6 故郷の音楽
「王女殿下はご趣味などなさらないのですか?」
「趣味?」
ある日のお昼時。新しく筆頭侍女となってくれたハンナの言葉に、私はピタッと動きを止めてしまった。
「実は……勉強ばかりでは息が詰まるのではないか? と陛下がご心配を……私たち一同もエマ様の頑張っているお姿には心打たれつつ、心配もしております」
「……ハインツ様……それにみんなも……」
ハンナはまだ20代半ばなのだけど、由緒ある公爵家での勤務歴が長く、頼りになる。
そんな彼女の気遣いのこもった声に感動しつつ、けど王族のする趣味など思い浮かばない私は、続けて「うーん」と悩みこくってしまった。
「どうなさりましたか? 王女殿下?」
「いえ、その……ハインツ様のお気遣いもみんなの優しさも嬉しいのよ? ただ……私は早くこの国のことを覚えないといけないし……それに、王族らしい趣味、というのも思い浮かばなくて」
記憶の中にあるのが、ほとんど現代日本で庶民として暮らしていたもの、という私。
さすがに、これを公表するのは慎重を期すべきだから、と私は諸事情で王族としての教育を受けていない、ということになっている。
――具体的に言うと向こうの国で冷遇されていたと――
そしてそれは、決して適当な嘘でもないらしかった。
私の言葉に、なんとも悲しげな顔をするハンナ。
けど、すぐに気を取り直すかのように微笑むと、「そうですね……」と室内を見回し始めた。
「定番のものですと、刺繍や読書など嗜まれる方は多いかと。この部屋にもいくつかは……」
そういう彼女の視線を追ってみると、確かに芸術品のような刺繍道具や、美しい装丁の本がそれとなく飾られている。
これらは決して、ただの飾りではなかったらしい……
「あと芸術家肌の方でしたら、詩作や絵画、音楽など好まれる方も――音楽にご興味が?」
「え! え、と……えぇ、昔少しばかりピアノを触っていたことを思い出して――ずっと昔よ」
冷遇設定と矛盾しないよう、慌てて遠くを見る素振りをして見せる。実際ピアノを習っていたのは前世でもずっと前のことだ。
そんな私を、ハンナは勇気付けるように笑ってくれた。
「音楽は一度触れると、その身に基礎が染み込むと申します。それに、社交界に出た際にも良い話題となるでしょう」
「そ、そうなの?」
「ええ。以前の主人はヴァイオリンを嗜まれておりました。――では、早速先生の手配をいたしますね」
そう言うと、善は急げとばかりに周りの侍女たちに指示を出していくハンナ。
基本のんびりした私から見ると、彼女のテキパキぶりはもはや怖いくらいのものがある。
ただ、こうなった時の彼女は止められないことも、この数日ですでに分かっている。
だから、私は止めることもなく、そろそろ始まる午後の授業に向けて心の準備を初めたのだった。
ハンナの仕事は本当に早く、翌日にはもうピアノの先生が手配されていて、数日に1度レッスンを受けることになった。
――しかも、その先生。今は後進の指導を優先されているものの、元々は王都のサロンで引っ張りだこだった売れっ子ピアニストだったのだという。
「そ、そんな! 一介の趣味の指導にそんなすごい方なんて……良いの?」
「当然です! 王女殿下は王妃になられる方。ウェンブレル夫人もこの上ない栄誉、と喜ばれておりました」
「そ、そう……」
確かに、趣味とはいえ王妃を指導するなら、それ相応の人物を選ぶ必要があるのだろう。
私は未だ、自分が貴人だという自覚が持てない。
そんな訳で、名のしれたピアニストにピアノを習う、というのは少々気が引けたが、レッスン自体はとても楽しかった。
勉強も楽しいのだが、なんだかんだやはり息は詰まっていたのだろう。
