第50話:満杯のウッドデッキと、男たちの満面笑顔
サクサクと崩れるパイ生地の繊細な音と、熱い蜜林檎が弾け飛ぶ甘酸っぱい香気が、ウッドデッキを優しく満たしていた。
少年ルッツが口の周りにパイくずを散らしながら「美味しい!」と破顔し、ジークフリートが沈水木の木製フォークを手に、まるで宝物を愛でるかのようにタルトを味わっていた、まさにその穏やかな昼下がりのことである。
ログハウスの黒鉄の煙突から大空へと立ち上っていた、焦がしバターと濃厚な蜜林檎、そしてシナモンの甘美な薫煙。
初秋の爽やかな風に乗って森全体へと広がっていったその暴力的なまでの芳香は、静かに、だが確実に、飢えた猛獣たちの嗅覚を刺激してしまっていた。
――ドタドタドタドタッッ!!
――ズシン、ズシン、ドガガガッ!!
地鳴りのような足音が、森の奥から猛烈な勢いで近づいてきた。
木々がざわめき、枯葉が舞い散る。
ジークフリートがフォークを止め、青氷の瞳をスッと細めて小道の方角を睨みつけた。足元で丸くなっていた純白の神獣ベルも、尖った耳をパタパタと動かし、呆れたように小さく鼻を鳴らす。
「真昼様ぁぁぁぁぁぁぁぁっッ!!」
木立の隙間を弾丸のように突き破り、ウッドデッキの階段を一気に四段飛ばしで駆け上がってきたのは――副官クラウスだった。
いつもなら一分の乱れもなく整えられているはずの黒髪は激しい疾走で逆立ち、息を肩で切らしながら、銀縁の眼鏡の奥の瞳を爛々と輝かせている。
「真昼様! 今日の甘味の香りは宿舎まで届いておりました! 風に乗って甘酸っぱい林檎とバターの香気が漂ってきた瞬間、私の足は執務室を飛び出しておりましたぞ……ッ!!」
「おいクラウス、抜け駆けなんざ騎士道精神にもとるんじゃねえのか、あぁん!?」
続いて熊笹の藪を力任せになぎ倒して姿を現したのは、鍛冶師バルトだった。
巨大な鍛冶槌を肩に担ぎ、無精髭の顔面を紅潮させて仁王立ちになる。
「砦の鍛冶場で鉄を打ってたらよぉ、急に天上の菓子みてえな甘ぇ匂いが鼻腔を直撃しやがった! おかげで鎚を振るう手が狂いそうになっちまったぞ! 責任取って俺の分も食わせてもらうぜ!」
「うわああああっ! 俺もっす、俺もいるっすよぉぉぉっ!!」
バルトの脇をすり抜けるようにして転がり込んできたのは、新米騎士ヨハンだった。
十九歳の無尽蔵の体力をすべて脚力に注ぎ込んだらしく、全身汗だくになりながら、ウッドデッキの手すりにすがりついて絶叫する。
「パトロールの帰りに森の匂いが変わった瞬間、胃袋が破裂しそうになったっす! 真昼さん、俺のお腹が今まさに非常事態宣言を発令してるっすぅぅぅっ!!」
「……まったく、騒々しい連中ですね」
最後に、木立の影から涼やかな足音とともに現れたのは――財務官オズヴァルトだった。
いつもの冷徹な黒のスーツ風官服に身を包み、小脇にはパンパンに膨らんだ分厚い書類袋を抱えている。
だが、その額にはうっすらと汗が滲み、ネクタイの結び目がわずかに緩んでいた。
「オズヴァルト殿まで……!? 執務はどうしたのですか!」
「クラウス殿に言われる筋合いはありませんね。……本日の領内予算決済、ならびに防衛費の監査書類、通常の三倍の速度で完了させて参りました。……真昼殿、此度の補給拠点の定期監査として、私も立ち寄らせていただきましたよ」
