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世界が呼吸する場所で、君と出会った  作者: 優耀
ふたりたび

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23/32

揃いすぎた水音

 旅人の姿が見えなくなっても、沢の水は変わらず流れていた。


 細い流れが岩に当たり、砕けて、また集まる。見た目だけなら昨日と何も違わない。陽の光を受けて、水面は淡くきらめいているし、底の小石も透けて見える。風が吹けば草が揺れ、その影が水の上を滑っていく。


 それなのに、音だけが違った。


 リュカは沢のそばに立ったまま、しばらく黙って耳を澄ませていた。


 さらさら、という音がある。小さく跳ねる音もある。流れは細く、速すぎるわけでも遅すぎるわけでもない。どこにも不自然な激しさはないのに、胸の奥にひっかかるものが残る。


 昨日ここで聞いた音は、もっとばらけていた気がした。


 水が石に当たるたび、少しずつ違う響きが混じっていた。軽いところと重いところがあって、途切れそうで途切れない連なりがあった。今は、全部が同じ場所に収まっている。乱れがない。余分がない。綺麗すぎるほどに。


「……変だな」


 思わず口にすると、隣でミアが小さく頷いた。


「うん」


 彼女はしゃがみ込み、指先を水面のすぐ上に浮かせている。触れてはいない。けれど、確かめているのは分かった。いつものように“流れ”を見ているのだろう。


「軽いのか?」


 リュカが聞くと、ミアはすぐには答えなかった。


 白い指先が、かすかに揺れる。風ではなく、迷いで揺れているように見えた。


「……軽い」


 その返事は、確かに返事だった。けれど、いつものような安堵は含んでいなかった。


「じゃあ、いいんじゃないのか」


 言いながら、自分でも言葉が薄いと分かった。軽いなら良い。苦しくないなら良い。理屈としては間違っていない。実際、リュカ自身も息は吸いやすかった。胸の奥まで空気が入る。喉の奥に引っかかる重さもない。肩の力を抜けば、そのまま深く息が落ちていく。


 でも、吸い終わったあとに、妙な空白が残った。


 満ちる感じが、ない。


 風の冷たさも、水の匂いも、ちゃんとある。沢の近く特有の湿った土の匂いがして、陽に温められた石の乾いた匂いも混じっている。耳も鼻も、間違っていない。なのに、身体のどこかだけが置いていかれている気がした。


 リュカは眉を寄せ、もう一度息を吸った。


 肺は楽だ。


 苦しくはない。


 それでも、昨日ここで感じた“抜けるような軽さ”とは違う。


「……楽ではある」


 呟くと、ミアが顔を上げた。


「うん。楽」


「でも、違う?」


 ミアはしばらくリュカを見ていた。答えを探している目だった。


「違う」


 言い切ったあと、彼女は少しだけ目を伏せた。


「通ってる。でも……通りすぎてる」


「通りすぎる?」


「うまく言えない」


 ミアは指先を引いて、膝の上で軽く握る。


「流れてる。止まってない。溜まってもいない。でも、ここに、残らない」


 リュカは沢を見た。


 水は確かにそこにある。石を避け、細く曲がり、光を返しながら下っていく。見れば見るほど、言葉通りだった。残らない。迷わない。ただ、決められたみたいに流れていく。


「それって……悪いのか?」


 旅人に向けたのと同じ問いが、今度は自分の中から出てきた。


 ミアはすぐに答えない。


 代わりに、沢の上流へ視線を向けた。昨日、自分たちが歩いた方角。旅人が現れた場所。誰かの手が入った水の先。


「悪い、とは違う」


「じゃあ」


「怖い」


 その一言は小さかったが、沢の音よりもはっきり聞こえた。


 リュカは思わず息を止める。


 ミアが“怖い”と言うとき、それは大抵、自分の苦しさのことではなかった。もっと外側の、形の分からないものに向けて言う。丘の遺構でも、村の空き地でも、彼女は先に“苦しい”と言った。怖い、とはあまり言わなかった。


「何が」


「これが、正しいって言われること」


 ミアは沢から目を離さずに言う。


「楽で、静かで、壊れにくい。そういうのを、正しいって言われたら……私、たぶん、間違ってる方にいる」


 風が吹いた。


 草が揺れ、その影が水の上を横切る。けれど波紋は乱れなかった。影はただ滑っていき、水は同じ調子で流れ続ける。


 リュカは、胸の奥が少しだけ重くなるのを感じた。


 理屈なら、旅人の言うことは間違っていない。溜まれば溢れる。溢れれば壊れる。壊れる前に均す。村でも、街でも、そういう“何とかやっていく知恵”はあった。全部を受け止めない場所。聞こえないふりをする場所。行かなくていい場所。誰も倒れないように、少しずつずらして保ってきた。 


