第十話「魔物」
時は少し遡り──
…僕は逆さに吊るされたまま、目の前の女を見ていた。
白いローブに、赤い瞳、ピンク色の髪に、頬をなぞる冷たい触手。
「オクト・ファムン」と名乗ったその女が、そこに立っていた。
遠くから市場の喧騒が聞こえる。
だが、この裏路地だけ、世界から切り離されたみたいに静かだった。
(…この人…何?)僕の背中に冷や汗が流れる。
(……強い…勝てないかも…)
「…ああ…警戒されても仕方ないですね…ごめんなさい。」と言い、そいつは僕をゆっくりと丁寧に離す。
「…敵…じゃないの…?」と、僕は警戒しながら聞く。
足が地面についても、すぐには構えを解けない、いつでも逃げられるように、重心を少し後ろへずらす。
ぬめりを帯びた触手が、石畳を擦る。
ぺたり、と湿った音が静かな裏路地に小さく響いた。
「もちろんです、私達はあなた様に…協力してもらいたいのです。」と、子供をあやす母親のように微笑んだ。
「…協力…?」
「ええ…あなた様のことを数日前から見ておりました…船の上での戦い…見事なものでもうそれはキュンキュンしてしまいました。」と、妖艶な笑みを浮かべ、頬を赤らめる。
(…こ、興奮してる…?)僕の背筋に謎の悪寒が走る。
「…結局…どう言うこと?」
「…それを話すには…まず、救世主様にこの世界の成り立ちを知ってもらう必要があります。」
「…世界の?」と僕は聞く、それが僕とどう関係しているのか、全くわからない。
「まぁ、お聞きください、かつて…この世には六柱の『神』と呼ばれる上位存在がいました。」と言い、オクトは空を見上げる。
その赤い瞳に空の青が映り込んだ。
「それぞれが己の権能を振るい、時には笑い合い、時には競い合いながら、この世界で共に在りました。」
「ですが…死の神が世界を自分のものにしようとしたことで…一気に均衡が崩れてしまった。」
「神々は啀み合い、誰が世界を手にするか、その覇権を巡って対立することとなりました。」
「その結果…神々の争いは殺し合いにまで発展しました。」
「…そうして、最後に立っていた神は…誰もいなかった。」
そこで、会話が途切れた。
風だけが、屋根の上を撫でていく。
数秒の沈黙が、妙に長く感じられた。
「へぇ、神…かぁ…そんなのがいたんだね」
「強かったのかな?」
「さぁ、神の力を見たものはいませんから。」
「その神々の死体は大地となり、神の血は海となり、行き場を失った神の力は生命となった。」
「それが『残火』と呼ばれる力……我々の命そのものであり、力の源であり、神々の残した最後の灯火です。」
……残火。
初めて聞く言葉だった。
なのに、その響きに妙な引っかかりを覚える。
まるで、体の奥底がその言葉を知っているみたいに。
「そして、500年前…魔物と呼ばれる存在が現れました。」
「彼らは人を襲い、残火を取り込み…進化する。」
「人々は彼らを災厄と呼び、恐れました。」
「ですが…私は違うと思っています。」
「彼らは本当に災厄なのでしょうか?」
「…?何が言いたいのか掴めないんだけど…」
「弱肉強食は自然の摂理。」
「強いものが生き、弱いものが淘汰される。」
「魔物は、ただそれを純粋に体現しているだけ。」
反論しようとして、言葉が出なかった。
…正直、共感した。
弱いやつは奪われても仕方がない、強いやつだけが生き残る。
それは当然のことだ。
「救世主様…あなたは魔物によく似ている。」そう言って、オクトはすっと手を伸ばす。
白く細い指先が、僕の胸元の少し手前で止まった。
触れていない、なのに、心臓を掴まれたような感覚がした。
「……僕が…魔物…?」
「…えぇ…あなたの中には多くの残火が…力が宿っている。」
「船の上で、確信しました。」
「あなたは人間の器に収まる存在ではないと…」
「私達が望むのは…新たな支配者の君臨…」
