9 社交の先生
「王女殿下。肩が落ちていますよ。視線はまっすぐ、背筋は上から糸でつられているように――」
「はい! ヴァルディモア卿」
「言った傍から今度は扇が垂れています。もっと指先に集中して――」
「はい! ヴァルディモア卿」
お城の客間には、張り詰めたような緊張感と壮年の男性のやや冷たい声が響く。
今日の私はお城の客間の1つを使って、身のこなしのレッスンをしていた。
それなりに広い客間は調度類が取っ払われ、ちょっとしたホールのようになっている。
ここで私は、もうすぐ挑まねばならない社交の練習をしているのだった。
「さあ、今度はゆっくり部屋を一周しますよ。姿勢を正して。音を立てないで――」
「はい! ヴァルディモア卿」
ハインツ様よりはやや背の低いヴァルディモア卿に手を引いてもらい、しずしずと部屋の中を歩く。
その間も卿の視線は私の一挙一投足に配られている。
私は思わず息を詰めて唾を呑み、
「自然な笑顔を――」
とまたヴァルディモア卿に指摘を受けた。
私の指導をしてくださっているヴァルディモア公爵は王家の縁戚で、今は王国の式典長官をしている人だ。
城で行われる全ての国事の運営を司るという彼は、前国王の元では宰相も務めていたという要人。
儀礼に詳しいのはもちろん、社交術や政治的な駆け引きにも聡く、社交の先生としてはこの上なく頼りになる。
ただ、自分にも他人にも厳しい人物としても有名で、私は彼の授業をちょっぴり苦手としていた。
「よろしい。では少し休憩しましょう――こちらへ」
1時間ほど部屋の中を歩き回り、表情筋が限界となってきたところで、ヴァルディモア卿がそう言って私をソファへと案内してくれる。
ソファに腰掛け少し休憩を取ることになった私。
とはいえ部屋の空気は変わらない。私が相変わらず硬い笑顔を貼り付けていると、「ハッハッ……」とヴァルディモア卿が不意に笑みをこぼした。
「ヴァルディ……モア卿?」
「ああ失礼。王女殿下は随分と真面目な方のようですね。以前もそのようで?」
「はい――どちらかといえばですが……」
ちなみに現王派の中心人物で、ハインツ様の腹心でもあるヴァルディモア卿は、数少ない私の秘密を知る人物でもある。
多少は私の前世云々を知る味方もいたほうが良い、という判断だ。
よって、ここで言う『以前』とは前世のことを指していた。
「それは素晴らしいことです。真面目に勝る美徳はない。ですが真面目にすれば上手くいく、というものでも社交はないのですよ」
「……」
そう言って目を細めるヴァルディモア卿。その言葉は今の私にとって、とても胸に痛いものだった。
「王女殿下を責めている訳ではありません。隙あらば授業を抜け出そうとしていた陛下と比べれば、ずっと優秀な生徒です――ただ、王女殿下の場合、少々真面目さがぎこちなさに繋がっているとお見受けします」
「ぎこちなさ……ですか?」
「えぇ。貴方の振る舞いは全てが作られているように見えます。付け焼き刃でこちらの世界のマナーを覚えていらっしゃるのですから無理もありませんが、どうしても不自然さは残る。――それは社交界に出た時、敵にとって格好の隙となります」
「隙に……敵というと陛下に反する人々のことでしょうか?」
陛下と違う意見を持ち、それだけなら構わないが、陛下をなんとかして失脚させようと画策する人々がいる、という話は聞いている。
なにより、私の記憶喪失もそういった人々の策略ではないか? と陛下は疑っている。
「それはここでは申しません。それにある一派のみを敵と決めつけるのも危険です。貴方の地位はそれだけで充分に魅力的で……王女殿下がここにいる、ということだけでそれを嫌う人が大勢おります」
「そう……ですよね……」
と、そこで突然卿が私の前に跪く。ヴァルディモア卿の視線が低くなり、私とパチリと目が合った。
「ですが案ずることはありません。陛下は確かに敵もおりますが……味方も随分多い。私も微力ながらお二人の助けになりたいと。なので王女殿下、貴方には笑っていただきたいのです」
「笑って……?」
「そうです。ほら? 何か素敵な思い出を浮かべてみてください」
素敵な思い出……咄嗟に浮かぶのは先日の一時。陛下との空中散歩だ。
「ほら美しい。可愛らしい笑顔は、何よりもの武器
となります――っと失礼」
そういった卿の手はそっと私の髪に伸び……私の侍女にはたき落とされる――良いの?
