第4話 破滅への歯車
血塗られたサラエボの悲劇から数日後。オーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーンから遠く離れた、ボヘミア地方の静かな居城に、痛ましいほどの静寂が降り降りていた。
大公夫妻の三人の遺児――十三歳の長女ゾフィー、十二歳の長男マクシミリアン、そしてまだ十歳の次男エルンストである。
ほんの数日前まで、彼らの元には両親から愛情に満ちた電報が毎日届いていた。『演習は順調だ。火曜日には愛するお前たちの元へ帰るよ。パパとママより』。その言葉を信じ、両親の帰りを無邪気に待ちわびていた幼き三人の元に届けられたのは、温かい抱擁ではなく、黒いリボンが結ばれた冷たい訃報だった。
「嘘よ……パパもママも、私たちを置いていくはずがないわ! 火曜日には帰ってくるって、約束したのに……!」
長女のゾフィーは、両親が最後に送ってきた手紙を胸に固く抱きしめ、床に崩れ落ちて声を上げて泣き叫んだ。まだ十歳のエルンストは状況が理解できず、ただ姉のただならぬ様子に怯えて泣きじゃくっている。
長男のマクシミリアンは、震える唇を必死に噛み締め、涙を堪えていた。自分が弟と姉を守らなければならない。だが、溢れ出る涙を止めることはできなかった。
彼らの悲劇は、両親を失ったことだけでは終わらない。
大公と妻ゾフィーの結婚は「貴賤結婚」であったため、三人の子供たちには皇族としての特権も、皇位継承権も、国からの手厚い保護すらも与えられていなかったのだ。両親という唯一の盾を失った瞬間、彼らは冷酷な帝国のシステムの中に放り出された、ただの孤独な孤児となってしまったのである。
葬儀ですら、彼らは両親の棺の最前列に並ぶことを宮廷から許されなかった。無情な権力の論理は、愛する者を失った子供たちの涙さえも、冷ややかに踏みにじったのである。
子供たちの血の涙とは裏腹に、ウィーンの宮廷中枢では、この暗殺事件を「天からの贈り物」として狂喜する者たちがいた。
「ついに、忌まわしきセルビアの小娘どもを叩き潰す絶好の口実ができた!」
帝国軍参謀総長、コンラート・フォン・ヘッツェンドルフは、執務室の巨大な地図の前に立ち、セルビアの領土を軍刀の先で激しく叩いた。彼の目には、次期皇帝を殺された悲しみなど微塵もない。あるのは、目障りな隣国を地図上から消し去るという、血生臭い野心だけだった。
「だが将軍、セルビアの背後には、あの巨大なロシア帝国がいる。我々がセルビアに軍を向ければ、間違いなくロシアが宣戦布告してくるぞ」
外務大臣のベルヒトルト伯爵が、神経質そうに葉巻の煙を吐き出しながら懸念を口にする。
ロシアの広大な大地と、数百万を誇る圧倒的な兵力。もしロシアと全面戦争になれば、老朽化したオーストリア=ハンガリー帝国単独では到底勝ち目はない。
「だからこそ、頼るべき相手がいるではないか。我が国最大の盟友、ドイツ帝国にな」
コンラートの冷酷な笑みが、薄暗い部屋の中で不気味に浮かび上がった。
同じ頃。シェーンブルン宮殿の奥深くでは、八十三歳になる老皇帝、フランツ・ヨーゼフ一世が、甥である大公暗殺の報を静かに聞いていた。
妻を暗殺で失い、実の息子を自殺で失ってきたこの孤独な老皇帝は、次期皇帝の死に際しても、驚くほど冷淡だった。身分違いの結婚を強行し、常に自分と対立していた甥を、彼は決して許してはいなかったのだ。
「……神の意志が、私が維持できなかった古い秩序を回復してくれたのだな」
老皇帝の口からこぼれたのは、哀悼ではなく、冷え切った安堵の言葉だった。
最高権力者でさえ大公の死を悼まないこの国で、暗殺事件は純粋な「戦争への切符」としてのみ、その価値を見出されていったのである。
一九一四年七月五日、ドイツ帝国ポツダム宮殿。
オーストリアからの特使を迎え入れたドイツ皇帝ヴィルヘルム二世は、持ち前の激情的で芝居がかった身振りで、力強く宣言した。
「セルビアの野蛮な犬どもは、断固として処罰されねばならない! 我がドイツ帝国は、オーストリアのいかなる決断も全面的に支持する。たとえそれが、ロシアとの戦争を引き起こすことになろうともだ!」
これが、後に世界を破滅へ導くことになる悪名高き『白紙手形』であった。
ドイツという最強の後ろ盾を得たことで、オーストリアの戦争へのためらいは消え去った。彼らはもはや、外交による平和的解決など微塵も考えていなかった。いかにしてセルビアに戦争を吹っ掛けるか。いかにして彼らが絶対に呑めない要求を突きつけるか。それだけが、ウィーンの狂った男たちの関心事となっていた。
そして運命の一九一四年七月二十三日、午後六時。
ベオグラードのセルビア政府宛てに、オーストリア=ハンガリー帝国からの恐るべき『最後通牒』が手渡された。
それは、独立国家の主権を根底から否定する、屈辱的で非道な要求の数々だった。
暗殺に関与した者の徹底的な弾圧。反オーストリア組織の即時解散。そして何より、オーストリアの官吏をセルビア国内の捜査に直接参加させるという、事実上の「属国化」の要求である。
もしこの条件を一つでも拒否すれば、即座に国交を断絶し、武力を行使する。
「……なんという暴挙だ。これを呑めば我々は国を失い、拒否すれば国を焼かれる」
要求書を読み上げたセルビアのパシッチ首相は、顔面を蒼白にして震え上がった。
突きつけられた回答のタイムリミットは、わずか『四十八時間』。
たった二日間のうちに、国家の存亡を懸けた決断を下さなければならない。
「直ちに電信を打て! サンクトペテルブルクのロシア皇帝ニコライ二世陛下へ! 我々を、同胞であるスラブの民を見捨てないでくれと!」
チツ、チチツ、チツ……!
再び、死神の打鍵音がヨーロッパの闇夜を引き裂いた。
助けを求める悲痛な電信が、巨大な眠れる熊、ロシア帝国へと向けて放たれたのだ。
四十八時間という、あまりにも短すぎる絶望のカウントダウンが刻まれる中、ロシアは動くのか。それともセルビアを見捨てるのか。
世界中の首脳たちが一睡もできずに電信機を見つめる中、時計の針は無情にも、二千万人の命を飲み込む巨大な殺戮のタイムリミットへと、カチリ、カチリと進んでいく。
もう、誰もこの歯車を止めることはできないのか。




