重なる拍
水音は、背後から離れなかった。
見えない距離まで来ているはずなのに、耳の奥に残る。さらさらではなく、刻むような、揃いすぎた拍。歩くたびに足音と混ざり、同じ間隔で重なる。
リュカは一度だけ立ち止まり、呼吸を整えた。
吸う。入る。胸の奥まで届く。苦しくはない。
吐く。軽い。軽すぎる。
その軽さが、どこにも引っかからない。
「……さっきの、まだ聞こえるか」
振り返らずに言うと、隣でミアが小さく頷いた。
「うん」
短い返事だったが、迷いが混じっている。
彼女の視線は前に向いたままだ。耳で聞いているのではない。もっと奥――流れそのものを見ているときの顔だった。
「沢だけじゃない」
さっき言っていた言葉を、リュカは思い返す。
「前にもある、ってやつか」
「うん」
ミアはゆっくりと歩き出す。
歩幅は変わらない。けれど、足の置き方が少しだけ慎重になっていた。踏み込む前に、確かめるように一瞬止まる。
リュカもそれに合わせる。
道は緩やかに続いている。岩は少なく、土と小石が混じった踏み跡。昨日までなら何も考えずに進めたはずの道だ。
なのに、今は少しだけ“揃っている”。
石の並びが、妙に均等に見える。
風が吹く間隔も、さっきから同じだ。
偶然だと言えば、それまでだ。
けれど――
「……なんか、歩きづらくないか」
思ったままを口にする。
ミアはすぐに頷いた。
「うん。軽いけど、引っかからない」
「引っかからないと、歩きやすいんじゃないのか」
「普通は」
ミアは少しだけ首を傾げる。
「でも、今は……踏んでる感じがしない」
リュカは足元を見る。
確かに踏んでいる。靴底に土の感触もある。小石が当たる感触もある。
でも、言われてみれば、抵抗が薄い。
足を置いたときの“返り”が弱い。
地面が、受け止めていない。
ただ、通している。
その感覚に気づいた瞬間、背中にうっすらと寒気が走った。
「……やだな、それ」
「うん」
ミアの返事は静かだった。
怖がっているわけではない。ただ、認識しているだけだ。
それが余計に、現実味を増していた。
しばらく無言で歩く。
風が通る。
同じ強さで、同じ間隔で。
葉が揺れる音も、一定だ。
リュカは思わず空を見上げる。
雲は流れている。形もばらばらだ。自然だ。
なのに、音だけが揃っている。
「……変だな」
呟くと、ミアが立ち止まった。
「ここ」
短く言う。
リュカも足を止める。
「どうした」
「ある」
ミアは道の脇を指さした。
一見、何もない。
ただの地面だ。草が少し生えていて、小石が転がっているだけ。
けれど、よく見ると――
土の色が、わずかに違う。
円のように、薄く均された跡。
「……踏まれてる?」
「違う」
ミアはゆっくりと近づく。
足を入れる直前で、止まる。
「ここ、通ってる」
「何が」
「流れ」
短い言葉だったが、意味は分かった。
沢と同じだ。
整えられている。
見えないだけで。
リュカは無意識に一歩下がった。
「触らないほうがいいか」
「うん」
ミアは頷く。
けれど、その視線は逸らさない。
じっと、その場所を見ている。
「……さっきより、薄い」
「沢よりか?」
「うん。でも、同じ」
同じ。
その言葉が、妙に重く響いた。
ここだけじゃない。
点じゃない。
広がっている。
そういう意味に聞こえた。
「……あの旅人」
リュカが言いかける。
「一人でやってると思うか?」
ミアは少しだけ考えた。
「分からない」
正直な答えだった。
「でも……一人じゃ、追いつかない」
リュカは息を吐く。
だろうな、と思った。
沢一つでもあれだけ整っていたのだ。
それが道にもある。
この先にもあるなら――
「……増えてるな」
口にすると、ミアが小さく頷いた。
「うん。広がってる」
風が吹く。
また、同じ強さで。
同じ間隔で。
リュカは歯を食いしばる。
息は楽だ。
身体は軽い。
なのに、どこかで“合わせられている”。
自分の呼吸すら、この拍に引き寄せられそうになる。
気づけば、吸うタイミングが揃いかけていた。
「……ミア」
「なに」
「これ、続いたらどうなる」
ミアはすぐには答えなかった。
代わりに、目を閉じる。
ほんの一瞬。
呼吸をひとつ。
それから、静かに言った。
「……揺れが、消える」
リュカは言葉を失う。
「全部?」
「全部じゃない」
ミアは首を振る。
「でも、分かりやすいところから」
沢。
道。
次は――
リュカは考えかけて、やめた。
考えたくなかった。
その代わり、ひとつだけ確かめる。
「……戻るか?」
ミアは目を開ける。
そして、首を横に振った。
「進む」
迷いはあった。
でも、それでも。
「ここで止まると、分からなくなる」
その言葉に、リュカは小さく息を吐いた。
「そうか」
それ以上は言わない。
言う必要もなかった。
二人は、再び歩き出す。
均された場所を避けるように、少しだけ道を外れる。
それでも、完全には避けきれない。
音が、重なる。
揃った拍が、遠くでも、近くでも響く。
そして――
しばらく進んだ先で、リュカは足を止めた。
「……おい」
思わず声が低くなる。
ミアも同時に止まっていた。
視線の先。
道の先に、同じ“跡”がある。
ひとつじゃない。
ふたつ。
みっつ。
間隔を揃えて、並んでいる。
まるで――
「……数、取ってるみたいだな」
リュカの呟きに、ミアは答えなかった。
ただ、静かに息を吸う。
そして、ぽつりと言った。
「……これ、まだ増える」
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