第十話「聖火祭の記憶」
宿の狭い部屋で、梅子は一人、ベッドに座っていた。
窓の外では、歓楽街のネオンが瞬いているが、その光も、彼女の心を照らすことはなかった。
正直――すごく、寂しかった。
一年間、がむしゃらに走ってきた。自分にも才能があることを、一人でもやっていけることを、証明しようと必死だった。
でも、今日の出来事で、何かが崩れたような気がした。
父の顔が、浮かんだ。
あのふしだらで、気の弱い男。売れない小説を書いては、母にぶら下がっている、情けない父親。
でも――そういえば。
梅子は、眉をひそめた。
近所の人たちが、よく父に、何か頼んでいたような気がする。何を頼んでいたんだろう。重い荷物を運ぶとか、そんな単純なことだったのか。それとも――。
幼い頃の記憶が、蘇る。
まだ物心つく前、父が誰かと話している姿を見て、誇らしく思っていた自分がいた。父の周りには、いつも誰かがいた。深く頭を下げる人、感謝の涙を流す人、そっと手を合わせていく人。父は何か重要な人なのだと、子供心に、感じていたのだ。
いつから、変わったんだろう。
テレビやSNSで、理想の家族像を見るようになってから。成功した父親、立派な仕事、都会での華やかな生活。それと比べて、自分の家族はあまりにも、みすぼらしく見えた。
母のことも、思い出す。
普通の、どこにでもいるような女性。葡萄畑で働き、ワイン工場で汗を流す。特別な才能もない、平凡な母。
近所の住民たちも、みんな優しかったけど、田舎臭くて、古臭くて。
一年前は「こんな田舎嫌だ」で、済んでいた。
でも、一年経って、自由主義連盟で過ごして、少しずつ、気が滅入ってきていた。特に、今日みたいな事件の後は、さらに辛く感じる。
梅子は、端末を取り出し、日付を確認した。
ふと、あることに気づく。
「もうすぐ……聖火祭の、時期だ」
呟いた言葉に、懐かしさがこみ上げてきた。
祖母のニーナ。若すぎる見た目で、本当に祖母なのかと疑いたくなるような人だったが、毎年聖火祭の時期になると、梅子を呼んで手伝いをさせていた。
料理の下ごしらえ、会場の飾り付け、子供たちへのお菓子配り。面倒くさいと思いながらも、祖母の指示に従って、動き回っていた。
祖母の国の、父の国の祭り。カーカラシカの伝統行事だと、聞いていた。瞑想の星では、その祭りを、ささやかに祝っていた。
梅子は、ベッドに横になり、天井を見上げた。
去年の聖火祭では、梅子は既に、いなかった。
誰が、祖母の手伝いをしたんだろう。ソーマだろうか、シオンだろうか。それとも、父が。
想像すると、少し、笑えた。
あの不器用な父が、飾り付けをしている姿。きっと祖母に怒られながら、おたおたしていたに違いない。
母は、相変わらず料理を作って、みんなに振る舞っていたのだろう。彼女の作る聖火祭の特別料理は、素朴だけど、美味しかった。
兄と姉も、きっと帰ってきていたはず。ソーマは難しい顔をしながらも手伝い、シオンは華やかに場を盛り上げていたのだろう。
そして、自分だけが、いなかった。
梅子は、目を閉じた。
今更、帰りたいなんて、言えない。自分から飛び出したのだから。
でも――聖火祭の夜、瞑想の星の空に上がる花火を、今年は見ることができないと思うと、胸が締め付けられた。
あの花火は、母が嬉しそうに見上げていた。父も、いつもその隣で、何も言わずに空を見つめていた。家族で並んで縁側に座っていたあの夜の空気を、思い出すだけで、息が浅くなる。
窓の外で、歓楽街の喧騒が、続いている。
仲間たちは今頃、酒を飲んで騒いでいるのだろう。彼らにとって今日は、大きな稼ぎを得た、記念すべき日だ。
でも、梅子にとっては、何かを失った日のような気がしてならなかった。
自由を求めて、飛び出した。確かに、自由は手に入れた。
でも、その代償は、思っていたよりも、大きかったのかもしれない。
梅子は、毛布を被った。
明日からまた、いつもの日常が始まる。巡察、パトロール、そして時々の戦闘。それが、自分の選んだ道だ。
でも今夜だけは――故郷のことを、思い出してもいいだろう。
聖火祭の賑わい、祖母の小言、父の情けない姿、母の優しい笑顔。全部振り切って出てきたはずなのに、なぜ、こんなに恋しいのだろう。
梅子は、静かに涙を流した。
誰にも見られないように、声を押し殺して。
毛布の繊維に、滲んでは消える、小さな染み。それを、誰かに気づかれたくはなかった。
強がっても、結局自分は、まだ十八歳の、家族を恋しがる女の子なのかもしれない。
窓の外、ネオンの光の隙間から、星が一つだけ、見えた。
あの星の光が、瞑想の星に届くのに、一体どれくらいかかるのだろう。
梅子は、そう思いながら、ゆっくりと、瞼を閉じた。




