方から、ツツミに声が降りかかる。
「……いっぺんに言われても……答えきれないから……」
ツツミが困ったように笑うと、周りの男女も一斉に笑った。
ツツミは、ぐるりと顔を見回した。
大人になってはいるが、どれもこれも見覚えのある顔。
皆、ツツミの子供だった。
「懐かしいねぇ……」
ツツミは、うっすら目に涙を浮かべる。
「今日は、皆揃ってどうしたのかしら……」
「俺達、レオから頼まれたんです」
一人の男が話し始める。
「ツツミ母さんを説得したいから、集まってくれって」
男はレオの方に目を向ける。
「俺は、孤児院を出てから漁師になって頑張ってます」
「わたしは、結婚をしてお母さんになりました」
「僕は今、勉強をしてて医者になりたいです」
皆が、ツツミに近況を語る。
どれもこれも、明るく元気に生活しているのが伝わる内容だ。
「俺達も、二人を手伝います」
「だから、ツツミ母さん……経営から離れてゆっくりして下さい」
「俺達、母さんに長生きしてもらいたいんです!」
ツツミは子供達に囲まれ、いよいよ言葉を無くしていた。
子供達の気持ちは嬉しいが……なかなか踏ん切りがつかない。
視線を地面に落としていると、真っ白いタンポポの綿毛が目に入った。
いつかの、あわてんぼう。
チグサのようなタンポポだった。
その時、そよそよと優しく風が吹いた。
綿毛は、ゆっくりと青空に舞い上がり、自分が根を張る場所を見つける旅に出ていった。
「わかったわ……」
「チグサと、レオに……」
「任せてみようかねぇ……」
広場は、ワッと沸いた。
抱き合う者、泣いている者、様々だが、皆心から喜んでいる。
チグサとレオは、ツツミを両側からゆっくり抱き締めた。
広場の至る所で、騒ぎを聞き付けた子供達がひょこひょこと頭を出す。
「何の騒ぎ?」
子供達が寄ってくる。
「俺達はな、お前達の兄さん姉さんだ」
「お前達と遊びに来たんだよ」
一人の男が言った。
「孤児院にいた人?」
「ああ! さあ何して遊ぶ?」
子供達は一瞬考えて、
「鬼ごっこ!」
そう叫んで走った。
集まった子供達は、
「逃げろ! 鬼はレオだ!」
そう言って走りだした。
「また俺か!」
レオも少し遅れて走り出す。
ツツミとチグサは、その様子を見て笑った。
その頃、空へゆっくりと吸い込まれる意識が二つ。
「特に何もなかったな……」
ハルが呟く。
「そうでもない」
「え?」
「そこに居るだけで、誰かを救う……」
「そんな事もあるさ」
「ふーん……」
「そんなものかな……?」
「そんなものさ」
二人は空に還っていった。
それから、いくつかの日が進み、丘の上を白い綿毛が埋め尽くす頃。
丘には黒い人影がたくさんあった。
何人かが棺を担ぎ、粛々と坂を上ってくる。
丘の上に掘られた穴に棺を収め、ゆっくりと土を被せていく。
「あっけなかったな……」
レオは、泣いているチグサの肩に手を掛け呟く。
「やっと、母さんに楽をしてもらえると思ったのに……」
チグサは、悲しみにくれている。
「綺麗な顔だったじゃないか……」
「安心したように……」
レオは、そう言ってチグサを慰めた。
周りのツツミの子供達も、悲しみの中、静かに手を合わせる。
大きな母の愛に感謝しながら。
土を被せ終わると、小さな墓石が置かれた。
皆で最後の祈りをする。
その時、一つの風が吹いた。
風は丘の上を撫でるように吹き抜け、小さな白い綿毛を一面に舞い上がらせた――八話 想いめぐる
朝の少し冷たい空気が残っている丘の上に、暖かな陽射しが降りそそぐ。
丘の上は芝生が広がり、中央には街を見下ろすように大きな木が立っている。
所々にベンチがあり、芝生を掻き分けるように黄色い花の蕾が顔を出していた。
整えられた広場だが、少しの登山が必要なので、来る人は少ない。
そんな場所に、何日かに一度いくつかの人影が現れる。
若い男女を先頭に、その後ろには七人ほどの子供達が、まるで仔犬のしっぽのように、せわしく動きながら着いてきている。
丘の上に着いた一行。