それに久しぶりに奏でる音楽はとても楽しい。最初は感じていたブランクも、先生の教え方がうまいのが徐々に少なくなってきた。
私がピアノを弾くのは、王妃の私室のあるフロアに作られた応接室の1つ。
音楽会なども開くことが出来る場所で、かつ王妃の私的なエリアだから、原則私が招いた人しか入れない。
そんあ場所だからか――ある日の昼下がり、私は懐かしい記憶にある曲を一人で演奏していた。
「素晴らしい! とても美しい音色ですね、エマさん」
「だ! いえ、失礼しました。ハインツ様」
ポーンと響いた最後の音が消えたところで、突然拍手と称賛の声がかかる。
褒められたことより、そこに誰かいる、ということに驚いた私。
思わず、「誰!?」と叫びそうになり、そしてそこにいた人物を見て、慌ててピアノ椅子から飛び降りた。
「そんなかしこまらなくて良いって言ってますのに……それより驚かせましたね。すいません――なんとも美しい音色が聞こえてきたのでつい」
「いえ……こちらこそハインツ様に気付かないなんて……」
いくらピアノに夢中だったからって国王陛下の訪れに気付かないなんてありえない。
そう平伏する私に、ハインツ様はふわりと微笑み、それからそっと手が取られる。
そうして、ハインツ様のエスコートで立ち上がると、いつの間にか私はピアノ椅子に座っていた。
「それだけ夢中になれることがあるのは良いことです。ところで初めてお聞きした曲でしたが……もしかして前世の?」
そう言いつつ、ハインツ様は譜面台に目をやる。そこになんの楽譜もなかったことで、ハインツ様は確信を抱かれたようだった。
「は、はい! 前世でピアノを習っていた時に好きだった曲でして……まずかったでしょうか……?」
私の前世はに関する件は今のところ隠されている。私が恐る恐るハインツ様を見上げると、彼はゆっくりと首を振り、「いいえ」と優しい声で私に囁いた。
「公の場では控えるべきでしょうが、私的に演奏される分には問題ありません。皆、祖国の音楽だと思うでしょう」
その言葉に私はひとまずホッとする。するとハインツ様は「ところで」と言葉を続けた。
「前世の曲ですか? とお聞きしたのは単純な私の興味です。とても美しくて……優しい音色でしたので」
「はい……とっても素敵な曲なのです。なんでも作曲された方が婚約者に贈られた曲だとか」
私が弾いていたのは、前世で定番として知られていたピアノ曲の1つ。あまりにも好きでよく弾いていたからか、楽譜なしでも指を動かすことが出来た。
「それは素敵なお話ですね。そんな曲を練習されるとは……もしかして、私のためだと自惚れても……?」
「い、いや、まさか! そんなことは……いえ、なくもなかったり……」
婚約者のために贈る曲を練習する。その意味を今さらながら反芻して思わず鼓動が跳ね上がる私。
咄嗟に陛下の言葉をオウム返しで否定してしまい、そしてそれを慌てて覆す事になった。
確かにまだ私はハインツ様と結婚する、という自覚がないけれど……これはあんまりにも失礼だ。
幸いハインツ様はまだ微笑んでらっしゃって、でもその表情が余計に私の罪悪感を膨らませた。
「そんなに慌てなくても構いませんよ。貴方と私は政略結婚。しかもまだ会って一月もありません。私に愛情を向けて欲しい、と思う方が傲慢です」
「そ、そんな! その……」
私はハインツ様の言葉を否定しようとして、言葉に詰まる。
もちろんハインツ様のことを嫌ってはないけれど、そこに愛があるか、というとそれもまた別だ。
「その……正直、まだハインツ様と結婚するってことに現実感がないのですが……でもハインツ様は素敵な方だと感じております」
「それだけで結構ですよ。繰り返しますが我々は政略結婚です。必要なのは愛でなく信頼でしょう」
「……はい。ハインツ様」