四者四様の乱入。
頑丈に作られたはずの広々としたナラのウッドデッキは、筋骨隆々の大柄な男たちが一堂に会したことで、あっという間に隙間もないほど満杯になってしまった。
テーブルの上にあった八等分の林檎タルトは、ジークフリートとルッツ、そして真昼が食べた残りが五切れ。
男たちのギラギラとした熱い視線が、残されたタルトへと一斉に突き刺さる。
「……おい貴様ら。任務の合間に騒ぎ立てるな」
ジークフリートが沈水木のフォークを置き、冷気すら帯びた低い声で部下たちを牽制した。
だが、クラウスもヨハンも、タルトの放つ甘美な匂いの前には一歩も引く気配がない。
「だ、団長! ご自分だけ抜け駆けして至高の焼き菓子を堪能するなど、不公平極まりありません!」
「そうっすよ! 俺の胃袋は今、あの黄金色のパイを求めて大暴動を起こしてるっす!」
「がははっ、早い者勝ちだ! 手を出したもんの勝ちよ!」
一触即発のタルト争奪戦。
その様子を前にして、真昼は呆れるどころか、ふつふつと料理人としての血が騒ぎ出すのを抑えきれなかった。
男たちの腹の底から響いてくる、雷鳴のような飢餓の音。
大人の男四人が追加で押し寄せてきたのだ。小ぶりなタルトが数切れあったところで、彼らの底なしの胃袋が満たされるはずもない。
(甘いおやつだけじゃ、絶対に足りない……! よし、秋の恵みを総動員して、全員が腹の底から満足できる豪快なご飯を作っちゃおう!)
「みなさん、落ち着いてください!」
真昼が両手をパンと叩くと、男たちの視線が一斉に彼女へと集中した。
「タルトは後でちゃんと追加で焼いてあげますから! その前に……お腹がペコペコでしょう? 今から、秋の味覚を大皿いっぱいに作ります! 席に座って、少しだけ待っててくださいね!」
その一言に、男たちの顔が一瞬にして歓喜に染まった。
「「「おおおおおおっッ!!」」」と地鳴りのような歓声が上がり、彼らは素直に丸太ベンチへと腰を下ろして、期待に満ちた瞳でキッチンの様子を見守り始めた。
***
「よしっ、一気に仕掛けるよ!」
真昼は奥納戸の押し入れゲートをくぐり、現代の古民家と異世界の小屋を素早く往復して、大量の食材をキッチンへと運び込んだ。
今朝ルッツが届けてくれた森の野生キノコ、そして現代の業務スーパーで仕入れておいた秋の根菜と肉の数々。
これらを駆使して、真昼が頭の中で瞬時に組み上げた献立は、まさに秋の恵みを味わい尽くす『秋の味覚大皿祭り』だった。
主菜は、色とりどりの野菜と肉が織りなす『鶏肉と彩り秋野菜の黒酢あんかけ』。
ご飯ものは、森の薫香を余すところなく米に吸わせる『きのこ尽くしの土鍋ピラフ』。
そして汁物は、前日から仕込んでおいた塩豚の旨味が染み渡る『塩豚と白菜のスープ』だ。
「まずは、ピラフをかまどに仕掛ける!」
萬古焼の特大土鍋に、研いであらかじめ水気を切っておいた白米を四合。
フライパンで刻んだ玉ねぎと、ルッツが採ってきてくれた森の香茸、平茸、そして現代のしめじと肉厚の椎茸を、たっぷりの発酵バターで強火でサッと炒める。
――ジュワァッ!