子供の一人が、待ちきれない様子で若い女性に、
「チグサ姉さん! 遊んでいい?」
と腕を掴んで問いかける。
「いいわよ。皆で仲良く遊んできなさい」
チグサは、優しく了承した。
子供達は、わー! っと言いながら一斉に駆け出した。
「すごい元気だな! この坂を上がった後に……」
男は、感心するような、呆れたような表情をしている。
「レオ。あなたの子供の頃は、もっと元気だったわよ」
チグサは、クスクスと笑いながらレオをからかう。
「そうだったかな?」
「よし……なら、まだまだ元気な所を見せてやる!」
そう言うと、レオは子供達の輪の中に飛び込んで行った。
「あ! レオが来た!」
「逃げろ!」
子供達は笑いながら逃げ出した。
鬼ごっこの始まりだ。
「子供のままね……」
チグサは、少し呆れたような顔で笑った。
そんな中、遅れて坂を上がってくる人影が二つ。
困ったような顔の老女と、手を引く少女。
それに気付いたチグサが歩みよる。
「ツツミ母さん、大丈夫?」
手を引いてきた少女が、心配そうに老女の顔を覗きこむ。
「ありがとう……」
「大丈夫だよ……ほら、遊んでおいで……」
ツツミは息を切らせながら、少女を遊びに行くように促す。
「私に任せて、遊んでおいで」
チグサは二人の近くに来ると、そう言って少女の背中をそっと押した。
少女が元気に駆けていくのを見送ると、
「お母さん、大丈夫?」
そう言って、ツツミの手を優しく引いた。
「ありがとう。この坂は堪えるねぇ……」
ツツミはそう言いながら、ゆっくりと歩きだした。
二人は、近くのベンチに並んで腰を下ろした。
「お母さん、無理について来なくていいのに……」
「そうねぇ……でも、ずっと来ている場所だしねぇ」
「子供達が、元気に遊ぶ姿を見たいからねぇ……」
「でも、もう歳だし。危ないから……」
「そうねぇ……もう少ししたら考えてみようかねぇ」
二人は言葉を交わすが、どこか上滑りしたような会話だ。
お互いに、言ってはいけない言葉があるように感じる。
「今日も天気が良いし、子供達も楽しそうだねぇ」
「そうね。楽しそう」
「一人、大きな子供も混じってるけど」
チグサがそう言うと、二人はレオを見た。
すばしっこい子供達に翻弄されて、ずっと鬼のままだ。
しかし、誰よりも楽しんでいる。
「あの子も変わらないねぇ」
「本当ね。成長してない」
二人はそう言うと、クスクスと笑った。
「でもレオは、ウチの孤児院を出てから頑張ったわよ」
「今じゃ、小さな商会をやってるんだもの」
「そうだねぇ。頑張ったねぇ」
ツツミは、ゆっくりと頷く。
しばらく、二人は子供達を眺めていた。
ツツミは気持ち良さそうに、辺りを見回す。
「あら……あのタンポポ……」
「あなたみたいよ」
その声に誘われ、チグサはツツミの見ている方を見てみた。
少し離れた所に、一輪だけタンポポが咲いている。
「他はまだ蕾なのに、あわてんぼうねぇ」
「確かに、わたしみたいね」
二人は、アハハと笑った。
「あなたも、レオも。大きく育ってくれて、立派になったけど……」
「わたしの中では、お調子者の男の子と、あわてんぼうの女の子のまんま……」
「何も変わってないんだよ」
ツツミはそう言うと、遠くを見つめた。
チグサは、そんなツツミの横顔を寂しそうな目で見つめていた。
そうしていると、
「ツツミ母さん、お花の王冠作って!」
一人の少女が、ツツミの手を引っ張りながら、小さな白い花が咲いている方を指差す。
「じゃあ、一緒に作ろうねぇ」
そう言うと、少女に手を引かれるままに歩いて行った。
入れ替わるようにして、レオがベンチにどっかりと座った。
どうやら、鬼ごっこは終わったらしい。
「あー! 疲れた!」
「アイツら元気過ぎる! 全然捕まえられなかった!」
レオは、悔しそうに膝を叩いた。
チグサはクスクス笑いながら、
「すぐムキになるんだから……」
そう言うと、汗だくのレオにハンカチを差し出した。
レオの汗が引く頃、二人で花の王冠を作っているツツミを眺めていた。
「チグサ、今日は話をしたのか?」
