第2話 不思議な少女
伯父さんたちのところに預けられて早三日が経った。最初は一人で着るのに時間がかかっていた巫女服も、今は難なく一人で着れるようになってきた。巫女さんの業務は意外と多く、箒で神社の境内を掃けばいいだけだと思っていたが、他にも様々な業務があることを知った。例えば、神社に来た参拝客にお守りや御朱印を渡す接客もあれば、どれくらいのお守りを今日売ったかを書く事務作業のようなものもあり、私はまだやった事が無いが、伯父さんが神から言伝を預かる儀の補佐をすることもあるらしい。
「巫女さんって箒持ってればいい訳じゃないんだね。」
と私がお守りを参拝客に渡した後に呟くと、隣に立っていた真理が反応した。
「神社によるらしいけどね。これくらい規模が大きい神社だと、神主さんたちだけじゃ捌けないんじゃない?」
「ふーん。でも、この神社くらい規模が大きければ、もっと巫女さんがいてもいいと思うんだけどな〜。」
実際、この神社には異様に巫女さんの数が少なく、私と真理を含めても十人いるかどうか程しかいなかった。松鷺神社は国内でも指折りの歴史を持っていて、境内の面積もかなり広いのに、だ。
「今は参拝する方も少ないし、現実的な話、人件費削減のためだと思うよ。」
「そうなのかなぁ。」
私は少し腑に落ちなかった。なぜなら、この神社において、巫女さんはかなりの働き手だから。なにせ、さっきも言ったが神社の雑用(と言うと響きが悪いけど)は全て巫女さんが担うのだ。今日は私と真理含めて五人の巫女さんがいる。五人いるはずなのに、巫女の基本業務が全て終わるのは夜なのだ。
売れたお守り数をメモしていると、後ろから声をかけられた。
「二人ともお疲れ様。私たちがそこを代わるから、貴方たちはこれから境内の掃き掃除をしてくれない?」
そう言ったのは、今日の巫女のシフトを組んだ巫女長である奈結子さんだった。奈結子さんはこの神社に二十年以上勤めているベテランの巫女さんで、神社の巫女さんを束ねる巫女長だ。優しげな雰囲気を纏い、私たちの話もしっかりと聞いてくれる母のような人で、神社の巫女は全員奈結子さんに懐いている。
「分かりました。」
私たちが素直に頷くと、奈結子さんはありがとうね、とお礼を言ってくれた。こういった細やかな気遣いも、彼女の人柄がよく出ている。私たちは水を一口飲んだあと、箒を持って神社の境内に出た。テレビでは、今日も最高気温が三十五度を超える猛暑日となっていますと朝のアナウンサーが言っていたのに、神社の境内はそこまで暑くなかった。
時折吹く風が、適度に体の熱を取っていく。息を吸うと、澄んだ空気で肺が満たされていくのを感じる。神様が根付いている神社だからか、はたまた大きな木が多いからなのかは分からないが、神社は空気が美味しく、涼しい。それなのに冬は外よりも暖かいと真理に教えて貰った。自然の不思議なパワーを、ここに来てからいくつも感じるようになった気がする。箒で石畳の道を掃き、砂利を退けて、道を綺麗に掃除する。手水舎の縁の水を拭き取り、柄杓を磨いた。掃除にもだいぶ慣れてきたなと、陽の光を反射して輝く柄杓を見ながら感じた。
松鷺神社はその歴史の古さから、境内に数々の伝説が残っている。そのひとつが東に位置する常満池だ。常満池は、約千年前に起きた大干ばつで、池に湧き水がある訳でもないのに一切水位を変えず、その後にあった干ばつでも水位を下げることすらなかった『不枯れの伝説』を持つ池だそうだ。また、干ばつの最中に池の水を飲もうとする者がいたが、指一本池の水に触れることすら出来なかったとも言い伝えられている。私はまだ行ったことがないその池に行ってみようと思い始めていた。
(今ちょうど暇だし、行ったことないし、常満池、行ってみようかな!)
境内図を見ると、常満池は拝殿がある中央部から東側の林を石道に沿って少し歩くとあるらしかった。私はその案内通り、拝殿に上がる石段──初日に足が悲鳴をあげていた例の階段である──の手前で左に曲がり、林の中に歩を進めた。林の中は境内よりも一層涼しく、ふわりと吹いた風が、額に滲んだ汗と顔の火照りを適度に奪っていってくれた。その風を心地よく感じ、体を左右に少し揺らしながら林の中を歩いていると、勾配が急な石段が現れた。私はさっきまで揺らしていた体をピタリと止めてその石段を凝視した。嫌な現実から一度目を逸らしてもう一度前を向いても、石段はさっきと同じように。
(ある……この神社は階段が多すぎやしないか?池を見て帰るだけなのに……帰りにまた石段登らないとだなんて……!)