バターときのこの香ばしい匂いが立ち上ったところで、米と一緒に土鍋へ投入。
注ぎ入れるのは、利尻昆布と本枯節の黄金出汁に、少量の薄口醤油、塩、そして白ワインを合わせた特製スープ。
二連かまどの左側の火床に薪をくべ、強火で一気に沸騰させてから弱火へ。
土鍋の中で、米ときのこたちがバター出汁を吸い込みながら、コトコトと踊り始める。
続いて、右側の火床で『塩豚と白菜のスープ』の仕上げだ。
前日から粗塩をたっぷりと擦り込み、余分な水分と臭みを抜いて旨味を凝縮させておいた、国産豚バラ肉の塊。
これを一センチ幅の厚切りにし、大鍋の中で生姜とネギの青い部分、そして湧き水とともに弱火でコトコトと煮出していく。
塩豚から溶け出した澄んだ脂と濃厚な豚の出汁が、黄金色のスープへと変わっていく。
そこへ、ザク切りにした大量の白菜を、鍋の縁から溢れんばかりに投入した。
蓋をして蒸し煮にすること十分。
白菜の水分が引き出され、塩豚の塩気を吸ってくったりと透き通っていく。味付けは塩豚の塩分と白菜の甘み、そしてほんの少しの黒胡椒のみ。シンプルだからこそ誤魔化しの利かない、滋味あふれるスープが完成した。
「そして、本日の大本命……黒酢あんかけ!」
真昼の手の中で、燕三条の三徳包丁が目にも留まらぬ速さで舞う。
新鮮な鶏もも肉を一口大の大きめに切り分け、醤油と酒、おろし生姜で下味をつけておく。
秋野菜の下拵えだ。
ホクホクとした甘みが自慢のサツマイモを、皮付きのまま一口大の乱切りに。
シャキシャキとした歯ごたえのレンコンも乱切りにして酢水にさらす。
森の肉厚な椎茸は半分に割り、彩りのピーマンと人参も手早く切り揃える。
二連かまどの左側の火床の火力を一気に最大へと引き上げる。
中華鍋に注がれたたっぷりの油が、百八十度の高温に達した。
「野菜から、一気に素揚げしていくよ!」
サツマイモとレンコンを油の海へ投入。
――バチバチバチッ! シュワァァァッッ!!
激しい油の音が、静かな山小屋に響き渡る。
高温の油で表面を瞬時に揚げることで、サツマイモの甘みが内側に閉じ込められ、レンコンの瑞々しさが保たれる。竹串がスッと通る絶妙な揚げ加減で見極め、網じゃくしで引き上げる。
椎茸と人参、ピーマンもサッと油通し。油をまとった野菜たちは、まるで宝石のように鮮やかな色彩を放ち始めた。
そして、鶏もも肉だ。
下味を吸った鶏肉に、片栗粉をたっぷりとまぶす。
油の中へ落とし入れると、ジュワジュワと力強い気泡が肉を包み込む。
外側はカリッと竜田揚げのように香ばしく、内側はジューシーな肉汁を閉じ込めたまま、黄金色にカラリと揚がった。
「仕上げの特製黒酢あん!」
別の深型フライパンを強火で熱し、現代の老舗醸造元で作られた熟成『玄米黒酢』を惜しげもなく注ぎ入れる。
そこへ、濃口醤油、きび砂糖、本みりん、純米酒、そして少量の出汁。
――ジュワァァァァァッッッ!!
立ち上ったのは、ただの酢とは次元の違う、濃厚で芳醇な発酵の薫香だった。
ツンとした尖った刺激臭はなく、黒酢特有のコク深い酸味と、砂糖の甘みが熱によって香ばしいカラメル香へと昇華していく。
水溶き片栗粉を回し入れ、木べらで素早くかき混ぜて艶やかなとろみをつける。
ボコッ、ボコッと大粒の泡が立ち、極上の黒酢あんが完成した瞬間――。
「全部、合わせる!」
素揚げした熱々の鶏肉、サツマイモ、レンコン、椎茸、野菜たちを、一気に黒酢あんの海へと投入した!
フライパンを大きく煽る。
――ジャッ、ジャッ、ジャァァッ!