落ち着いた声と微笑みに、焦りやら羞恥やらで早鐘のようだった鼓動が落ち着いてくる。
それはハインツ様にも分かったようで、ハインツ様は私の傍から離れると、部屋にあったソファにポスンと腰を落とした。
「それよりも、随分とピアノがお上手なようですが、前世では随分と修練を?」
足を組んだハインツ様は、私の手元に視線を動かしつつ尋ねる。そんな彼の言葉に私は少し目を泳がせた。
「随分と……というのはまた違うかもしれません。ピアニストとかを目指していた訳でもありませんし……ピアノを弾くのは好きでしたが、仕事を始めたら忙しくて全く触れなくなってしまいました」
「仕事……あぁ、そういえば貴方の前世では女性も働きに出るのが普通のことだったとおっしゃってましたね。――どんなことを?」
私は何気なく口にした言葉だったが、そういえばこの国では、原則外に出て働くの男の人だ。
思わず身を乗り出した風のハインツ様に文化の違いを感じつつ、私は少し天井を見上げた。
「そうですね……お役所務め。こちらの世界でいうと城務めの文官のようなことを。子供達の教育に関わる仕事をしていました」
「子供……そういえば、前世の世界は教育制度が随分進んでいたとか……それに城の文官とは、さぞ優秀だったのでしょう」
この国で城務めの文官といえば、超のつくエリート層だ。地元の小さな市役所務めだった私と一緒になんて出来ない、と私は慌てて首を振った。
「私のいた世界では……文官? と言いますか役人の数が多かったのです。それに私は仕事を熟す前にこっちに来てしまいましたし……」
実を言うと、前世の今際の際――平たく言うと死んだ時の記憶が曖昧な私。
けど……確かとっても忙しくて、風邪を押して出勤しようとしたら、歩いている途中に急に目の前が暗くなったことはおぼえている。
おそらく、そういうことなのだろう。
私がそんなことを思い出していると、目の前ではハインツ様がことさらに申し訳なさそうな顔をしていた。
「あぁ……嫌なことを思い出させましたね。申し訳ない」
「そんな! 苦しかったとかないですし……そうだ! それより、ハインツ様にはご趣味とかはありますか?」
「趣味?」
急激に重くなった空気をなんとかしよう、と口にした言葉。けど……気になっていたのは事実だ。
ハインツ様は普段、政務の時以外は何をして、何を好むのだろう。
これはそれを知るちょうどよい機会だと思えた。
「はい。……そういえば私、ハインツ様のこと、よく存じ上げなかったと」
「なるほど。そうですね……趣味か仕事かは微妙な範囲ですが、竜に乗るのは好きですよ」
「り、竜!?」
「ああ、失礼。貴方には禁句でしたか?」
私の反応に少し顔を歪めるハインツ様。その表情に誤解を感じた私は、慌てて大きく首を振った。
「いえ! 私が魔竜に襲撃されたのはイレギュラーもイレギュラーと学んでおります。ただその……趣味が竜に乗る、というのがあまりにも衝撃的で……」
なんせ私の前世では馬に乗るのだって、マイナー側の趣味だったのだ。竜に乗るなんて絵空事に思えたって仕方ないだろう。
けど、あらためて考えれば、この世界、特にこの国では騎竜はごく当たり前の文化だった。
「ハハハッ……確かにそうかも知れませんね。いえ、事実他所の国の方でも驚かれたりはします。でもとっても気持ち良いですよ――そうだ、今度乗ってみますか?」
「竜にですか!? 私でも乗れるのですか?」
「もちろん。私の愛竜は大型で、しかも利口ですからね。私の婚約者だと言えば、喜んで乗せてくれるでしょう。乗ってみたいですか?」
そこで私の脳裏に浮かんだのはあの時の恐ろしい怪物。
けど、いつになく楽しそうに微笑むハインツ様と目があった私は、いつの間にかコクリと頷いていた。




