其の捌:彼女が「彼女」に喰われたとき
「大丈夫か、優梨?」
「え、ええ……」
柄にもなく腰を抜かした優梨に乱入者である少年は駆け寄る。天然パーマの黒髪とそれに対応するかのような純白の刀を持つ少年は優梨がもっとも親しい少年だった。
「って、何しに来てんのよ、勇刀! あんた本当に死にに来たわけ!?」
立ち上がった優梨は一転して少年、もとい勇刀に怒鳴った。ちゃんと警告はしたはず。彼の無力さも遠慮なくずけずけ言ったはずだ。なのに、なぜこんな場所にいるのか。優梨には十年来の幼馴染みの気持ちがまったく理解できなかった。
「うるさいな。俺は自殺志願者じゃないし、死ぬか死なないかなんか、そのときにしか分からないだろ。そんなことまでいちいち考えてられないの」
「何よ、それ。じゃあ、何しにきたのよ!」
不機嫌そうに勇刀は眉を顰める。これではいつもと立場が逆転しているではないか。
「俺は単に俺の目の届かないところでお前に死なれたら気味が悪いってだけだ。力不足で後悔するのは胸糞悪いんだよ」
ふっと優梨に背を向けつつ呟くように答える。紛れもない本心だったが妙に気恥ずかしくなって顔は向けられない。
「何それ……きもっ」
「……お前、やっぱりひどいな」
なのにジト目で毒を吐かれてはたまらない。引きつった笑いを浮かべて振り返るのが勇刀には精一杯だった。
「ま、助けてくれたことくらいは感謝してあげる。――でも、あんたはやっぱりここに来るべきじゃない」
それでもこれだけは譲れない。この標的だけはどんな形でも一人だけで片付けると決めたのだ。
「それ、兄様にも言われた」
「えっ?」
だが、勇刀は怯む様子も憤る様子もなく、予想外の返答をした。篠崎家の次期当主の立場にある友哉からすれば、そう言うのは自然だろう。では、なぜ勇刀はここにいる。普通に考えて彼も弟を簡単に外には出させないはずだ。
「だけど、門下生もろとも軽く吹っ飛ばして脱走してきた。誰が決めたか知らないけど、そんなことに従うつもりはない」
「うそ……」
俄かに信じがたい言葉に優梨は動揺を隠せない。平均より少し下のレベルにいるこのボンクラが業界でも上の方の実力を持つ兄を軽く吹っ飛ばすなど想像できなかった。
だが、その一方でなんとなくその理由も分かるような気もしていた。彼女としては、それが一番気がかりだったのだが。
加えて、優梨には勇刀に対して、もう一つ気になることがあった。
「で、なんで学生服のままなの?」
「兄さんに狩衣を没収されたんだよ。それに、着替えるのも面倒臭かったし」
「不潔」
「泣いていいか?」
優梨にそんなことを言われても勇刀には反論できる言葉がない。こちらとて、ユニフォームを取られたようなものなのだ。
「……で、あれが例の『百合の鬼』とやらか。のんびり話を待ってくれるとはありがたいな」
挑発するように勇刀は標的たる「鬼」に目を向ける。ここまで話しているあいだ攻撃してくる素振りがまったくなかった。それが不思議に思えて仕方なかった。
「いや……違う」
「え?」
だが、優梨は彼女の様子を見て、勇刀の言うように待っているのではないということがすぐにわかった。ぎょっと睨むように勇刀を見つめる赤い眼。不自然に細かく動く口元。まるで知人の幽霊――「鬼」がだが――でも見たかのような姿だった。
「何か、言ってる」
「え」と返した勇刀だが、「百合の鬼」自身の声が大きくなりつつあることもあって、少し耳をすませばが何を言っているのか分かった。
「――なん…………ゆう……」
「んなっ!?」
勇刀は驚愕せざるを得なかった。その言葉が――いや、その言葉を言った彼女の姿が昨夜の夢の中で手にかけたあの女性にそっくりだったのだ。
だが、それ以上の驚愕と動揺は許されなかった。
「……じン…………ユウウゥッジイイィンッ!!」
「ぐくっ!?」
「百合の鬼」が急に血相を変えて、絶叫しながら突っ込んできたのだ。勇刀は慌てて純白の刀を構えて、力任せに振り下ろされる金棒をいなしながら後退する。彼女の豹変ぶりには優梨も予想外でほとんど反応できなかった。
