第6話 世界が死んだ日
「クリスマスまでには帰れるさ」
無邪気に笑いながら故郷を出発した若き兵士たちの楽観的な言葉は、一九一四年が暮れ、一九一五年、一九一六年と年を越すにつれて、凍てつく泥水の中に無残に沈んでいった。
世界が夢見た「輝かしい短期決戦」は、兵器の恐るべき進化によって、人類がかつて経験したことのない大量殺戮の泥沼へと変貌を遂げていた。
機関銃の猛烈な十字砲火は、突撃してくる数千の歩兵をわずか数分で屍の山へと変えた。空を覆い尽くすほどの榴散弾は大地をクレーターだらけの月面のように抉り取り、塹壕には雨水と共に、腐敗した仲間たちの死体と汚物が溢れ返った。
やがて戦場には、黄色い悪魔の霧――マスタードガスなどの毒ガス兵器までが投入され始めた。兵士たちは目と肺を焼かれ、血と黄色い粘液を吐き出しながら、阿鼻叫喚の中で窒息死していった。
ヴェルダンの森で、ソンムの丘で、パッシェンデールの泥濘で。
オーストリア、ドイツ、ロシア、フランス、イギリス……あらゆる国の若者たちが、顔も知らない異国の若者と殺し合い、泥に塗れて死んでいった。
薄暗い塹壕の底で、腹を撃ち抜かれた名もなき十七歳の少年兵が、泥水に顔を浸しながら最期の息を振り絞って泣き叫ぶ。
「ママ……ママ、痛いよ……助けて、ママ……!」
その悲痛な叫び声は、次の瞬間に着弾した砲弾の轟音によって、掻き消された。ヨーロッパ中の至る所で、何百万という母親たちが届かぬ祈りを捧げ、息子の戦死公報を握りしめて泣き崩れていた。
二千万以上の命を呑み込んだ、この底なしの地獄。
では、この狂った世界を引き起こした最初の火種――あのサラエボで二発の銃弾を放った青年、ガヴリロ・プリンツィプは、一体どこで何をしていたのか。
ボヘミア地方北部、オーストリア=ハンガリー帝国最悪の牢獄と呼ばれる『テレージエンシュタット要塞監獄』。
太陽の光すらまともに差し込まない、地下の冷たく湿った独房の片隅に、一人の男がボロ布のようにうずくまっていた。
暗殺事件の裁判で、ガヴリロは死刑を免れていた。当時の帝国の法律では、犯行時に二十歳未満であった者は死刑に処すことができず、十九歳であった彼は最高刑である「懲役二十年」の判決を受けていたのだ。
だが、それは死刑よりも遥かに残酷で、ゆっくりとした地獄の苦しみだった。
窓のない独房の中、彼の両手両足には重さ十キロにも及ぶ分厚い鉄の鎖が繋がれ、身動き一つ満足にとることも許されない。与えられる食事は腐りかけた黒パンと水のようなスープのみ。
「ゴホッ! ガハッ……! ああっ……!」
冷たい石の床で、ガヴリロは激しく血を吐いた。すでに末期状態だった彼の結核は、劣悪な環境によって骨にまで転移する『骨結核』へと進行していた。全身の骨が内側から腐り落ちる激痛に、夜な夜な独房の中で獣のような悲鳴を上げる日々。
やがて彼の右腕は腐死し、監獄の医師によって麻酔も不十分なまま、ノコギリで切断された。
大公夫妻に向かって引き金を引いた、あの右腕である。まるで神が、お前が世界を壊したその腕を差し出せと要求したかのような、恐ろしい因果応報であった。
一九一六年。監獄の視察に訪れた精神科医のパッペンハイム博士は、ガヴリロの独房を訪れ、そのあまりにも凄惨な姿に言葉を失った。
かつて死を恐れず、澄んだ瞳で世界を変えようとした青年の姿はそこにはない。栄養失調と病魔に侵され、体重は三十キロを切り、片腕を失い、生きた屍のように虚空を見つめる骸骨が横たわっているだけだった。
