表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
サラエボの残響 〜愛するものを守るため、僕らは二千万の命を泥に沈めました〜  作者: てっぺい


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/7

第5話 皇帝たちの悲鳴

 時計の針が、破滅という名の終着駅へ向けて冷酷な音を立てて進んでいく。


 一九一四年七月二十五日、午後五時四十五分。オーストリア=ハンガリー帝国からの最後通牒の回答期限まで、残り十五分。


 セルビアの首都ベオグラードの政府庁舎では、パシッチ首相が滝のような冷や汗を流しながら、震える手で分厚い回答書に署名を行っていた。


 それは、誇り高き独立国家としてはあり得ないほどの、血を吐くような譲歩の結晶だった。オーストリアが突きつけてきた十項目の理不尽な要求のうち、実に九項目までを無条件で受諾したのだ。反オーストリア組織の解散、プロパガンダの停止、関係者の処罰。セルビアは国家のプライドを泥水の中に投げ捨て、ただ「戦争を回避する」という一点のみにすがりついた。


 唯一拒否したのは、「オーストリアの警察官がセルビア国内で直接捜査を行う」という、国家主権を完全に侵害する一条項のみ。それすらも、国際司法裁判所への仲裁を提案するという、どこまでも平和的で理性的な回答であった。


「これで……これで、あの帝国も矛を収めてくれるはずだ。我々は限界まで頭を下げたのだから」

 パシッチ首相は祈るような思いで、回答書をオーストリア公使ギーズル男爵の元へと送り届けた。


 しかし、平和への祈りは、悪魔の嘲笑によって容易く打ち砕かれる。


 回答書を受け取ったギーズル公使は、その内容をまともに読みすらしなかった。


 それもそのはずだ。彼の執務室には、すでに荷造りを終えたトランクの山が積み上げられていたのだ。


 彼は最初から、セルビアの回答など見ていなかった。ウィーンの本国からは、どんな返答があろうと『拒絶して即座に引き揚げる』よう、あらかじめ命じられていたのだ。セルビアがどれほど屈辱を耐え、平和を求めたとしても、彼らにとっては最初から戦争の火蓋を切るための『予定調和』に過ぎなかったのである。


「全項目の無条件受諾ではない。よって、交渉は決裂した」

 ギーズルは冷たく言い放ち、回答を受け取ってからわずか三十分後には、ベオグラードを離れる列車に乗り込んでいた。


 最初から、セルビアの回答などどうでもよかったのだ。ウィーンの狂った指導者たちは、ただ戦争を始めるための「形式的な理由」が欲しかっただけなのだから。


 同盟国セルビアが見捨てられたという凶報は、電信に乗ってすぐさま北の大国、ロシア帝国の首都サンクトペテルブルクへと叩きつけられた。


「なんという傲慢な! オーストリアは我々スラブ民族を、足下に見ている!」

 ロシアの将軍たちは激昂し、今すぐ全軍の動員令を下すよう、皇帝ニコライ二世に激しく詰め寄った。


 だが、気弱で心優しい性格であったニコライ二世は、執務室の窓から広大な大地を見つめ、青ざめた顔で頭を抱えていた。

「待ってくれ……戦争になれば、何百万人もの命が失われる。それに、相手の背後にはドイツがいるのだ。ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世は、私の愛する従兄ではないか」


 ヨーロッパの王室は、複雑な血縁関係で結ばれた巨大な親戚同士だった。ニコライ二世(愛称ニッキー)と、ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世(愛称ウィリー)は、かつて共に休暇を過ごし、冗談を言い合った仲である。

 ニコライは藁にもすがる思いで、ドイツの従兄に向けて直接電報を打った。


『親愛なるウィリーへ。どうか頼む。君の同盟国であるオーストリアの暴走を止めてくれ。弱い国に対するあのような卑劣な戦争は間違っている。我々が軍を動かす前に、平和的な解決を。――君のニッキーより』


 数時間後、ベルリンの宮殿にいるヴィルヘルム二世から返信が届いた。


『親愛なるニッキーへ。君の気持ちはわかる。しかし、皇位継承者を暗殺した罪は罰せられねばならない。ロシアが軍事介入しなければ、戦争は局地的なもので終わる。どうか軍を動かさないでくれ。――君の親友ウィリーより』


 深夜のヨーロッパの空を、二人の皇帝の「ウィリー・ニッキー書簡」と呼ばれる悲痛な電信が飛び交った。


 彼らもまた、人間だった。何百万人もの兵士を地獄の業火に投げ込む恐怖に震え、どうにかして戦争という名の怪物から逃れようと、兄弟のように電報を打ち合って必死にブレーキをかけようとしていた。