「ユウゥジンッ、ユウジィンッ!」
「くそっ……なんなんだ。何を言ってるんだ、こいつは!?」
尚も絶叫しながら金棒を乱暴に振るう「百合の鬼」に、勇刀は気味の悪いものを感じた。それでも金棒の乱撃を紙一重で躱し、それが不可能なら刀の峰でいなす。自分でも驚くほどに素早く立ち回ってはいるが、正直いって回避だけで精一杯。金棒が衣服や皮膚に掠ったことは二度三度の話ではない。
「ひいっ……おっ」
袈裟斬りの形で振り下ろされた金棒が鼻先を掠めて尻餅を着いたところで、勇刀は一筋の希望を見つけた。その視線の先では、優梨が弓に鏃に炎を集めた矢を番えていた。
彼女が狙いを定めてその矢を放てば、「百合の鬼」が反応するか否かに関わらず隙ができるはずだ。
直後、勇刀が尻を上げたのと同じタイミングで、優梨は右手の指を静かに離して矢を放った。矢は以前のように分裂はしないが、なぜか勇刀だけに狙いを定めた今の「百合の鬼」にはそれで十分。一方的に金棒を振るだけでは足が止まり、格好の的になる。
「ユウゥッ……ジャマアアッ!」
「百合の鬼」は手首の返しを利用して、逆袈裟から薙ぎ払うように金棒を振るう。直接当たったのか風圧で炎を消されたのかは分からないが、優梨の矢は呆気なく払い飛ばされた。矢にもともと気づいていたのか、それとも反射的な行動だったのは分からないが、今はどうでもいい。
――チャンスだ。
立ち上がる勢いを使って一気に飛び掛かる。相手の左胸に切っ先を向けたのは、斬るより突く方が素早いから。式神の一種であるこの刀なら、刺さった直後に元の御札に戻せば、次の反撃も避けられる。
などと考えていたほんの少しの時間のあいだに、勇刀の体はくの字に曲がって吹き飛ばされていた。反撃は予想していたが、カウンターと言えるほどに早い。金棒を振って横を向いたあの体勢から何をされたんだと、空中を飛ぶ時間のあいだに目を向けると、「百合の鬼」が左足を不自然に突き出しているのが見えた。
「蹴りがはっ!」
「百合の鬼」が何をしたか認識した直後に、壁に背中から激突した。反射的な蹴りでここまでの威力が出る。勇刀は相対する敵の恐ろしさを身を持って知った。骨は折れていないだろうが、もしかしたらひびくらいは入ったかもしれない。痛みに苦悶の表情を浮かべながらもなんとか立ち上がる。
だが、そこをみすみす見逃す「百合の鬼」ではない。左足を床につけたところから一気に前方に跳躍。金棒を振りかぶって勇刀の頭蓋を砕こうと狙う。
「くそぉっ……」
迎え撃つ力も回避する余裕もない。すぐに来るであろう衝撃と痛みに怯えてただ目を瞑ることしかできなかった。
「……チィッ!」
だが、痛みと代わりに彼が感じたのは聴覚を震わせた舌打ちだった。目を開ければ、頭上数十センチで灰色の煙が密集して壁のようになり、金棒のこれ以上の侵入を阻んでいた。
「目を開けなさい、この間抜けっ!!」
「わ、悪い。助かった」
滅多に聞かない幼馴染の怒号に、勇刀は慌てて横に転がる。直後、金棒の勢いに耐えられず煙の壁はあっさり霧散。優梨の足の煙も消えて一枚の御札が床にはらりと落ちた。
「そんなんじゃ本当に死ぬわよ」
「ああ、ありがとうな」
だが、これで優梨の武器も弓一つだけとなった。自分がビビったせいで攻め手が減ったことに勇刀は責任を感じずにはいられない。だからこそ、自分でなにか活路を見つけなければならない。
そのために「百合の鬼」に目を向けた勇刀は彼女に起こった別の異変に気づいた。
「あれ、足から何か出てるぞ」
そう呟いた直後、「百合の鬼」の体のいたるところから赤黒い液体が噴き出してきた。それは血のように見えたが、それとは別の何かが混ざっているようにも見えた。
「ウアッ、ヌグッ……」
「百合の鬼」の体から妙な液体が噴出し始めて少しすると、突然彼女の体は崩れ落ちはじめた。急に力が入らなくなったかのように膝をつき、金棒を床に突き立てて上体を支えていたがそれも限界を迎え、ついに床に突っ伏した。
「何が起きたんだ。やったのか?」