「それが、あなた様なのです。」
拳が無意識に握られる。
「……違う、僕は魔物なんかじゃない。」
「…もし僕が魔物だとして…君達は僕に何をしてほしいの?」
「…それは──」
そこで、オクトの口元からふっと笑みが消えた。
先ほどまでの柔らかな空気が、嘘みたいに冷える。
風向きが変わったわけでもない。
音がしたわけでもない。
それなのに、オクトだけが何かを察した。
「……シャナちゃん…また勝手に動いたんだ…」
「…申し訳ありません、救世主様…私は部下のところに向かわなければならないようなので…楽しいお話はここまでのようです。」と言い、まるで本当に悲しいかのようにオクトは頭を下げた。
そうして、そのまま口を開いた。
「…私達のところにきてくれますか?」
「…いやだ。」と、僕は一歩後退る。
そんな僕を見て、そいつはまた優しく微笑んだ。
「…そうですか…ですが諦めません。」
「必ずまたお迎えにあがります。」と言い、笑顔を浮かべる。
だが、その笑顔は最初と何も変わらないはずなのに、今は妙に恐ろしく見えた。
触手が石畳へ吸い付くように張り付き、ぎゅっと縮む。
次の瞬間、バネのように解放された触手が彼女の身体を空へ射出した。
190cmはあるはずの身体が、羽のように軽く宙へ舞った。
…嫌な予感がする。
ただの胸騒ぎかもしれない。
それでも、僕の体は勝手にその女を追っていた。
屋根に飛び上がり、街灯を飛び移り、壁を蹴る。
触手を使い移動するオクトになんとか喰らいついた。
そして、行き着いた先、そこで僕は目にする。
「…フォード?」思考が、一瞬止まった。
僕達を救ってくれた大人が、血塗れになっていた。
そして現在へ──
* * *
フォードの血が、止まらない。
石畳に赤黒い血溜まりが広がり続けている。
どれだけ押さえても、指の隙間から熱い血が滲み出た。
特に内臓の損傷と、頭にできた傷がまずい。
「…コクラ…君…」と、唇を震わせながらルアが口を開く。
「私の…せい…?」
「わ、私が…勝手に外に出たから…それで…」と言う彼女の目には大きな涙が浮かぶ。
「やっと…少しは信用してみようと思ったのに…」ルアの喉がひゅっと鳴り、呼吸が荒くなる。
「コクラ君にも謝って…これからだと…思ったのに…」そう言う彼女は、嗚咽を漏らしながらも、溢れ出る涙を両手で拭う。
涙は止まることを知らず、痛々しい。
…胸が痛い。
どうして痛いのか、わからない。
でも一つだけ、はっきりしていた。
ルアを、こんな顔のままにしておきたくない。
「…ルア…!大丈夫…!大丈夫だから!」と、僕は言い、宥めようとする。
「何も大丈夫じゃないじゃん…!」そう叫ぶようにルアは言う。
その姿は本当に痛々しくて、今にでも消えてしまいそうなほどだった。
「…ルア…!」と、僕はルアを抱きしめる。
「…大丈夫…大丈夫だから…!」僕はそれがルアを宥める最善の方法だと知っていた。
でも、それだけじゃない。
ルアがこのままどこかへ消えてしまいそうで、嫌だった。
だから、抱きしめたかった。
ルアは一瞬止まった。
だが次の瞬間、涙が溢れ、僕の胸に顔を押し付けるようにしがみついてきた。
こんなことをしている場合ではないのはわかっている、ただ、今はこうしなければならない、なんとなく、そんな気がした。
その次の瞬間だった。
突然、ルアの涙も、声も止まり、だらりと脱力して僕に寄りかかる。
「…ルア…?」と僕は声をかけるが反応はない。
その時、焦りを感じた。
怖くて、ルアの体を揺すろうとした。
その瞬間、幼い女の子の声が聞こえた。
「『意識は闇へ堕ち、光のような夢を見よ』」
ただ、それはルアの声ではない…ただ、どこかで聞いたような声。
それを聞いた瞬間、僕の瞼が重くなり──
* * *
太陽のような暖かさ。
妙に心地がいい。
俺は──何をしていた?