チグサは顔を横に振る。
「そうか……ツツミ母さん、頑固な所があるしな……」
「なかなか難しいよな……」
レオは、ツツミから目を離さずに言った。
「今までも、何度か話をしたけど……」
「すぐに、喧嘩みたいになっちゃうから……」
チグサは俯いて話し始める。
「そうか……俺としても、早くツツミ母さんには楽してほしいんだけどな……」
「わたしもそうよ……でも、意地になってるのか、なかなか話を聞いてくれないの……」
「そうか……」
二人は、そこで口をつぐんだ。
重い空気を洗い流すように、優しい風が吹いた。
二人はベンチを立ち、子供達の方へ歩いていった。
あわてんぼうのタンポポが、ゆらゆらと揺れた。
日が傾き始めた頃、一行は長い影を引き連れて坂道を降りて行った。
それからしばらくして――
タンポポの蕾が開き、丘の上に春の色が濃くなる頃、あの一行がまたやってきた。
レオの周りを子供達が囲み、何やら楽しげに坂を上がってくる。
丘の上に着くなり、レオが駆け出す。
どうやら、鬼を回避する作戦のようだ。
子供達も散り散りに走り出す。
今日の鬼は、一人の少年のようだ。
笑い声が、丘の上を包む。
しばらくして、レオが鬼に捕まって地面を叩いている時、遅れてツツミとチグサが上ってきた。
チグサがツツミの背中に手を当て、寄り添うようにしている。
ツツミの表情は、いつにもまして苦しそうだ。
二人はやっとの思いで丘の上に着き、ベンチに並んで腰を下ろした。
チグサは、苦しそうなツツミに飲み物を差し出した。
ツツミは「ありがとう」と礼を言い、飲み物を受け取り、ゆっくりと口に含んだ。
息が乱れていたせいか、ツツミはごほごほと噎せこんだ。
なかなか止まらない。
背中をさすりながら、その様子を見ていたチグサは、穏やかな声でツツミに話しかけた。
「お母さん……前から言ってる事だけど……」
「孤児院は私に任せて、お母さんはゆっくりしてほしいの」
「今日だって、坂を上るのが精一杯……」
「お願いだから、もう辞めてほしいの……」
チグサの言葉は、声こそ穏やかだが、強い意思が含まれていた。
「また……その話かい?」
少しずつ、息が整い始めたツツミが答える。
「わたしは、まだまだ働けるよ。子供達の成長も見たいしねぇ」
ツツミはそう言って、チグサの要求をやんわり断る。
「辞めても子供の成長は見れるでしょ? なにも院から出ていけとは言ってないじゃない」
「こうやって子供達を遊ばせたり、寄付を集めたりするのは、わたしに任せてって言ってるだけよ……」
チグサも簡単には引き下がらない。
「寄付も集めるのも大変なのよ……」
「あなたがそんな苦労をしなくていいのよ」
ツツミも首を縦に振らない。
「お母さんも、もう歳なんだし。ずっと苦労してきたから……少しは楽してほしいの!」
チグサの言葉が少し熱を持ち始める。
「大変なのよ……あなたは知らないけど……」
「お金も足りないし……子供だって……いつも元気じゃないし……」
「病気だってするからねぇ……」
ツツミは、ずっと同じ温度で淡々と返す。
「知ってるわよ……わたしだって!」
チグサの声は、いよいよ大きくなってきた。
「お母さんに拾ってもらって……」
「ずっと育ててもらって……」
「どこにも行くあてのない私を、養子にしてくれて……」
「ずっと見てきたから知ってるわよ!」
「だから、お母さんには楽してほしいのよ!」
チグサの瞳からは、涙がぼろぼろと落ちている。
「だからって……あなたが苦労する必要はないからねぇ……」
「レオと一緒になって、普通に暮らせるんだもの……」
「その方が幸せなんだから……」
ツツミは、優しくチグサをなだめる。
「子供達はどうするの? 孤児院は?」
「お母さんに何かあったら……」
「子供達は、行く所なんてないのよ?」
「孤児院だって……」
「わたしにも、子供達にも大事な場所なのよ?」
チグサはそう言うと、顔を抑え、その場にしゃがみこんでしまった。
「苦労はさせたくないからねぇ……」
