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サラエボの残響 〜愛するものを守るため、僕らは二千万の命を泥に沈めました〜  作者: てっぺい


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第1話 結核の青年

 歴史という名の歯車を狂わせるのに、何十万という軍隊は必要ない。

 ほんのわずかな綻びと、四丁の拳銃、そして死を恐れぬ狂信的な若者が揃えば、世界は容易く地獄へと転がり落ちる。


 一九一四年五月、セルビアの首都ベオグラード。

 太陽が容赦なく照りつける裏路地には、むせ返るような熱気とドブの腐臭、そして行き場のない若者たちの鬱屈とした熱狂がおりのように溜まっていた。


 薄暗い安酒場の片隅で、一人の痩せ細った青年が、肺の底から絞り出すように激しく咳き込んでいた。彼の名はガヴリロ・プリンツィプ。まだ十九歳という若さだ。しかし、彼の肉体は当時不治の病とされた結核に深く蝕まれており、その青白い頬は死相を帯びている。彼の命の砂時計は、すでに最後の数粒を落とそうとしていた。


「ガヴリロ、無理をするな。血を吐いているじゃないか」

 同志のネデリコ・チャブリノヴィッチが、心配そうにハンカチを差し出した。ガヴリロは血の混じった唾を床に吐き捨て、獰猛な獣のような、しかしひどく澄んだ瞳で親友を見つめ返した。


「平気だ、ネデリコ。俺の命はどうせ今年の冬を越せない。だが、ただ病床で朽ち果てるつもりはない」


 ガヴリロは一杯の安酒を飲み干すと、テーブルの下に置かれた重いズタ袋に触れた。


「この命を、祖国ボスニアを解放する業火として燃やし尽くす。俺たちの血で、あの憎き帝国に風穴を開けるんだ」


 ズタ袋の中には、過激派組織『黒手組ブラック・ハンド』から秘密裏に提供された暗殺の道具が眠っていた。ベルギー製の最新鋭ブローニングM1910半自動拳銃が四丁、黒々とした手榴弾が六発。そして、万が一捕らえられた時に地獄の拷問から逃れるための、シアン化物のカプセル。


 標的は、オーストリア=ハンガリー帝国皇位継承者、フランツ・フェルディナント大公。


 ボスニアを不当に併合した憎き支配者の象徴が、翌月、軍事演習の視察のためにボスニアの首都サラエボを訪問するというのだ。ガヴリロたち暗殺実行犯の六人の若者にとって、それは神が与え給うた奇跡のような復讐の機会だった。貧しさ故に満足な教育も受けられず、不条理な税に苦しむ家族を見て育った彼らの胸には、純粋すぎる愛国心という名の狂気が宿っていた。


「大公の心臓を撃ち抜く。その銃声が、新たな時代の幕開けを告げる鐘の音になる」

 ガヴリロの言葉に、チャブリノヴィッチたちも無言で頷き、固く拳を握りしめた。彼らは皆、死を恐れてはいなかった。むしろ、歴史という壮大な物語の殉教者になれることに、静かな高揚すら覚えていたのだ。


 一方その頃、ウィーンのベルヴェデーレ宮殿では、ベオグラードの薄汚れや血の匂いとは無縁の、美しくも切ない静けさが漂っていた。


「ゾフィー、すまない。私と結婚したばかりに、君にはずっと肩身の狭い思いをさせてしまったね」


 見事な口髭を蓄え、常に厳格な顔つきを崩さないフランツ・フェルディナント大公は、二人きりの部屋の中で、妻ゾフィーの細い手を両手で優しく包み込んでいた。その不器用なほどに真っ直ぐな瞳には、公の場では決して見せることのない深い愛情と、長年の罪悪感が滲んでいた。


 二人の結婚は、帝国の歴史において最大のタブーとされる「身分違いの結婚」だった。


 元々ただの侍女に過ぎなかったゾフィーとの結婚を強行した代償として、ハプスブルク家の厳格な掟は彼女に冷酷だった。皇族としての称号も与えられず、宮廷の晩餐会では夫の隣に座ることすら許されず、常に他の皇族の最後尾を歩かされる屈辱の日々。二人の間に生まれた子供たちにも、皇位継承権は永遠に剥奪されていた。


「何を仰いますの、フランツ。あなたと共に生きていけるのであれば、私はどんな屈辱にも耐えられます。私は今、世界で一番幸せですわ」


 ゾフィーは夫の広い胸に顔をうずめ、慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。彼女にとって、政治も権力もどうでもよかった。ただ、この不器用で誠実な男を愛していたのだ。