そうだ。
サメ女と戦って、気絶したはずだ。
だが、体に痛みはない。
近くで、誰かが何かを言っている。
「…う……あぁ……」ゆっくりと目を開ける。
緑色の光が、視界を満たしていた。
それは、自分の体を包み込むように広がっている。
そしてその光は、誰かの手から放たれているものだと辛うじて視認できた。
(……なんだ、これ……)
声が、途切れ途切れに聞こえた。
「…まだ死んだらダメ、あなたには私の──」
そこで言葉が途切れる。
(……何を……言ってる……)
意識が、また沈んでいく──
「──はっ!?」
勢いよく、体を起こす。
胸が上下に激しく揺れ、呼吸が一気に戻る。
痛みも、傷もない。
だが疲労だけが重く残っている。
「……目覚めた?」と、突然横から声がし、瞬時に立ち上がり、構え、そちらを向く。
そこに立っていたのは──
不気味な泣き顔の仮面を被った女。
いや、少女だった。
「…誰だ…お前は…」
「…あれ、覚えてない?」
「そりゃそうか、あの時は酒でデロンデロンだったしね。」
「…まぁ、私はニクスだよ。」
「…ニクス…か…」
「敵という、わけじゃなさそうだが…何が目的だ?」経験上、警戒が解けない、こいつからは嘘つきの香りがする。
「さぁ?敵かどうかは君の主観から君の解釈で判断してよ。」
「後、その子達は眠らせてるだけだから、それを見て勘違いして私に襲いかかってこないでね。」と、俺の背後を指差す。
そこには、抱き合うようにコクラとルアが寝ていた。
……息はある。
それだけが分かった。
「別にここに長居するつもりはないよ、でも…少しだけ、お話をしようか。」
「…話…?」
「そう、お話だよ──不随のフォードさん。」
そうして、話が始まるのだった。
* * *
「…ん…」と僕は目を覚ます。
気づけばベットで寝ており、日が沈んでいる。
何か、美味しいものを食べた夢を見た気がする。
「…起きたか?」と、そんな声が聞こえ、そちらを向く。
「…おじさん…治ったの…?」
「ん?ああ、とある人に治してもらったんだ。」
「それより、そこに置いてある服に着替えとけ」とフォードが指差す方には白いシャツと、茶色い短パン、その他諸々の衣服が置いてある。
フォードは椅子にだらりと座りながら、酒を嗜んでいる。
僕は服を着替え、その対面に座る。
「…フォード…」
「あ?なんだよ、いつもはおじさん呼びのくせに…」
「…ありがとう。」
「…」
「…ぷっ…」
「あーはっはっはっ!くっ…くははは…!」とフォードは机を叩きながら心底おかしそうに笑う。
「な、なに…?なんか変なこと言った…?」と、僕は聞く。
「いや…いや…違うんだ…」と言いながら顔を上げ、笑いを堪えるという感じで口を開く。
「ただ、ガキが改まってありがとうって言ってくんのがおかしくて…くくっ…」
「…」
「ああ…笑いすぎて腹いてぇ…」と言い、大きく息を吸い込む。
「…ところで、おじさん…」
「治してもらったって…誰に?」
「…ん?あ〜…」
「…通りすがりの修道女だよ。」
(…嘘か本当かわからない…)
「…そっか」
僕はそこで、あのオクトとの会話をフォードに話した。
「…なるほどな。世界の成り立ちを聞かされて、挙句勝手に救世主扱いされたってわけか。」
「ああいう話は、『精霊教』の連中が広めたもんだ。」
「今じゃ、まあ…誰でも知ってる程度には一般常識だな。」
「……僕は…魔物なのかな…」というコクラの顔はまるで不安を堪えきれないという顔をしている。
「……」
「…お前が魔物だったら、そんな顔しねぇよ。」
「ガキがそんな顔すんじゃねぇ、酒が不味くなる。」と言い、俺はそいつの頭をわしゃわしゃと撫でる。
「…なんでおじさんはそんなに優しくしてくれるの?」
「僕達、会ったばっかりだし…そもそも、あの話を聞いてわかる通り…こうなったのは僕のせいで…」
「僕だったら…出て行けとか…そういうことを──」
「馬鹿言うんじゃねぇよ。」フォードは食い気味に言ってくる。
「助けられた側が勝手に責任感じてんじゃねぇ。」
「ルアを助けに行ったのは俺だ。」
「お前らを守るって決めたのも、俺だ。」
「お前に命令されたわけじゃねぇ。」
「だから俺が死にかけたなら、それは俺の判断ミスだ。」
「それに、出て行けだぁ?」
フォードは鼻で笑った。
「んなもん、言うわけねぇだろ。」
「俺は一回言ったことは曲げねぇ主義なんだ、ま、嘘つきではあるがな。」
「ガキ二人養うくらい、今の俺にはどうってことねぇよ。」
「ほら、わかったら早く寝ろ、ガキは寝るのが仕事だ、働かないやつは飯抜きだからな。」と言い、フォードは笑うのだった。
この物語をちゃんと見てる人はいるのかという疑問
ま、見てる人は続きをお楽しみにってやつだな。