 だが、悲しいかな。彼らが座っている玉座の足元では、すでに「軍隊」という名の血に飢えた鉄の機械が、彼らの意志とは無関係に轟音を立てて起動し始めていたのだ。


「陛下、もはや動員を止めることは不可能です!」

 ロシアのサゾーノフ外相と参謀総長が、青ざめるニコライ二世に冷酷な現実を突きつけた。


「一度動き出した数百万の兵士と何万両もの軍用列車のダイヤグラムは、途中で止めることなどできません。もし今ここで動員を解除すれば、我が国の防衛網は大混乱に陥り、ドイツに一方的に蹂躙されます! 決断を! 陛下!!」


 近代戦という名の複雑すぎる軍事システムは、もはや皇帝個人の「平和への願い」などという感情で止められるものではなくなっていた。巨大な歯車は、人間の手から離れて暴走を始めていたのだ。


「……わかった。動員令に、署名しよう」

 一九一四年七月三十日。ニコライ二世は涙を流しながら、ロシア帝国全軍の総動員令にサインをした。


 この瞬間、彼とウィリーの平和への祈りは虚空に消え去った。


 時間を少しだけ遡る、七月二十八日。

 オーストリア=ハンガリー帝国からの「宣戦布告」は、威厳ある外交文書ではなく、街の郵便局から送られてきたごく普通の電報でセルビア政府に届けられた。


 その日の夜。

 ドナウ川の対岸に陣取っていたオーストリア軍の巨大な砲兵陣地から、凄まじい閃光が一斉に夜空を切り裂いた。


 ヒュルルルルルルルッ……!!

 ドォォォォォォォンッ!!!!


 降り注ぐ無数の砲弾が、ベオグラードの美しい街並みを次々と火の海に変えていく。レンガが吹き飛び、ガラスが粉々に砕け散り、逃げ惑う人々の悲鳴が業火の中に吸い込まれていく。


 ガヴリロ・プリンツィプたち六人の若者が、祖国を救うのだと熱狂し、愛国の夢を語り合った薄暗い酒場も、無慈悲な砲弾の直撃を受けて瓦礫と化した。


 彼らが放った四丁の拳銃の銃弾は、大公の命を奪うと同時に、自分たちが守りたかった祖国そのものを焼き尽くす無数の砲弾となって、天から降り注いできたのだ。


「戦争だ! 戦争が始まったぞ!」

 ヨーロッパ全土の街角で、号外の新聞が宙を舞った。

 恐ろしいことに、民衆の多くはこの戦争を「熱狂」で迎え入れた。


 パリで、ベルリンで、ロンドンで。

 若者たちは軍服に身を包み、まるでピクニックにでも行くかのように、満面の笑みで花束を振り回していた。


「クリスマスまでには帰ってくるさ!」

「俺たちの偉大な帝国が、あっという間に敵を蹴散らしてくれる!」


 駅のホームでは、誇らしげに胸を張る息子たちの首に、恋人たちがキスをしながら花輪をかけていた。


 だが、息子を抱きしめる年老いた母親たちだけは、本能的な恐怖に震え、声にならない声で泣き崩れていた。彼女たちの直感は正しかった。


「クリスマスまでに帰る」と笑って汽車に乗り込んだ若者たちのほとんどが、二度と故郷の土を踏むことなく、泥とネズミと腐臭にまみれた塹壕ざんごうの中で、機関銃の掃射を受けて原型を留めない肉片へと変わる運命にあったのだから。


 ロシアが総動員を下したという知らせは、ベルリンのドイツ軍参謀本部を歓喜させた。


「ついにロシアが動いた! これで我が国も、堂々と戦争を始める大義名分ができたぞ!」

 モルトケ参謀総長は、長年温めてきた極秘作戦『シュリーフェン・プラン』の分厚いファイルを開いた。

 ロシアの軍隊が国境に到達する前に、まずは西のフランスを総力で一ヶ月以内に叩き潰し、その後に全軍を反転させて東のロシアを迎え撃つ。という、狂気じみたタイムアタック作戦である。


 この計画には、一つの致命的な「条件」が含まれていた。

 フランスの強固な国境要塞を迂回するため、永世中立国である「ベルギー」を無断で蹂躙して進軍するというものだ。


 しかし、ベルギーの中立を破れば、ベルギーを保護しているあの世界最大の帝国――大英帝国が黙っていない。


 だが、もはや止まることのできない鉄の暴走列車は、すべてを薙ぎ倒して進む道を選んだ。


 一九一四年八月一日、ドイツがロシアに宣戦布告。

 八月三日、ドイツがフランスに宣戦布告。

 そして八月四日、ドイツ軍の巨大な軍靴が中立国ベルギーの国境を踏み躙った瞬間、ロンドンのビッグ・ベンの鐘の音と共に、イギリスがドイツへ宣戦布告。


 たった二発の凶弾が引き起こしたドミノ倒しは、わずか一ヶ月あまりで、世界の主要な大国すべてを連鎖的に地獄の釜へと引きずり込んだのである。


 人類史上類を見ない、底なしの殺戮の宴が、今まさに幕を開けようとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