ツツミはそう呟くと、チグサの肩に手を添えた。
話し合いはいつも、こんな調子だった。
いつの間にか周りには、ただ事ではない空気を心配した子供達と、レオが来ていた。
チグサの涙を拭ってやる子。
目に涙を浮かべている子。
ツツミの足に抱きつく子。
子供達の反応は様々だが、二人を心配しているのは皆同じだった。
「ツツミ母さん……」
「今までは、口出ししませんでしたが……」
「チグサの言うように、隠居して下さい!」
「お願いします!」
レオに、いつものお調子者の面影はない。
「そうは言ってもねぇ……」
「俺がチグサを支えます!」
「結婚して、一緒に頑張ります!」
「お金だって……寄付がなくたって、俺の商会から出しますから!」
「お願いします! 俺もチグサも……母さんに楽してほしいんです!」
そう言って、頭を深く下げた。
「困ったねぇ……」
「あなた達は、小さい時に辛い思いをしたんだから……」
「自分の幸せだけ考えたらいいのよ……」
ツツミはそう言うと、ゆっくりと立ち上がった。
「わたしは、先に帰るから……」
「皆は、ゆっくりと遊んでから帰ってきてねぇ……」
そう言い残して、歩きだした。
「俺が送ります!」
そう言ってレオは、ツツミの元へ駆けて行った。
「チグサ姉さん。大丈夫?」
一人の少年がチグサを慰める。
「うん……平気……」
「ごめんね! さあ、皆で遊びましょう!」
そう言って、チグサは涙を指で拭うと、子供達と一緒に遊んだ。
しばらくして、日が傾く頃、チグサと子供達は一緒に歌を歌いながら坂を下りて行った。
冬の姿はいよいよ消えさり、生命が咲き誇る季節に、誰もが浮かれる頃。
丘の上にはまた、一行の姿があった。
走り回れば暑いくらいの陽気と、時折吹く静かな風が、景色をより美しく見せていた。
子供達は元気に遊んでいる。
今日はどうやら、かくれんぼのようだ。
この日、ツツミは誰の助けも借りず、丘の上まで上って来ていた。
おそらく、あの会話を避ける為だ。
心配をかけたくない思いもあるだろう。
現にツツミは、一人で上って来たにも関わらず、さして遅れることもなく到着していた。
いつものベンチに、チグサと並んで腰を下ろす。
「今日は暑いねぇ……」
「その分、風が気持ちいいわね」
二人は、他愛のない親子の会話を楽しんでいた。
ツツミはゆっくりと辺りを見回し、穏やかな表情で景色を楽しんでいるようだ。
その横でチグサは、少し離れた所にいるレオに視線を送った。
レオは小さく頷き、二人の元へ歩みよってきた。
「お母さん」
静かに、チグサが切り出す。
「この前の話だけど……」
「お願いします。院の経営から離れて下さい」
チグサは背筋を伸ばし、ツツミの目を真っ直ぐに見て話した。
「またその話かい……?」
「俺からもお願いします。」
「ツツミ母さん、どうか楽をして下さい」
レオは頭を下げる。
「困ったねぇ……」
ツツミは二人に言われ、返す言葉に困っていた。
「じゃあ……帰ってから話そうかねぇ……」
とりあえず、この話題を切り上げようとする。
「母さん。今決めてほしいの……」
チグサは、穏やかだが芯のある声でツツミに迫る。
「……」
「わたしはねぇ……」
ツツミはゆっくりと話し出した。
「あなた達が可愛くてねぇ……」
「今まで巣立った子達も、みんな覚えてるのよ……」
「みんな、悲しい思いをした子だから……」
「幸せになってほしいのよ……」
ツツミは、丁寧に話を続ける。
「だから……あなた達もねぇ……」
「自分の幸せだけを考えてほしいのよ……」
「今の子供達がみんな巣立ったら……」
「その時には、辞めるから……」
「そうさせてちょうだい……」
ツツミは、二人を優しく説得した。
チグサは、前を見たまま一筋の涙を溢す。
「お母さん」
「そうやって、いつまでも続けたら」
「お母さんの幸せは、どうなるの?」
チグサは、静かにツツミに話す。
「皆、お母さんが心配で」
「お母さんに、幸せに暮らしてほしいの」
「お願い。わたしとレオに任せて……」
チグサはそう言って、頭を下げた。