宙を舞う具材たちに、琥珀色のとろりとした黒酢あんが、余すところなく絡みついていく。
サツマイモの黄金色、レンコンの白、椎茸の茶、ピーマンの緑、人参の朱、そして鶏肉のキツネ色。
すべての具材が黒酢の艶やかな光沢を纏い、まるで磨き上げられた漆工芸品のようにギラギラと輝きを放った。
「……できたっ!!」
ちょうどその時、土鍋の蓋の穴からも、勢いよく蒸気が吹き上がり、香ばしいお焦げの匂いが立ち上った。
完璧なタイミング。
真昼は巨大な盛り付け皿を並べ、出来立ての料理たちを豪快に盛り付けていった。
***
「みなさん、お待たせしました! 秋の味覚大皿祭りです!」
真昼の明るい声とともに、ウッドデッキの長テーブルの上へ、巨大な大皿料理が次々と並べられていった。
ドカン、と中央に据えられたのは、深紅の特大大皿に山盛りにされた『鶏肉と彩り秋野菜の黒酢あんかけ』。
湯気をもうもうと立ち上らせ、照り輝く黒酢あんと具材たちが放つ甘酸っぱい芳香が、男たちの鼻腔を容赦なく直撃する。
その隣には、萬古焼の大土鍋。
木蓋を開けた瞬間、ボワッ! と立ち上ったのは、バター醤油の濃厚なコクと、数種類のきのこが放つ力強い大地の薫香をまとった『きのこ尽くしの土鍋ピラフ』。
そして、白磁の深鉢に並々と注がれた、厚切り塩豚の旨味とクッタリと煮込まれた白菜が光る『塩豚と白菜のスープ』。
さらに、デザート用として、バルトのかまどのオーブンで追加で焼き上げられたばかりの、二台目の『焼きたて蜜林檎タルト』が、香ばしい甘い湯気を立てて控えていた。
「「「う、おおおおおおおおおおっッッ!!」」」
ウッドデッキが揺れるほどの雄叫びが上がった。
男たちの目の色が、完全に獲物を狙う肉食獣のそれへと変わる。
「す、すげぇ……! 何だこのご馳走の山はぁぁっ!!」
「野菜が……肉が、艶やかに光り輝いている……! そしてこの酸味を含んだ芳醇なタレの匂い……唾液が滝のように溢れて止まりません!」
「土鍋の飯から立ち上る、このバターときのこの香り……! たまらん、胃袋が狂いそうだぜ!」
「さあ、冷めないうちにどうぞ! 大皿からどんどん取ってくださいね!」
真昼の合図とともに、男たちの腕が一斉に伸びた。
乾杯の掛け声すら待ちきれないように、取り皿とスプーン、箸が飛び交う。
先陣を切ったのは、やはり鍛冶師バルトだった。
大皿から、黒酢あんがたっぷりと絡んだ大振りの鶏肉と、黄金色のサツマイモを箸で豪快に掴み上げ、口の中へと放り込む!
――ハフッ、サクッ、ジュワァァァッッッ!!
噛み締めた瞬間、バルトの毛むくじゃらの顔面がカッと紅潮した。
「……………………ッッ!?」
言葉が出ない。
まず舌を打ったのは、黒酢あんの圧倒的な『コク』だった。
ツンとした嫌な酸味は一切なく、熟成された玄米黒酢特有のまろやかで奥深い酸味と、きび砂糖の甘みが、極限の黄金比率で舌を包み込む。
そして、片栗粉の衣を突き破った鶏もも肉から、熱い肉汁が溢れ出す。
だが、真の驚きはその野菜たちだった。
素揚げされたサツマイモの、ねっとりホクホクとした濃厚な甘み。それが、黒酢のキリッとした酸味と合わさることで、まるで極上のスイーツのように旨味が何倍にも引き立てられている。
続いて噛み砕いたレンコンの、シャキッとした小気味よい歯ごたえ。肉厚な椎茸からジュワリと滲み出る、キノコ出汁の旨味。
「……くぅぅぅぅぅっッ!!」
バルトは太い拳で自分の膝を叩き、叫んだ。
「うめぇぇぇぇっ! 黒酢のコクが肉と芋に絡んで、箸が止まらねぇ!! 油で揚げてあるのに、この酸味のおかげでいくらでも腹に入っていくぞ!!」
