第3話 世界が割れた日
一九一四年六月二十八日、午前十時四十五分。
夏の強烈な日差しが照りつけるボスニアの古都サラエボ、フランツ・ヨーゼフ通り。
運命という名の残酷な劇作家は、歴史の舞台にあまりにも皮肉で、あまりにも完璧な舞台装置を用意していた。モーリッツ・シラーの食料品店の前。そこは奇しくも、暗殺に失敗して絶望の淵を彷徨っていた十九歳の青年、ガヴリロ・プリンツィプが力なく立ち尽くしていた、まさにその目の前だったのだ。
深緑色の豪奢なオープンカー『グラーフ&シュティフト』が、運転手の致命的な操作ミスによってエンジンを停止させ、静まり返っている。
距離はわずか一・五メートル。手を伸ばせば届くほどの至近距離。
ガヴリロの肺が、ひゅっと甲高い音を立てて熱い空気を吸い込んだ。彼の視線の先には、青い軍服に身を包んだフランツ・フェルディナント大公と、真っ白なシルクのドレスを着た最愛の妻、ゾフィーの姿があった。つい先刻、爆弾による暗殺から逃れたはずの帝国の象徴が、今度は全くの無防備な状態で、彼を見下ろすように静止している。
「ああっ……神よ……」
ガヴリロの乾いた唇から、無意識のうちに掠れた声が漏れた。
これは幻覚か。それとも、祖国の独立を願う己の狂気的な執念が、神を動かしたとでもいうのか。
思考よりも先に、彼の痩せ細った右手がポケットの中で動いていた。指先が、ブローニングM1910半自動拳銃の、冷たく重い鋼鉄の感触を捉える。
迷いはなかった。恐れもなかった。あるのはただ、己の命と引き換えに歴史の歯車を叩き壊すという、純粋で恐ろしいまでの殉教の意志だけだった。
ガヴリロはゆっくりと、まるでスローモーションのように右手をポケットから引き抜いた。
太陽の光を浴びて、黒光りする銃身がギラリと鈍い輝きを放つ。
周囲の群衆はまだ、何が起きようとしているのか理解していなかった。歓声と戸惑いのざわめきが交差する中、ガヴリロは真っ直ぐに大公夫妻を見据え、一歩だけ前へ踏み出した。そして、狙いを定めることすらなく、ただ本能のままに銃口を振り上げ、引き金にかけた人差し指に全存在の力を込めた。
ドンッ!!!!
鼓膜を突き破るような、乾いた破裂音がサラエボの空気を引き裂いた。
銃口から噴き出したオレンジ色の閃光と白い硝煙が、ガヴリロの視界を一瞬だけ真っ白に染め上げる。
発射された九ミリ弾は、音速を超えて空気を切り裂き、オープンカーの分厚い鉄板のドアを紙切れのように貫通した。そして、弾頭は、夫の隣で微笑んでいたゾフィーの右下腹部へと深く食い込み、彼女の腹大動脈を切断した。
「あっ……」
ゾフィーの口から、小さく、驚いたような声が漏れた。真っ白なシルクのドレスに、真っ赤な薔薇の花が咲くように、鮮血が急速に広がっていく。
悲鳴が上がる暇すら与えず、ガヴリロの指は二度目の引き金を引いていた。
ダァァンッ!!!!