「二人でやっても……苦労はするから……」
ツツミは困ったような顔で、受け入れようとしない。
三人が次の言葉を探すように沈黙していると、坂の方からたくさんの足音が聞こえてきた。
足音は三人を取り囲むようにして立ち止まる。
「お久しぶりです。ツツミ母さん。覚えてますか?」
一人の男性が、ツツミに声をかける。
ツツミは声の主に目をやると、
「もちろん覚えてるわよ……」
「あなたは、泣き虫でねぇ……」
そう言って思い出話を始める。
「わたしも覚えてますか?」
「僕も覚えてますか?」
四方八方から、ツツミに声が降りかかる。
「……いっぺんに言われても……答えきれないから……」
ツツミが困ったように笑うと、周りの男女も一斉に笑った。
ツツミは、ぐるりと顔を見回した。
大人になってはいるが、どれもこれも見覚えのある顔。
皆、ツツミの子供だった。
「懐かしいねぇ……」
ツツミは、うっすら目に涙を浮かべる。
「今日は、皆揃ってどうしたのかしら……」
「俺達、レオから頼まれたんです」
一人の男が話し始める。
「ツツミ母さんを説得したいから、集まってくれって」
男はレオの方に目を向ける。
「俺は、孤児院を出てから漁師になって頑張ってます」
「わたしは、結婚をしてお母さんになりました」
「僕は今、勉強をしてて医者になりたいです」
皆が、ツツミに近況を語る。
どれもこれも、明るく元気に生活しているのが伝わる内容だ。
「俺達も、二人を手伝います」
「だから、ツツミ母さん……経営から離れてゆっくりして下さい」
「俺達、母さんに長生きしてもらいたいんです!」
ツツミは子供達に囲まれ、いよいよ言葉を無くしていた。
子供達の気持ちは嬉しいが……なかなか踏ん切りがつかない。
視線を地面に落としていると、真っ白いタンポポの綿毛が目に入った。
いつかの、あわてんぼう。
チグサのようなタンポポだった。
その時、そよそよと優しく風が吹いた。
綿毛は、ゆっくりと青空に舞い上がり、自分が根を張る場所を見つける旅に出ていった。
「わかったわ……」
「チグサと、レオに……」
「任せてみようかねぇ……」
広場は、ワッと沸いた。
抱き合う者、泣いている者、様々だが、皆心から喜んでいる。
チグサとレオは、ツツミを両側からゆっくり抱き締めた。
広場の至る所で、騒ぎを聞き付けた子供達がひょこひょこと頭を出す。
「何の騒ぎ?」
子供達が寄ってくる。
「俺達はな、お前達の兄さん姉さんだ」
「お前達と遊びに来たんだよ」
一人の男が言った。
「孤児院にいた人?」
「ああ! さあ何して遊ぶ?」
子供達は一瞬考えて、
「鬼ごっこ!」
そう叫んで走った。
集まった子供達は、
「逃げろ! 鬼はレオだ!」
そう言って走りだした。
「また俺か!」
レオも少し遅れて走り出す。
ツツミとチグサは、その様子を見て笑った。
その頃、空へゆっくりと吸い込まれる意識が二つ。
「特に何もなかったな……」
ハルが呟く。
「そうでもない」
「え?」
「そこに居るだけで、誰かを救う……」
「そんな事もあるさ」
「ふーん……」
「そんなものかな……?」
「そんなものさ」
二人は空に還っていった。
それから、いくつかの日が進み、丘の上を白い綿毛が埋め尽くす頃。
丘には黒い人影がたくさんあった。
何人かが棺を担ぎ、粛々と坂を上ってくる。
丘の上に掘られた穴に棺を収め、ゆっくりと土を被せていく。
「あっけなかったな……」
レオは、泣いているチグサの肩に手を掛け呟く。
「やっと、母さんに楽をしてもらえると思ったのに……」
チグサは、悲しみにくれている。
「綺麗な顔だったじゃないか……」
「安心したように……」
レオは、そう言ってチグサを慰めた。
周りのツツミの子供達も、悲しみの中、静かに手を合わせる。
大きな母の愛に感謝しながら。
土を被せ終わると、小さな墓石が置かれた。
皆で最後の祈りをする。
その時、一つの風が吹いた。
風は丘の上を撫でるように吹き抜け、小さな白い綿毛を一面に舞い上がらせた――




