第2話 ふっ……ふっ……ふっ……
夜の屋敷は静かだった。
セインの父親であるアノルドは、暖炉の前で剣の手入れをしていた。
油を含ませた布で刃を拭き、光にかざす。刃こぼれはない。だが、魔物との戦いで細かな傷は増えていた。
暖炉の薪が、ぱちりと爆ぜる。
その音に混じって、廊下から小さな足音が聞こえた。
アノルドが顔を上げると、セインの母親であるクレアが居間に入ってきた。
「セインは寝たのか?」
「ええ……寝たわ」
返事はあった。
だが、声がいつもより沈んでいる。
クレアは暖炉の明かりを受けながら、胸の前で両手を握っていた。
アノルドは剣を置き、椅子から少し身を乗り出した。
「おい……どうした? 何かあったのか?」
クレアは視線を落とし、それからようやく口を開いた。
「あんた……聞いてくれるかい? 最近、セインの様子が変で……」
「セインの様子?」
アノルドは眉をひそめた。
セインはまだ3歳だ。
転んで泣くこともある。急に機嫌を損ねることもある。何かを怖がって母親にしがみつくこともある。
アノルドにとって、子どもとはそういうものだった。
しかし、クレアの顔は冗談を言っている顔ではなかった。
「あの子……毎日、同じことをしているんだよ」
「同じこと?」
「ああ。最初は、遊びだと思っていたんだ」
クレアの声が、少し震えた。
「庭を行ったり来たりしているだけだと思った。男の子だし、あんたの真似をして身体を動かしたいのかと……」
「それで?」
「でも、明らかに違う。毎日、同じ場所で、同じ距離を、同じように行ったり来たりしているんだよ」
クレアは暖炉の火を見つめた。
◇◇◇◇
最初は、本当に遊びだと思っていた。
セインは庭に生えている、近くの2本の木の間を歩いていた。
片方の木まで歩き、くるりと向きを変えて、もう片方の木まで戻ってくる。
そしてまた、同じ道を歩いていく。
小さな足取りは危なっかしい。
すぐによろける。
石につまずく。
柔らかな土の上で尻餅をつく。
以前なら、そこで泣いていた。
クレアの顔を探し、両手を伸ばし、抱き上げてほしそうに目を潤ませていた。
だが、今のセインは違う。
転んでも、すぐには泣かない。
小さな手を地面につき、口を結び、悔しそうに眉を寄せる。
そして、立ち上がる。
「ふっ……ふっ……ふっ……」
小さく息を吐きながら、また歩き出す。
クレアは最初、微笑ましく見ていた。
泣き虫だったセインが、少しずつ男の子らしくなってきたのだと。
けれど、何日も続くと、微笑ましさは違和感に変わった。
セインは、気分で遊んでいるようには見えなかった。
花を見つけても、しゃがまない。
虫が飛んでも、追いかけない。
近くで鳥が鳴いても、そちらへ走っていかない。
ただ、決めた木まで行く。
戻ってくる。
また行く。
また戻ってくる。
まるで、自分で何かを決めているみたいに。
クレアは胸騒ぎを覚え、試しに数えてみた。
1往復。
2往復。
3往復。
最初は、すぐに飽きると思っていた。
だが、10を越えた。
20を越えた。
30を越えても、セインはやめない。
額に汗が浮かんだ。
足がもつれた。
それでもやめない。
50を越えた時、クレアの背中が少し冷たくなった。
そして。
100往復。
セインはそこで、ぴたりと止まった。
偶然だと思った。
数え間違いだと思った。
だから翌日も数えた。
その翌日も数えた。
さらに今日も数えた。
結果は同じだった。
100往復。
毎日、100往復。
◇◇◇◇
話を聞き終えたアノルドは、しばらく黙っていた。
そして次の瞬間、腹を抱えて笑った。
「ハッハッハ! セインはまだ数も数えられないんだぞ! そんなわけないだろ!」
クレアは笑わなかった。
「私も、最初は同じことを思ったよ。だけど、本当なんだよ……」
クレアはすがりつくような目でアノルドを見た。
「私はセインのことを心の底から愛している。あの子は、私たちの宝物だよ」
「ああ」
「でも……だからこそ、怖いのよ。あの子が、私の知らない何かになってしまったように見える瞬間がある」
言ったあと、クレアはすぐに唇を押さえた。
「こんなことを思う母親なんて……」
「クレア」
アノルドの声が、少しだけ低くなった。
だが、責める声ではなかった。
「それが本当なら、セインは大したやつだ。だが、まだ偶然だろう。子どもは気に入った遊びを何度も繰り返すことがある」
「……ええ」
「それに、お前が怖がったら駄目だろ。セインはまだ3歳だ。怖がるんじゃなくて、ちゃんと見てやってくれ」
クレアはうつむき、胸の前で握った指に力を込めた。
「わかってるけど……私たちの宝物なんだから……」
そう言って、クレアは小さく頷いた。
アノルドは安心させるように微笑んだ。
「クレアはセインのことになると弱気になるな! 大丈夫だろ!」
だが、クレアの表情は晴れなかった。
◇◇◇◇
翌日から、クレアはセインを細かく見るようになった。
怖がるためではない。
ちゃんと見るためだ。
「ふっ……ふっ……ふっ……」
セインは部屋の隅で、足を伸ばして座っていた。
そして、小さな身体を前へ倒す。
1回。
2回。
3回。
身体を足の方へ折り曲げる動作を、10回。
次に、足を少し開く。
片方の足へ身体を倒す。
戻す。
反対側へ倒す。
それも、10回。
クレアは息をのんだ。
セインは遊んでいるようには見えない。
笑っていない。
何かを真似しているだけでもない。
クレアには、柔軟体操に見えた。
小さな顔は真剣だった。
クレアは思わず声をかけた。
「セ、セイン……?」
セインが顔を上げる。
「ま、まさか……本当に数を数えているの?」
自分でも分かるほど、クレアの声は震えていた。
セインはきょとんとした顔をした。
「うん、わかるよ」
クレアは目を見開いた。
10回。
分かる。
そう言った。
3歳の子が。
「いつ……? いつ覚えたの?」
セインは首をかしげる。
「かぞえた」
「か、数えた……?」
「うん。じゅっかい」
クレアは胸の前で手を組んだ。
ああ、神よ。
この子にこれ以上の理由を聞くのが怖い私を、どうかお許しください。
◇◇◇◇
俺は不思議そうに母さんを見た。
母さん、どうしたんだ?