「俺もっす! このピラフと一緒に食うと、マジでヤバいっすよぉぉっ!!」
ヨハンは深皿に山盛りにしたきのこピラフの上に、黒酢あんかけの鶏肉をバウンドさせ、スプーンで豪快にかき込んでいた。
口いっぱいに頬張り、目を白黒させながら咀嚼する。
バターと出汁を吸った新米のピラフは、一粒一粒がパラリとほどけ、噛むたびに香茸としめじの芳醇な薫香が弾ける。
そこへ、黒酢あんの甘酸っぱさと鶏肉の脂が雪崩れ込むのだ。
美味くないはずがない。
「うっ、うっ……! バターの香ばしさとキノコの旨味が、米の一粒一粒に染み込んでるっす! このタレがついたご飯、無限に食えるっすぅぅっ!」
その横で――。
普段は冷静沈着を絵に描いたような堅物財務官、オズヴァルトが、鬼気迫る形相で萬古焼の大土鍋の前に陣取っていた。
彼は眼鏡を少し指で押し上げると、大きなお玉を両手で握りしめ、土鍋の底に残っていたピラフを、己の深皿へと猛烈な勢いで掻き集め始めたのだ。
特に、土鍋の底に張り付いた、バター醤油の香ばしい『お焦げ』の部分を、一切の迷いなく削ぎ落としていく。
「……あぁ、美味い。きのこの滋味が、過労で凝り固まった思考を解きほぐしていく。……このお焦げの苦みとバターの調和、完璧だ。……大鍋の管理は、財務官である私が責任を持って引き受けましょう」
その様子を目ざとく見咎めた副官クラウスが、血相を変えて立ち上がった。
「お、オズヴァルト殿ッ!! 何を抜け駆けしているのですか! ピラフの鍋を独り占めするのは越権行為ですッ!!」
「越権行為とは心外ですね、クラウス殿。私は保全拠点の『栄養収支』を公平に監査しているだけです。……このピラフは、冷めないうちに胃袋へ収めるのが最も効率的かつ合理的です」
「屁理屈を仰るな! その底のお焦げは、私が狙っていたのですぞ! 離しなさい、お玉をこちらへ!」
「断る。予算の執行権は私にあります」
「これは軍の兵站です! 副官の私が統制しますッ!」
眼鏡を光らせたエリート官吏ふたりが、土鍋を挟んでお玉とスプーンをカチカチとぶつけ合い、まるで子どものように本気でお焦げを奪い合っている。
そのあまりの剣幕に、少年ルッツが「あはは! ふたりとも顔がすっごく真剣だよ!」とお腹を抱えて笑い転げた。
「おいおい、喧嘩してねえでこのスープを飲んでみろってんだ!」
バルトが取り分け用の椀を差し出す。
澄んだ塩豚と白菜のスープを口に含んだ瞬間、クラウスとオズヴァルトの動きが、ピタリと止まった。
――ず、ずずっ……。
舌の上に広がったのは、じっくり煮込まれた塩豚の、驚くほどまろやかで深い旨味。
そして、クッタリと煮崩れる寸前の白菜から溢れ出す、どこまでも優しい野菜の甘み。
黒酢あんとバターピラフの濃厚な味覚を、熱く澄み切ったスープが優しく包み込み、五臓六腑へと染み渡っていく。
ふたりは同時に肩の力を抜き、ふぅ……と至福の吐息を漏らしたのだった。
***
「みなさん、お茶のおかわりはいかがですか?」
真昼は大きなやかんを手に、男たちの間を笑顔で回った。
六条大麦をじっくり水出しした、琥珀色の冷たい麦茶。
男たちのグラスに注ぎ足すたび、カラン、と氷が涼やかな音を立てる。
麦茶をごくごくと喉を鳴らして飲み干したバルトが、大皿の最後のレンコンを箸でつまみ上げ、口に放り込んだ。
そして――空になった大皿の山を見渡し、満足そうに腹をポンと叩くと、ナラの床板の上にドカッと背中を預けた。