「プリンツィプよ。お前が引き起こしたあの事件が、外の世界で何を起こしているか知っているか?」
パッペンハイム博士の問いかけに、ガヴリロは濁った瞳をゆっくりと向けた。
「世界中で、未曾有の戦争が起きている。お前の祖国セルビアも、我がオーストリア軍とドイツ軍の侵攻を受け、国土は焦土と化し、国民の四分の一が死滅したのだぞ。お前は……自分のしたことを、後悔しているか?」
その言葉は、ガヴリロの残された良心に、刃のように深く突き刺さった。
彼は悪魔などではなかった。ただ純粋に、虐げられた同胞を救い、愛する祖国を解放したかっただけの、無知で熱狂的な若者に過ぎなかったのだ。
自分が命を賭けた結果が、祖国の壊滅と、何千万人もの名もなき人々の死であったという絶望的な真実。
ガヴリロは残された左手で顔を覆い、しゃがれた声で、血を吐き出すように嗚咽した。
「……俺が……俺が、あんなことをしなくても……どうせ、戦争は起きていたはずだ……」
それは自分自身を納得させるための、惨めな言い訳だった。
「俺は、ユーゴスラビアの民族主義者だ。同胞の統一を夢見ただけだ……。まさか、世界がこんなことになるとは……思わなかったんだ……!!」
暗い独房の闇の奥に、ガヴリロは幻影を見た。
彼が撃ち殺した、純白のドレスのゾフィー。血を吐きながら「子どもたちのために生きてくれ」と泣き叫んだフランツ・フェルディナント大公。
そして今、ヨーロッパ全土で大公と同じように血の涙を流して泣き叫んでいる、何百万という親や子供たちの巨大な怨嗟の声が、地鳴りのように彼の鼓膜を打ち据える。
(俺は……なんてことを……)
罪の重さに魂まで押し潰されそうになりながら、ガヴリロは孤独な闇の中で、死という名の救済をただひたすらに待ち焦がれるしかなかった。
そして、一九一八年の春がやってきた。
開戦から四年。ヨーロッパの大地は血を吸い尽くし、各国はすでに国家として限界を超え、内部から崩壊の悲鳴を上げ始めていた。
四月二十八日。
ガヴリロ・プリンツィプの肉体は、ついに限界を迎えていた。
もはや息をする力すら残されていない。薄れゆく意識の中で、彼は独房の冷たい壁に、スプーンの柄を使って、自らの血と泥で短い詩を刻み込んだ。
『我らの影はウィーンの宮殿を彷徨い、宮廷を歩き回り、貴族たちを震え上がらせるだろう』
それが、歴史の歯車を狂わせた狂信の若者が遺した、最期の言葉だった。
ガヴリロ・プリンツィプ、享年二十三。
その死は誰にも看取られることなく、名前のない粗末な墓穴へとゴミのように投げ捨てられた。
だが、彼の放った凶弾の『本当の恐ろしさ』は、彼自身が死んだ直後にこそ、世界に最大の牙を剥くことになる。
彼が死んだわずか数ヶ月後。
一九一八年の秋。
地獄の戦争の果てに、ヨーロッパを何世紀にもわたって支配してきた巨大な帝国たちが、まるでドミノ倒しのように、恐ろしい音を立てて地響きと共に崩壊を始めたのである。
ロマノフ朝ロシア帝国。ホーエンツォレルン朝ドイツ帝国。そして、ガヴリロが憎んで止まなかったハプスブルク朝オーストリア=ハンガリー帝国。
すべてが、音を立てて瓦解していく。
あのサラエボの空で放たれた二発の銃弾は、まだ飛び続けていたのだ。
四年の歳月と二千万人の血を吸って肥大化したその見えない弾丸が、ついに世界の中心に深々と突き刺さり、歴史そのものを根底から吹き飛ばそうとしていた――。