「聞いてくれ、ゾフィー」

 大公は妻の肩を抱き寄せ、少しだけ誇らしげな声を出した。

「今度の六月、ボスニアのサラエボでの軍事演習の視察……今回は、私が軍の最高司令官たる『総監』として赴く。つまり、宮廷の煩わしい序列など関係ない軍の行事だ。だからこそ、君を私の隣に乗せてパレードをすることができるんだ。堂々と、帝国の次期皇后として、君を民衆にお披露目できる」


 その言葉に、ゾフィーの琥珀色の瞳から一筋の涙がこぼれ落ちた。

 結婚して十四年。初めて、公式の場で、日の当たる場所で、愛する夫の隣に立つことができる。しかも、訪問の最終日である六月二十八日は、二人の『十四回目の結婚記念日』でもあったのだ。


「フランツ……ありがとう。私、あなたと一緒にサラエボへ行きます。どこへだって、お供しますわ」


 二人は沈む夕日の中で、強く抱きしめ合った。

 互いを想う深すぎる愛。大公はただ、冷遇され続けた愛妻に、たった一日だけでいいから華やかな舞台を用意してやりたかっただけなのだ。


 しかし二人は知る由もなかった。その純粋な愛の結晶であるサラエボ訪問が、二千万人もの命を飲み込む世界大戦の引き金になり、彼ら自身を血の海へと沈めることになろうとは。


 そして運命の歯車が噛み合う、一九一四年六月二十八日、日曜日。


 サラエボの空は、これから起きる惨劇を嘲笑うかのように、皮肉なほど抜けるように青く晴れ渡っていた。

 午前十時。大公夫妻を乗せた深い緑色のオープンカー『グラーフ&シュティフト』を先頭とする六台の車列が、市街地を貫くアペル・カペル通りをゆっくりと進み始めた。


「フランツ、見て! 皆さん、私たちを歓迎してくださっているわ!」

 真っ白なシルクのドレスとつばの広い帽子に身を包んだゾフィーは、沿道を埋め尽くす群衆に向かって、幸せの絶頂の中で優雅に手を振っていた。

 隣に座る大公も、青い軍服に身を包み、誇らしげに胸を張っている。妻が自分と同格として民衆から歓声を浴びている。その事実が、彼を満たしていた。


 だが、その熱狂的な歓喜の波の中に、六人の死神たちが静かに息を潜めていた。

 暗殺者たちは、車列が通る川沿いの道に、一定の間隔を空けて配置についていた。懐に冷たい鉄の塊を抱き、標的が網にかかるのを今か今かと待ち構えている。


 車列が、一人目の暗殺者メフメドバシッチの目の前を通過する。


(やれ! 爆弾を投げろ!)


 少し離れた場所にいた二人目の暗殺者、チャブリノヴィッチが心の中で叫んだ。しかし、一人目の男は警官の姿に恐れをなし、極度の緊張から体が硬直してしまい、手出しができなかった。


「チィッ、あの意気地なしめが!!」

 チャブリノヴィッチは血を吐くような思いで舌打ちをした。計画が崩れかける。ここで逃せば、二度と祖国を救う機会はない。


 彼は決意と共に群衆の最前列へと飛び出し、迫り来る大公のオープンカーの前に躍り出た。

 距離はわずか数メートル。目が合うほどの近さ。


 チャブリノヴィッチは懐から黒い手榴弾を引き抜くと、すぐ横にあった街灯の鉄柱に向かって、雷管を激しく叩きつけた。


 ――ガコンッ!!


 シュウウウウウッ!! という不気味な音と共に、導火線が激しい火花と白煙を吹き出す。遅延信管は十二秒。

「暴君め、地獄へ落ちろォォォッ!!」


 チャブリノヴィッチの腕が全力で振り抜かれ、黒い死の塊が青空に向かって高く放り投げられた。


 周囲の歓声が、ふっと消え去った。

 まるで世界から音が奪われ、時間そのものが凍りついたかのように、すべてがスローモーションで流れていく。


 空中で弧を描いた爆弾は、オープンカーの後部座席――純白のドレスを着て微笑むゾフィーの膝元へと、真っ直ぐに吸い込まれるように落下していく。


「ゾフィーッ!! 危ないッ!!」


 大公の引き裂かれるような絶叫が、サラエボの空をつんざいた。

 愛する妻を守ろうと、大公がとっさに身を呈して手を伸ばしたその瞬間――。


 バチィィィンッ!!!!


 視界を真白に染め上げる閃光。

 そして、鼓膜を粉砕するほどの爆音と、すべてを肉片に変える灼熱の衝撃波が、大公とゾフィーを乗せた車を呑み込んだ。

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