「申し訳ない。少々おいたが過ぎたようで……真面目な話に戻りましょう。困った時、どうすればわからに時は笑うようになさってください。笑顔はいくつか用意すると良いでしょう。きっと貴方の助けになります」
そうそてどこからともなく手鏡を出現させるヴァルディモア卿。私に向けてくださった鏡に映る私は、確かに微笑んでいた。
「さて、休憩でしたね。10分ほどしたら再開しましょう。私は少し席を外しますよ」
そして、また手鏡をボンッと消失させると、卿は歳を感じさせない軽やかさで部屋を出ていく。
そうしてようやく、部屋からは張り詰めた空気が消え、私と侍女たちは思わず長い息を吐いたのだった。
「……褒めていただけたのかしら?」
「お褒めになっておられたと思いますよ。事実、エマ様の笑顔はとびきり美しくございます。――それはそれとして、あれは奥様にご報告ですね」
『あれ』とはヴァルディモア卿が私の髪に触れようとしたことだろう。この国では社交辞令程度のことだと思うけど……
「いえ、王女殿下の美しい髪に断りなく触れるなど言語道断です。卿の奥様に叱っていただきます!」
私の気持ちを読んだかのように、腰に手を当てて言葉を続けるハンナ。
どうやらヴァルディモア卿は恐妻家らしい。
厳しく真面目に見えるヴァルディモア卿だが、私の知らない面もいろいろあるらしい。
私は思わず苦笑いを浮かべるのだった。
それから数日後。私はハインツ様とまだ雪の少し残る道を馬車に揺られていた。
目指すはアルジェ侯爵邸。現王派の中心人物とされる高位貴族の屋敷だ。今夜そこで行われる夜会で私は社交界デビューすることになっていた。
「昨日は随分と雪が降っていましが……もうほとんど残っていませんね。これも騎士様たちが頑張って下さったのですよね?」
「えぇ。除雪はこの時期の騎士にとって何より大切な仕事ですからね。……まあもっとも、もっと雪深くなってくるとさすがに間に合わなくなってくるのですが……」
次第に降雪量が増えてきた王国。比較的雪の量がマシな王都でも、一夜で人の背丈程まで雪が積もることはざらにあるという。
石造りの建物と、淡く黄色い光を放つ魔法灯が並ぶ通りが白く染まるのはとても美しい。
けれども、ここで生活している人にとっての雪は悩みの種だ。
そんな中でとりわけ活躍するのが、人々を守る騎士団だ。
街の人々によって結成される自警団と共に、彼らは日夜除雪作業に励んでくれている。
魔法を使って雪を溶かす、浮かして川まで飛ばす、という技が使えるのは良いが、代わりに現世のような重機はない。
少し前に初公務として除雪隊の激励をしたが、魔法があっても相当な肉体労働なことが分かった。
彼らのおかげで、私達は冬でも馬車を使えているのだから感謝しなければならない。
そんなことを考えつつ外を眺めていると、不意にさっきまで道端にあった雪が忽然と消えた。
「あ、あれは……?」
「ああ、これはレイディアル伯爵邸ですね。おそらく大規模な魔法で敷地中の魔法を丸ごと溶かしたのでしょう。除雪隊の魔力には限りがありますし、雪解け水の処理の問題もありますから公道ではやりませんが、貴族や大商人の家ではこういったことをすることもあります」
「それは……適法なのですか?」
「えぇ。個人的には魔力を見せびらかすような真似に思えて好きではありませんが、個人の敷地内で、個人で雇った者が行う分には問題ありません。伯爵は大規模な魔法を好みますから、おそらく優秀な魔法使いをたくさん雇ったのでしょう」
そう言うハインツ様の表情は少し苦い。ハインツ様は限られた魔法資源はできるだけ平等に使うべきと考えている人だ。
故に、城の除雪や暖房も必要以上にはなされていない。
城の中庭や、先日行った竜騎士の演習場などは今や雪に覆われている。
一方で、財力のある者、権力のある者が魔法を優先的に使うのは当然と考える一派もいて、その筆頭が現宰相、レイディアル伯爵だった。
「失礼ーーつまらない話をしましたね。ほら見てください、もうすぐアルジェ侯爵邸ですよ」
ハインツ様にそう言われ、再び窓の外に目を移すと、そこにはまた雪景色が広がっている。そしてその向こうには赤い屋根の広い屋敷があった。




