第十九話「売れない小説家の本」
数日が経ち、境界の星での商売は、順調に進んでいた。
梅子たちは日々の配送業務をこなしながら、情報収集を続けている。
梅子は、市場を歩きながら、ある紋章に目を留めた。
建物の壁、商品の箱、あちこちに同じマークが、ある。
家で見慣れた、ものだった。
祖母がよく言っていた。「これは、私たちの家紋よ」と。
でも――目の前にあるものは、少し雑で、デザインが微妙に違う。家にあったものは、もっと繊細で、細かい装飾が施されていた。
まるで、本物の家紋を、簡略化して使い回しているような。
「ラエルザ、あのマークは、何?」
梅子が指差すと、ラエルザが答えた。
「ああ、あれは、地球のマークっすね」
クウラが、横から口を挟んだ。
「正確には、地球を牛耳ってる、アンナムって連中が好んで使うマークだな。クキキキ」
ケルケンも、興味深そうに言った。
「地球って、文化が複雑ですよね。梅子さんも出身なのに、よく分からないわけでしょう?」
梅子は、曖昧に頷いた。
確かに、分からないことだらけだ。
自分の家の家紋が、なぜアンナムのマークとして使われているのか。
いや――順序が、逆かもしれない。アンナムのマークが、自分の家にあったのだ、と考える方が、自然なんだろうか? しかし当然のような気がした、ワインの卸先を大きな業者であるアンナムに任せるのは当たり前なのかも…という風に考え直した。
*
市場をさらに彷徨っていると、古本屋を見つけた。
今時珍しい、物理媒体の本を売っている店だ。
梅子は、懐かしさを覚えた。
家には大量の、紙の本があった。父が小説家で、資料として集めていたものだ。電子書籍が主流の時代に、わざわざ紙の本を。
店に入り、棚を眺めていると、ある背表紙が目に留まった。
見たことがある、タイトル。
作者名を確認すると――『七夕竹彦』と、ある。
父の名前、だった。
梅子は、興味を引かれた。
売れない小説家の父が、実際にどんなくだらない本を書いているのか。どんな恥ずかしい内容なのか。父の正体を暴いてやろうという気持ちで、本を手に取った。
紀行文のようだ。日本、カーカラシカ、地球の文化について書かれている。
他の棚には別の作家の本が大きく展示されているが、父の本がこんな辺境の星にまで置いてあることは、意外だった。
そういえば、父の本をまともに読んだことが、なかった。家では原稿ばかり見ていて、完成した本は、手に取ったこともない。どうせ売れない駄作だろうと、決めつけていた。
梅子は、本を買うことにした。
店主は無造作に本を袋に放り込んで、渡してきた。
その手付きの無関心さに、梅子は、どこかむっとした。少なくとも、特別な本ではないらしい。
*
船に戻り、自分のベッドで読み始めた。
最初のページを開くと――知らない父の過去が、広がっていた。
『私は孤児で、樺太から渡ってきた、カーカラシカの孤児であった』
梅子は、文章を追った。
父が、孤児?
そんな話、一度も聞いたことがない。嘘をついていたのか、それとも、家族に話したくない過去だったのか。
読み進めると、父の若い頃の話が続く。当時の日本北部での暮らし、施設での生活、そして十三歳の時に、歩いて東京にたどり着いたこと。
『妻に出会ったのは、その東京であった』
母のことだ。
この淡々とした書き方に、梅子は、複雑な気持ちになった。
『当時の地球は未開の土地で、宇宙との交流も、まだ始まったばかりだった』
父の視点から見た地球の描写が、続く。
貧しかったが、希望に満ちていた時代。
『私は近くの民家から、給料の代わりに麺の端と野菜をもらってきて、料理をして暮らしていた』
梅子は、後悔し始めていた。
父を暴いてやろうと思って手に取った本だったのに、そこに書かれていたのは――自分が知らなかった、父の苦労と努力の跡だった。
売れない小説家で、母にぶら下がっているダメ親父だと、決めつけていた自分が、急に、浅はかに思えてきた。
ページをめくる手が、止まらない。
知らない父の姿を追うように、文章を追っていく。
父の若い頃の苦労、地球の変化、そして家族を持つまでの道のり。
文体は、決して上手くない。むしろ、不器用な印象すらある。でも――言葉の一つ一つに、確かな重みがあった。それは、生きてきた人間にしか書けない、土の匂いのする言葉だった。
「梅子、何読んでるっす?」
ラエルザが、覗き込んできた。
「あ、これは……市場で見つけた本です」
梅子は、慌てて本を閉じた。
「へー、紙の本なんて、珍しいっすね」
ラエルザは、興味なさそうに自分のベッドに戻った。
梅子は、本を抱きしめた。
父の本。父の言葉。知らなかった、父の姿。
売れない小説家だと、馬鹿にしていた自分が、恥ずかしかった。
父は、こんなにも深い経験を持ち、それを言葉にしていたのに。
毎日机に向かっていた背中。原稿用紙を前に、何時間も動かなかった姿。「また売れない小説書いてるよ」と笑っていた、自分。
その背中に向けていた笑いが、今、自分に返ってきている気がした。
窓の外では、境界の星の夕日が、沈んでいく。
オレンジ色の光が、本のページを照らしている。
梅子は、続きを読みたかったが、同時に、怖かった。
もっと父のことを知れば、今まで自分がしてきたことの愚かさが、より鮮明になってしまいそうで。
でも――読まずには、いられなかった。
ページを、めくる。
夕日が、紙の表面を、ゆっくりと、撫でていった。