その毛むくじゃらの顔が、ランタンの光の下で、まるで孫を見つめる好々爺のように柔らかく緩んでいく。
「……ふぅぅぅ。食った、食ったぜ……! 腹の底から、力が漲ってきやがる」
バルトは細めた目を真昼へと向け、しみじみとした、深い実感を込めた声で呟いた。
「……なぁ、嬢ちゃん」
「はい、バルトさん?」
「……あんたがここに来てから、この森は天国になっちまったな」
「え……?」
真昼が目を丸くすると、バルトは豪快に笑いながら、目尻に刻まれた深い皺を優しく歪めた。
「嘘じゃねえぞ。……昔のこの森はよ、冷たくて、薄暗くて、魔獣と戦うためだけに足を踏み入れる血生臭え場所だったんだ。砦の宿舎に戻ったって、冷え切った固い干し肉と、泥水みてえな安酒を胃袋に流し込むだけの毎日よ。……だが、今はどうだ」
バルトはぐるりとウッドデッキを見渡した。
「あんたが火を起こし、出汁を引き、湯気を立てて笑って迎えてくれる。……それだけで、どんな過酷な任務だろうと、どんな理不尽な戦いだろうと、ここへ帰ってくれば全部吹き飛んじまうんだ。……俺たち男どもにとって、ここはもう、ただの補給拠点なんかじゃねえ。命を賭けて守るべき、天国そのものなんだよ」
「バルトさん……」
真昼の胸の奥が、熱い衝撃でぎゅっと満たされた。
隣では、ジークフリートが静かに頷いていた。
青氷の瞳をこれ以上ないほど温かに細め、真昼を真っ直ぐに見つめている。
クラウスも、オズヴァルトも、ヨハンも、ルッツも。
全員が、嘘偽りのない満面の笑顔を、真昼へと向けていた。
名門のしがらみも、身分の差も、立場の重圧も、ここには何ひとつ存在しない。
ただ、ひとつのあたたかな食卓を囲み、同じ釜の飯を分け合い、美味しさに魂を震わせる――家族のような、かけがえのない絆。
「くぅ〜ん」
その時、足元から甘えたような鳴き声が上がった。
満腹になった男たちの間を、器用にすり抜けて歩み寄ってきたのは――純白の毛玉、神獣ベルだった。
ベルは男たちの足を前足でひょいと避けると、エプロン姿の真昼の足元へと辿り着き、ぴょんと軽やかにジャンプした。
そして――。
真昼の膝の上へと、どっかりと当たり前のように腰を下ろしたのだ。
「きゃっ、ベル!?」
ベルは真昼の太ももの上に丸くなり、顎をちょこんと真昼の腕に乗せると、ウッドデッキに座る男たちを見渡して、「ここは私の特等席だ」とでも言いたげに誇らしげに胸を張った。
そして、満足そうに「ふすー」と鼻を鳴らす。
「あはは! 神獣様、ちゃっかり一番いい場所を独占してるっす!」
「まったく、あの抜け目のなさは見習いたいものですね」
「がははっ! 神獣様にも勝てねえや!」
男たちの間で、どっと温かな爆笑が巻き起こった。
ジークフリートが苦笑いを浮かべながら、膝の上のベルの頭を大きな手でそっと撫でる。ベルは少しだけ誇らしそうに目を細め、ジークフリートの手のひらを受け入れていた。
そこへ、真昼が笑顔で立ち上がる。
「さあみなさん! お腹が落ち着いたら、デザートの焼きたて林檎タルトを切り分けますね!」
「「「うおおおおおっ!! 別腹っす!!」」」
再び歓声が上がり、ウッドデッキは底抜けの明るさに包まれた。
紅葉に染まる森の木々の上、どこまでも高く広がる初秋の澄んだ青空。
そこへと吸い込まれていく男たちの賑やかな笑い声と、大皿を囲む温かな湯気。
都会の激務にすり減っていた限界OLが見つけた、押し入れの向こうの小さな居場所は――。
世界で一番あたたかく、誰にも侵すことのできない、幸福の笑顔で満ち満ちていたのだった。