二発目の凶弾。
それは、愛する妻の異変に気づき、咄嗟に彼女を庇おうと身を乗り出したフランツ・フェルディナント大公の首筋、右の頸静脈を正確に撃ち抜いた。
青い軍服の襟元から、血しぶきが舞い上がる。大公の喉の奥から、言葉にならないくぐもった激痛の呻き声が漏れた。
「人殺しだァァァッ!!」
「大公殿下が撃たれたぞォォォッ!!」
一拍の静寂の後、通りは耳を覆うような悲鳴と怒号の渦に包まれた。
暗殺を成し遂げたガヴリロは、残された銃口を己の頭に向けようとしたが、激昂した群衆と警官たちが雪崩のように彼に飛びかかった。銃が弾き飛ばされ、無数の拳とブーツが彼の細い体をメッタ打ちにする。殴られ、蹴られ、血まみれになりながらも、ガヴリロの顔には、目的を完遂した者だけが浮かべる、不気味で静かな微笑みが張り付いていた。
「出せ!! 車を出せ!! 総督府へ急ぐんだ!!」
同乗していたポティオレク総督が、狂乱しながら運転手に怒鳴りつけた。
パニックから立ち直った運転手がアクセルを力任せに踏み込み、緑色のオープンカーは猛烈な勢いで黒煙を上げ、血の臭いを撒き散らしながら走り出した。
後部座席は、もはやこの世の地獄だった。
被弾したゾフィーは、痛みに顔を歪めることすらできず、糸の切れた操り人形のように、ゆっくりと夫の両膝の上に崩れ落ちた。彼女の意識は急速に遠のき、世界が暗闇に包まれようとしていた。
「ゾフィー……! ああ、ゾフィー……!!」
大公は、自身の首から止めどなく溢れ出す鮮血など気にも留めず、震える血塗れの腕で、愛する妻の体を必死に抱きしめた。
青い軍服と真っ白なドレスが、二人の流す大量の血で、どす黒く染め上げられていく。
十四年。
身分違いの恋だと、世界中から後ろ指を指され、冷遇され、数え切れないほどの屈辱に耐え抜いてきた十四年間だった。
ただ愛しているという、たったそれだけの理由で共に生き抜いてきた二人。今日という日は、その苦難の末にようやく手に入れた、公衆の面前で堂々と夫婦として並び立つことができた、最初で最後の晴れ舞台だったのだ。
なのに。なぜ。どうしてこんな結末を迎えなければならないのか。
大公の口から、大量の血の泡がゴボゴボと吐き出された。弾丸は彼の気管をも傷つけており、呼吸をするたびに肺に血が流れ込んでいた。
それでも彼は、薄れゆく意識を必死に繋ぎ止め、薄く開かれた妻の琥珀色の瞳を見つめて、引き裂かれるような声で叫んだ。
「ゾフィー、ゾフィー! 死んではいけない! 起きてくれ! 私の子どもたちのために、君だけは生きてくれ……!!」
それは、威厳ある帝国の次期皇帝としての言葉ではなかった。
愛する妻を失う恐怖と絶望に泣き叫ぶ、一人の惨めな男の魂の慟哭だった。遠く離れたウィーンの城で、両親の帰りを無邪気に待っている三人の愛しき子どもたちの顔が、血に染まる視界の奥にフラッシュバックする。
大公の涙と血が混じり合い、ゾフィーの青ざめた頬にポタポタとこぼれ落ちた。
「……殿下、ひどいお怪我です! しっかりなさってください!」
同乗していたハラハ伯爵が、大公の首の傷をハンカチで必死に押さえながら叫んだ。
大公は、焦点の合わない虚ろな目で伯爵を振り返り、力なく首を振った。
「……なんでも、ない……。これは、なんでもないことだ……」
それが、フランツ・フェルディナント大公がこの世に残した最後の言葉となった。
彼は同じ言葉を呪文のように六回、七回と小さく呟いた後、ガクリと首を垂れ、永遠の沈黙へと落ちていった。
妻であるゾフィーは、総督府に到着する前にすでに息を引き取っていた。夫の腕の中で眠るようにこと切れた彼女の顔には、不思議なほど穏やかで、悲しい安らぎが浮かんでいたという。
そして大公もまた、総督府のベッドに運び込まれた直後、愛する妻を追うようにして、静かにその波乱に満ちた生涯の幕を下ろした。午前十一時を少し回った頃だった。
オーストリア=ハンガリー帝国の次期皇帝と、その妻が暗殺された。
その信じがたい凶報は、電信という目に見えない雷となって、瞬く間にヨーロッパ全土の空を駆け巡った。
チツ、チチツ、チツ……。
無機質な電信機の打鍵音が、ウィーンの宮殿へ、ベルリンの皇帝の元へ、サンクトペテルブルクの皇帝の元へ、そしてパリやロンドンの政府中枢へと、死の知らせを運び続ける。
それは単なる悲劇の知らせではなかった。
ヨーロッパという名の、何十年にもわたって複雑怪奇な同盟関係の糸で縛り上げられ、限界まで膨れ上がっていた巨大な『火薬庫』のど真ん中に、取り返しのつかない火種が投げ込まれたことを意味していた。
ガヴリロ・プリンツィプの放った、たった二発の小さな銃弾。
しかしその銃声は二千万人の兵士を泥の塹壕で挽肉に変え、四つの帝国を地上から消し去り、人類の歴史を永遠に狂わせる大殺戮の幕開けを告げる、地獄のファンファーレだったのだ。
ヨーロッパの時計の針が、破滅に向けて一気に狂い始めた。
誰も止めることのできない、未曾有の嵐が迫りつつあった。