 それでも、今目の前の沢を見ていると、何かが削られている気がした。


 危険ではない。むしろ安全だ。


 なのに、長くここにいたら、自分まで同じ音になってしまいそうだった。


「……俺、うまく言えないけど」


 リュカは沢のそばにしゃがみ込み、ひとつ小石を拾った。


 指先で重さを確かめ、軽く水に投げる。


 ぽちゃん、と音がして、小さな輪が広がった。


 その一瞬だけ、水面に乱れが生まれる。


 けれど波紋はすぐにほどけ、何事もなかったように流れへ吸い込まれて消えた。


 あまりにも早い。


 昨日ならもう少し、輪が残った気がした。


「……残らないな」


 ミアもそれを見ていた。


「うん」


「嫌か?」


 今度は、彼女が即答しなかった。


 風が止み、沢の音だけが細く続く。遠くで鳥が鳴いた。高くて短い声だったが、それさえ妙に綺麗に聞こえた。


「嫌、というより」


 ミアはゆっくり息を吸った。


「私がいなくても、平気そう」


 リュカは思わず彼女を見る。


 その横顔は静かだった。傷ついた顔ではない。ただ、少し遠かった。旅人と話したあとから、彼女の中に残っている揺れが、まだ形を持てずにいるのが分かる。


「それ、いいことじゃないのか」


 口にしてから、自分で少し後悔する。言葉がまた薄い。


 でもミアは怒らなかった。


「たぶん、いいこと」


「たぶん?」


「でも、私が見てるもの、全部いらないって言われた感じがする」


 沢の音が、ひどく整って聞こえた。


 リュカは返す言葉を探したが、見つからなかった。慰めるのも違う。否定するのも違う。旅人のやり方が間違っていると断じるだけの根拠もない。実際、ここは軽いのだ。


 軽いのに、落ち着かない。


 その矛盾だけが、身体に残る。


「……行くか」


 やがて、リュカは立ち上がった。


 ミアも顔を上げる。


「ここ、休める場所じゃない気がする」


 昨日はあんなに楽だったのに、今はそう思う。苦しいわけではないのに、長くいると息の仕方を忘れそうだった。


 ミアは一度だけ沢を見て、それから小さく頷いた。


「うん」


 二人は並んで歩き出す。


 沢から少し離れると、水音は背中に回る。細い流れの音はすぐに小さくなったが、完全には消えなかった。まるで追いかけてくるみたいに、均一な音だけが耳の奥に残る。


 しばらく歩いてから、リュカはふと立ち止まった。


「ミア」


「なに」


「さっきの……“私がいなくても平気そう”ってやつ」


 ミアが振り返る。


 言葉にするにはまだ曖昧だった。でも、言わないとそのまま薄く固まってしまいそうだった。


「俺は、あんまり好きじゃない」


「どっちが?」


「全部、平気そうな感じ」


 言い終えてから、自分でも不器用だと思う。けれど、それ以上うまく言えなかった。


 ミアは少しだけ目を丸くし、それから本当に小さく笑った。


「……うん」


 その声は、さっきまでより少しだけ柔らかかった。


「私も、たぶん、そう」


 風が通る。


 沢の匂いが薄れ、代わりに乾いた土の匂いが戻ってきた。足元の小石が靴裏で鳴る。ばらばらの、揃わない音だった。そのことに、リュカは妙にほっとした。


 けれど次の瞬間、背後から聞こえてきた水音に、思わず振り返る。


 距離はもうある。


 沢は木立の向こうに隠れ、流れそのものは見えない。


 それなのに、音だけがやけにはっきり届いた。


 さらさら、ではない。


 一定の拍を持った、規則正しい響き。


 まるで、誰かが向こうで数を取っているみたいに。


 ミアも同時に足を止めていた。


「……聞こえる?」


「ああ」


 沢は見えない。


 風向きも、音がこんなにはっきり届く向きではない。


 それでも耳の奥で、水が揃った調子を刻み続けている。


 ミアの指先が、かすかに強張った。


「これ……沢だけじゃない」


 リュカは息を呑む。


「どういう意味だ」


 ミアはすぐには答えなかった。


 代わりに、道の先を見る。自分たちがこれから進む方角。その向こうの、まだ見えない場所へ。


「……前にもある」


 その一言のあと、風が止んだ。


 止んだはずなのに、揃いすぎた水音だけが、遠くでもうひとつ、重なった。

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