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サラエボの残響 〜愛するものを守るため、僕らは二千万の命を泥に沈めました〜  作者: てっぺい


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最終話 永遠の哀歌

 一九一八年十一月十一日、午前十一時。

 泥と血と腐臭にまみれたヨーロッパの大地に、突如として奇妙な静寂が降り降りた。


 四年にわたり、昼夜を問わず鳴り響いていた大砲の轟音が、まるで嘘のようにピタリと止んだのだ。最前線の塹壕で、泥まみれの兵士たちが恐る恐る頭を上げ、灰色の空を見上げた。


「……終わったのか?」

「ああ……休戦だ。俺たちは、生き残ったんだ……」


 生き残った兵士たちは、敵も味方も関係なく、崩れ落ちるように泣き崩れた。

 人類史上最悪の殺戮劇、第一次世界大戦の終結。


 しかし、それは「平和の到来」と呼ぶには、あまりにも代償が大きすぎた。死者二千万人。この戦争は、勝者も敗者も、すべての国から若者という若者を根こそぎ奪い去ったのだ。


 そして、ガヴリロ・プリンツィプが獄中で死んだ直後から始まった、古き巨大帝国たちのドミノ倒しは、もはや誰にも止められなかった。


 ロシア帝国では革命の炎が燃え上がり、ニコライ二世とその家族は地下室で無惨に銃殺された。ドイツ帝国は崩壊し、ヴィルヘルム二世は玉座を捨てて他国へ逃亡した。


 そして何より、あのサラエボの悲劇の当事者であったオーストリア=ハンガリー帝国――六百年もの間、ヨーロッパの中心に君臨し続けた栄華極めるハプスブルク家の帝国は、無数の小さな国々に分裂し、地図上から消滅したのである。


 皮肉なことに、大公の命を奪ったガヴリロ・プリンツィプの「南スラブ民族の統一国家を創る」という夢は、帝国の崩壊によって『ユーゴスラビア王国』の誕生という形で実現することになる。


 だが、彼の夢は二千万人の屍の山の上に建っていた。そしてその国もまた、数十年後には凄惨な民族浄化と内戦の血の海に沈む運命にあった。


 暴力で歴史をこじ開けようとした者の夢は、決して平和な結末を迎えることはない。それが、歴史という名の無慈悲な神が下した罰だった。


 時は流れ、世界が新たな狂気へと向かっていた一九三八年。

 あの日、両親の死を嘆き悲しんだ三人の孤児たち――大公夫妻の遺児であるゾフィー、マクシミリアン、エルンストの運命もまた、歴史の残酷なうねりに翻弄され続けていた。


 第一次世界大戦後、帝国の崩壊と共に彼らはすべての財産と城を新政府に没収され、一介の市民として生きることを余儀なくされていた。それでも彼らは、亡き両親の教えを胸に、身を寄せ合って気高く生きていた。


 だが、オーストリアのお隣、ドイツでアドルフ・ヒトラーという新たな独裁者が台頭すると、ヨーロッパは再び黒い影に覆われ始める。


 ナチス・ドイツによるオーストリア併合。

 この暴挙に対し、長男のマクシミリアンと次男のエルンストは、かつての皇族としての誇りにかけて、公然とヒトラーを非難した。


「我が国を、あの狂った独裁者の手に渡してはならない!」


 その代償は、即座に支払わされた。

 秘密国家警察によって逮捕された二人の兄弟は、悪名高きダッハウ強制収容所へと送られたのだ。


 かつて帝国の次期皇帝の息子として生まれ、絢爛豪華な宮殿で育った彼らは、今や囚人服を着せられ、ナチスの親衛隊から毎日のように汚物を浴びせられ、死の恐怖と隣り合わせの過酷な強制労働に従事させられていた。


 看守のブーツで蹴り飛ばされ、泥まみれになりながら、長男のマクシミリアンは血の混じった土を握りしめていた。


 彼の脳裏には、あのサラエボの地で、首を撃ち抜かれながらも母を抱きしめ、血を吐きながら叫んだ父の最期の言葉が焼き付いている。

『ゾフィー! 死んではいけない! 私の子どもたちのために、君だけは生きてくれ……!!』


「……父上。母上」

 マクシミリアンは、収容所の鉄条網の向こうに広がる灰色の空を見上げ、呟いた。


「私たちは……生きています。この地獄のような世界でも、あなた方から貰った命を、決して諦めはしません」


 サラエボの銃弾が引き起こした第一次世界大戦の絶望が、ヒトラーという怪物を生み出し、第二次世界大戦という新たな地獄を生み出した。


 大公夫妻の子供たちは、自らの両親の死が引き金となった「二十世紀の狂気」のすべてを、その身に直接浴びせられながら、それでも生き抜く運命を背負わされていたのだ。


(後に彼らは強制収容所から奇跡的に生還し、その数奇な血脈を現代にまで残すことになるのだが、それはまた別の物語である)


 一九一四年六月二十八日、午前十時四十五分。

 世界が引き裂かれた、あの瞬間。


 もしも、暗殺者が爆弾を投げるのをためらっていれば。


 もしも、大公夫妻が屋根付きの車に乗り換えていれば。


 もしも、大公が負傷した部下の見舞いに行かず、そのまま列車で逃げていれば。


 もしも、運転手が道を間違えなければ。


 もしも、運転手がバックギアに入れ損ねて、エンジンを停止させなければ。


 もしも、ガヴリロ・プリンツィプが、あの食料品店の前に偶然立ち止まっていなければ。


 無数の「もしも」が、まるで神の悪意のように何重にも重なり合い、恐るべき奇跡の確率で噛み合ったのが、あのサラエボ事件だった。


 ガヴリロが放った、たった二発の九ミリ弾。

 一発は、身分違いの恋を貫き、十四年間の屈辱の末にようやく夫の隣で日の光を浴びた、純白のドレスの妻を撃ち抜いた。


 もう一発は、すべてを敵に回しても愛する妻と子どもたちを守り抜こうとした、不器用で誠実な夫の首を撃ち抜いた。


 二つの命を奪ったその銃弾は、大公夫妻の体を貫通した後も、決して止まることはなかった。


 銃弾はサラエボの空を飛び越え、ヨーロッパの何百万という若者たちの胸を撃ち抜き、四つの巨大な帝国を粉々に打ち砕き、ヒトラーという悪魔を呼び覚まし、そして冷戦という名の分断を生み出し、現代へと至る一世紀の歴史すべてを、血の色に染め上げたのだ。


 今でも、あの日の銃声は、世界のどこかで木霊し続けているのかもしれない。


 人間の憎悪と、狂信と、そしてほんのわずかな愚かさが存在する限り、あの銃弾が止まる日は来ないのだろう。


 現在のサラエボ、フランツ・ヨーゼフ通り。

 かつて世界を地獄へと突き落としたその場所には、今は穏やかな日常があり、平和な日差しが降り注いでいる。


 人々は足早に交差点を通り過ぎ、百年以上前にここで起きた惨劇など、まるで幻であったかのように風化していく。


 しかし、石畳に染み込んだ血の記憶は、決して消え去りはしない。


 歴史という名の巨大な歯車を狂わせるのに、何十万という軍隊は必要ない。


 ほんのわずかな綻びと、四丁の拳銃、そして死を恐れぬ狂信的な若者がいれば、世界は容易く地獄へと転がり落ちる。


 そしてその地獄の底にはいつも、権力や大義名分とは無縁の、名もなき人々の愛と涙だけが、悲しく冷たく横たわっているのである。


fin

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