急にお祈りをしだしたぞ。
でも、相変わらず、すごく綺麗な人だ。
暖炉の明かりが髪に当たって、めちゃくちゃ絵になる。
だが、最近、柔軟をしていると母さんが明らかに困惑した顔で見てくる。
やはり、3歳児が柔軟をしているのは違和感があるのか?
しかし、関係ない!
柔軟を怠れば怪我につながる。
可動域を広げるためにも重要な要素だ。
前世の俺は、身体を大きくすることばかり考えていた。
でも、それだけでは駄目だった。
足が出なかった。
反応できなかった。
最後の一歩が間に合わなかった。
今度は、そこから作り直す。
まずは、転ばない身体だ。
よし。
柔軟は終わり。
次はスクワットだ。
歩いただけで転ぶのは、頭が重いのに、それを支える脚の筋力が弱いからだ。
身体のバランスも悪い。
この身体は、まだ自分の重さを支えきれていない。
スクワット10回を3セット。
インターバルは10秒。
自重トレーニングだ。
重りを持つわけではない。
3歳の今ならこれで十分だろう。
「ふっ……ふっ……ふっ……」
膝を曲げる。
腰を落とす。
立ち上がる。
1回。
クソ。
思ったよりきつい。
3回目で太ももが震えた。
5回目で、膝が内側に入りそうになる。
駄目だ。
姿勢が崩れる。
前世でもそうだった。
疲れると、すぐに身体の使い方が雑になる。
雑な動きは怪我につながる。
ここで無理をしても意味がない。
6回目。
太ももが、ぴくぴくと痙攣した。
俺はそこで動きを止めた。
10回もできないのか。
いや、違う。
できないところから始められる。
それが、やり直しだ。
一旦、インターバル。
ハア……明日は筋肉痛だな。
終わったら、筋肉をほぐさないとな。
よし、インターバル終わり。
あと2セット!
俺が小さく息を整えていると、居間の扉が開いた。
父さんが入ってきた。
そして、部屋の中を見るなり固まった。
「お、おい……これはどんな状況だ……?」
「あ、あんた……」
母さんが目に涙を浮かべたまま、すがるような目で父さんを見た。
◇◇◇◇
部屋の片側では、クレアが胸の前で手を組み、神に祈りを捧げている。
その目は少し潤んでいた。
部屋の中央では、セインが立ったまま膝を曲げ伸ばししている。
手は後頭部に添えられ、背筋は妙に伸びている。
額にはうっすら汗が滲んでいた。
アノルドは返事をせず、セインを見つめた。
最初は、奇妙な遊びに見えた。
だが、すぐに違うと分かった。
膝の曲げ方が毎回ほとんど同じだ。
勢いで跳ねているわけではない。
転びそうになるたびに、足の位置を直している。
呼吸も、動きに合わせている。
そして何より、目だ。
セインの目は、遊んでいる子どもの目ではなかった。
うまくいかないことに苛立ち、それでももう一度やろうとする目。
剣を握り始めたばかりの若い兵士が、初めて型を覚える時の目に似ていた。
アノルドの背筋に、ぞくりとしたものが走った。
まさか……
クレアが言っていたことは、本当だったのか……
「ふっ……ふっ……ふっ……」
セインはまた膝を曲げた。
小さな身体が揺れる。
太ももが震える。
それでも、倒れないように踏ん張っている。
アノルドは、ゆっくりと口を開いた。
「セ、セイン……」
セインが顔を上げる。
アノルドは信じられないものを見るように、息子を見つめていた。
「ま、まさか……お前……本当に鍛練をしているのか……?」