「多分、依代にしていた体が限界を迎えたんでしょ。相当無理に動かしたみたいだし」
状況をまったく理解できずに呟く勇刀に、優梨は確証に近い憶測を告げる。
「鬼」とて依代にするのは結局のところ人間などの生物や小さな無機物。あまりにも乱暴な使い方をすれば依代も限界を迎える。
それも、今回の「鬼」は化け物級の「祓い人」が「鬼」となった「百合の鬼」。内包する霊力が強すぎてとり憑くだけで依代に与えるダメージも半端ではない。――当然、もともとあったその人の魂も彼女の霊力に圧倒されてとっくに消滅する。篠崎修験の手下の死体とともに、無残な女性の死体が転がっていたのも、これらのことが原因だろう。
そして、今回も依代が限界を迎えた。あれほど無茶苦茶な動きをしていたことを考えると、当然といえば当然だが。
「じゃ、じゃあ、こいつはもう限界なんだな。――だったら、さっさとケリつけようぜ」
「はっ?」
優梨の話を聞いた勇刀は震える体を空元気で奮い立たせ、まったく動かない「百合の鬼」へと足を向ける。よくは分からないがこれ以上ない好機ということは分かる。ここで仕留めねば自分は勝てない。
「ちょっ、待ちなさい! まだ、依代が限界迎えたってだけなのよ」
「大丈夫だって。それに、こんなチャンス逃すわけにはいかない」
優梨の忠告も聞かず、勇刀はさらに歩を速める。――依代がなくなった「鬼」が次にどうするかという考えには至らなかったのだ。
さらに一歩右足を踏み出したとき、「百合の鬼」に変化が起こった。
床に突っ伏していたその体が突然見知らぬ女性の死体へと変わる。その変化に勇刀は絶句せざるをなかったが、直後に感じた妙な寒気に体を震わせつつ、恐る恐る視線を上げた。
そこで、死体から抜け出てこちらに歪な笑みを向ける「百合の鬼」の禍々しい魂と目があった。獲物を罠にかけた猟師のような目に射すくめられ、勇刀は体を硬直させる。自分の失態に気づいたときにはもう遅かった。
依代がなくなった「鬼」が次にどうするか。――新たな依代を手に入れようとするのが必然だ。
「百合の鬼」が嗤う。これ以上ない獲物が手に入ったと。さあ、我のものとなれ。その魂と体を捧げよと誘っているようだった。
大口を開けて飛び込んでくる。勇刀は思わず、目を瞑った。さっき、幼馴染に禁止されたということも忘れて。
「…………ん?」
だが、勇刀の意識は変わらずそこにあった。記憶に侵入された感覚も心を弄られた感覚も何もない。ただ間抜けで不完全な少年の魂がそこにあっただけだった。
「何、してんのよ……馬鹿」
「なっ……」
聞きなれた声に目を向けた勇刀は絶句した。幼馴染が寝そべった状態で不自然に宙に浮いていたのだ。よく目を凝らせばその腹に化け物の牙が食い込んでいる。――「百合の鬼」に喰われているのだ。
「嘘、だろ」
「じゃあ、真実は何なのよ」
気丈に微笑む優梨に勇刀は膝をついて体を震わせた。彼女がこうなっているのは間違いなく自分のミス。無闇に飛び込んだ自分の失態。
「……邦保とか、言ってたっけ? あのおっさんの御札を使うことになるとは、ね」
ふっと苦笑を漏らして、優梨は自分の首元に貼った御札を見せる。刻まれた文様は少しずつ彼女の体に染み込んでいくかのように消えていくのが分かった。
「これで……あたしの魂とこいつの魂を、まとめてこの体の深奥に封印する。……あのおっさんの……思い通りに動くようにする術式は……流石に消したけど」
そろそろ限界が近くなってきたのか、言葉がとぎれとぎれになっていく。勇刀の視界はもうぼやけ始めていた。
「そんな顔……しないでよ。不本意だけど……父さんとか綾瀬家のこと……頼むわ」
「うあっ……ああっ」
もうほとんど彼女の顔が見えない。無意識のうちに嗚咽まで漏れていた。だが、時は待ってくれない。彼女の体が妖しい光に包まれ、彼女自身がここから消えていく事実を嫌というほど押し付けられた。
そして、綾瀬優梨の魂は篠崎勇刀の前から消えた。――あんたのこと嫌いじゃなかった、という言葉を最後に残して。




