第2話 死神の誤算
鼓膜を粉砕する轟音。巻き上がる黒煙。引き裂かれたような人々の悲鳴。
すべてが予定通りに進んだと、暗殺者チャブリノヴィッチは確信した。
だが、歴史を操る死神の鎌は、ほんの数センチの差で標的の首を刈り損ねていたのだ。
空から降ってきた黒い爆弾が愛妻ゾフィーの膝元に落ちる寸前、フランツ・フェルディナント大公は咄嗟に腕を振り払っていた。弾かれた手榴弾は、車の後方に設置されていた折り畳み式の幌に当たり、そのままコロコロと石畳の路面へと転がり落ちた。
その直後、十二秒の遅延を終えた爆弾は、後続の三台目の車の下で凄まじい閃光と共に炸裂した。
吹き飛ぶ車体、血まみれになって倒れ込む護衛の将校たち。
阿鼻叫喚の地獄絵図と化したサラエボの市街地で、チャブリノヴィッチは狂ったように高笑いし、懐からシアン化物の入った毒カプセルを取り出して噛み砕いた。
そして、証拠隠滅と自らの誇り高き死のために、真横を流れるミリャツカ川へと身を投じた。
しかし、運命は若き狂信者に、あまりにも残酷で滑稽な喜劇を用意していた。
確実に彼を死に至らしめるはずの毒薬は、保存状態が悪く劣化しており、彼の胃を激しく焼いて猛烈な吐き気を引き起こしただけだった。
さらに不運なことに、猛暑と雨不足によって干上がっていたミリャツカ川の水深は、その日、わずか十センチ足らずしかなかったのだ。
川底の泥に顔から激突し、毒の苦しみで嘔吐しながら泥まみれで這い蹲るチャブリノヴィッチ。すぐさま激昂した群衆と警官が川に飛び込み、哀れな暗殺者を袋叩きにして引きずり上げた。彼の誇り高き殉教は、惨めな失敗に終わった。
少し離れた川沿いの道で配置についていたガヴリロ・プリンツィプは、遠くで響いた爆音を聞いて歓喜の震えに包まれていた。
「ネデリコがやった! ついにあの暴君を討ち取ったんだ!」
だが、もうもうと立ち込める黒煙を突き抜けて、猛スピードで走り去る深緑色のオープンカーを見た瞬間、ガヴリロは絶望のどん底に突き落とされた。
後部座席には、青い軍服の大公と、白いドレスの妻が、青ざめながらもしっかりと抱き合っている姿があった。
「失敗した……嘘だろ……」
ガヴリロの呟きは、警笛と怒声の波にかき消された。
暗殺は失敗した。周囲には即座に厳戒態勢が敷かれ、残る仲間たちも蜘蛛の子を散らすように逃げ出していた。ガヴリロの胸の中で、結核に冒された命を燃やしてまで燃え上がっていた愛国の炎が、冷たく真っ暗な絶望の灰へと変わっていく。
命を賭けた計画は、何一つ世界を変えることなく、無惨に散ったのだ。
一方、命からがらサラエボ市庁舎に到着した大公は、怒りで顔を真っ赤に染め上げていた。
「市井の人々に親愛の挨拶に来たというのに、爆弾で歓迎されるとは何事か!」
血相を変えて出迎えた市長の歓迎の辞を遮り、大公は激しく怒鳴り散らした。威厳ある次期皇帝の激しい怒りに、市庁舎の空気は氷のように凍りついた。
しかし、その怒りの裏にあったのは、ただの恐怖だった。帝国への反逆に対する怒りではない。最愛の妻であるゾフィーを、あわや肉片に変えられるところだったという、夫としての底知れぬ恐怖である。
「フランツ、落ち着いて。お願いです、顔を上げてください。私たちは無事ですわ」
ゾフィーの優しく穏やかな声と、僅かに震える細い手が、大公の分厚い胸板を包み込んだ。
その温もりに触れ、大公は憑き物が落ちたように深く息を吐き出し、妻の手を強く握り返した。
「すまない、ゾフィー。君を危険な目に遭わせてしまった。……予定を変更しよう。午後の祝賀会は中止だ。先ほどの爆発で負傷した私の随員たちを見舞うため、すぐに病院へ向かう」
それは、部下を想う大公の誠実さが生んだ決断だった。
本来ならば、即座に軍隊を呼び寄せ、厳重な警護のもとでサラエボから特別列車で脱出すべき状況である。しかし、大公は負傷した部下を置き去りにして自分たちだけが逃げることを良しとしなかったのだ。
この、あまりにも人間らしく気高い優しさが、彼らを確実な死へと導くことになる。
大公夫妻を乗せた車列は、再び市街地を貫くアペル・カペル通りへと走り出した。
安全を期すため、当初の市街地を巡る予定を急遽変更し、真っ直ぐ病院へ向かう安全なルートが取られるはずだった。
だが、この歴史的な大事件において、誰もが耳を疑うような「致命的な連絡ミス」が起きていた。
ルート変更の指示が、先頭を走る車の運転手に伝わっていなかったのである。
同じ頃。
暗殺に失敗し、生きる目的を失ったガヴリロは、もはや逃げる気力もなく、亡霊のようにふらふらと街を彷徨っていた。
そして、空腹を満たすためでもなく、ただ失意の底で立ち尽くすために、フランツ・ヨーゼフ通りにある『モーリッツ・シラーの食料品店』の前に偶然立ち止まった。
右手のポケットの中で握りしめた、冷え切ったブローニング拳銃の感触だけが、彼に残された最後の未練だった。
「もう、終わりだ。俺たちの命を賭けた戦いは、無駄だった……」
ガヴリロが空を見上げ、血の混じった諦めの溜息を吐き出した、まさにその時である。
目の前の交差点で、先頭の車が本来のルートである右折をしてしまった。
「おい! 道を間違えているぞ! ここは直進だ! 止まれ、バックしろ!」
同乗していた将校の怒声が響き渡る。
キキィィィィッ!!
急ブレーキの悲鳴のようなタイヤ音が響き、後続の深緑色のオープンカーが、右折しかけた状態で道の真ん中にピタリと停止した。
ふと視線を落としたガヴリロは、信じられないものを見るように目を限界まで見開いた。
慣れないバックギアに入れようとしてパニックに陥り、あろうことかエンジンをストップさせてしまった運転手。
そして、その後部座席。
青い軍服と、真っ白なドレス。
逃がしたはずの獲物が。
憎き帝国の象徴が。
まるで神が「さあ、歴史を動かせ」とばかりに首根っこを掴んで差し出してきたかのように、ガヴリロ・プリンツィプの目の前、わずか二メートルという至近距離で、無防備な姿を晒して停止したのだ。
周囲の音が、再び消え去った。
ガヴリロは無意識のうちに、右手のポケットから、黒光りする死の鉄塊をゆっくりと引き抜いていた。