私は一人、静かに戦慄し、絶望した。勾配が急な石段は、上りは疲れ、下りは気を張って降りなくてはならず、私はそんなに好きではなかった。好きではないものに会ったり、使ったりするときは心構えが必要なのに。心の中で文句を言いつつ石段を下り、幸いながら石段の段数は多くなく、角を折れると開けた場所が見えた。はやる気持ちを押さえつけかね、小走りになって林を抜けると、そこには想像していたよりも小さな池があった。思っていたよりも池が小さかったことにも驚いたが、それよりも私を驚かせたのは池にいた少女だった。
池の中、人間だと思えないような外見を持つ少女が一人。少女は池の水に足を沈めて立っていた。言葉を失い、私は足が凍ったように動かず、少女は足で水を弄ぶように動いた。見開いているであろう目で、その少女を見ていると、後ろを向いていた少女はゆっくりと顔を動かした。
「なるほど。」
鈴が鳴るような澄んだ声で、最初に少女が発した言葉はそんな短い一フレーズだった。その声に私の心臓は何故か一層早く動きだした。まるで、心臓を強く握られているような、そんな感覚。
(なんで?誰?そもそもどうして池の中にいるの?なるほどって何?池の中に入らないでって注意をするべき?)
言いたいことは沢山あるはずだった。けれど意に反して言葉は喉につっかえ、鼓動はどんどん早まっていく。上手く呼吸ができず、呼吸の仕方を体が忘れてしまったような、そんな錯覚にさえおちいった。さっき風が奪っていった汗と火照りが体を包み、声は全て謎のうめき声に変わって夏の空気に溶けていった。
謎の少女はそんな私を静かにじっと見つめ、私には聞き取れない声でボソリと何かを呟いた。何を呟いたのか考えようとしたけれど、その事を考えるほどの余裕が私の心にはもうなかった。
───私は何故、こんなにも緊張しているんだろう。なにか、胸の奥から強い感情が湧き上がっているような感覚すらしてくる。その感情の正体は、私には分からない。私が声を発するよりも前に、少女が声を発した。
「貴方は……本当に……。」
その後の少女の声は私の耳には届かず、見えない空気となって溶けた。少女は池に波紋を作り、私の方へとやってきた。私はカラカラにかわいた喉から、言葉を捻り出した。
「あな、たは一体誰なの?」
少女は眉一つ動かさず、口を少しだけ動かし答えた。まるで、尋ねられるのはずっと前から知っていたかのように。
「名乗る名前なんて、最初から持っていない。」
その返答は、私にとっては予想外すぎるもので、私は咄嗟に言葉が出てこなかった。
「そ、れは……どういう……。」
少女に問いかけても、少女はただ、肩をすくめるだけで、その答えは得られなかった。
───次の瞬間、強風が吹き、辺りをシャボン玉のような、水の玉が包んだ。私は反射的に目を閉じた。花のような香りが私の鼻に届いた時、耳元であの少女の声がした。
「貴方が選ばれし人間だということ、あのお言葉は本当だったのだな。やはり、魂は変わらないのか。……じゃあ。」
「え?」
風が収まり、目を開けると、水面は動きすら立てておらず、さっきの少女の姿など微塵もなかった。私は何か、見てはいけないものを見たような、巻き込まれてはいけないものに巻き込まれたような、そんな感覚に陥った。なんでここに来たのか考える暇もなく、私は来た道を引き返した。
ぼんやりと自分の部屋の天井を見上げ、私は今日のことを思い出していた。庭側から、ほんのり潮の香りを含んだ風がやってきて、布団を囲む蚊帳が少しばかり揺れた。
(結局……あの子は誰だったんだろう。)
何も考えないようにと目を瞑ると、昼間の少女の姿が瞼の裏に浮かぶ。真っ白な肌に、綺麗に手入れされた銀髪。そして、サファイアブルーの瞳。浮世離れしていて、目が離せなくて、そして何故か緊張してしまうあの佇まい。瞳も髪も、カラコンを入れたり、染めたりしたものだとは思えない自然感があった。信じ難いが、きっとあれは元からの色彩なのだろう。
(もしかして、神様の子……だったり?そんなわけないか。)
自分で考えたことが馬鹿馬鹿しくて、私はふっと笑った。巫女の仕事をやり始めてから超常的な現象は全て神様絡みだと思うようになってしまった。蚊帳を吹き抜ける少しぬるい夏の風を頬に受けながら、私の瞼はだんだん重くなっていった。
【人物紹介】
千歳奈結子(五十三)
松鷺神社で巫女長をしている。
優しげな雰囲気と包容力で巫女をまとめている頼れる存在。
怒ると怖いという噂も……?
謎の少女
池に現れた謎の少女。
浮世離れした姿と存在感を持つ。
美怜について何かを知っている──?




