第38話:何も言わない優しさと、湯気立つ土鍋の蓋
夜と朝の境界は、藍色から薄墨色へ、そして東の稜線から滲み出す淡い白金色へと、静かに、けれど確実に移ろっていた。
木々の梢を揺らす風は、昨日よりも一段と冷たさを増している。湿り気を帯びた朝露がナラの葉先で結晶のように光り、森全体が息を潜めて、これから訪れる朝を待っていた。
奥納戸の押し入れの襖を開け、真昼が異世界のログハウスへと足を踏み入れたのは、まだ夜明け前の午前四時半のことだった。
首から提げた祖母の真鍮の鍵が、体温を吸ってじんわりと温かい。
足元では、純白の神獣ベルが音もなく歩み寄り、真昼のふくらはぎにそっと頭を寄せてきた。いつもなら「おはよう」と甘えるように喉を鳴らすベルも、今朝ばかりは言葉を慎むように静かに目を細め、ただ真昼のそばに寄り添っている。
「……おはよう、ベル」
真昼は小さく呟き、ベルの温かい頭を一度だけ撫でた。
昨日の昼下がり、副官クラウスが青ざめた顔で打ち明けてくれた言葉が、夜の間中、真昼の胸の奥底でずっと渦を巻いていた。
――王都からの査察使の来訪。
――名門ヘスラー公爵家の権力闘争と、有力侯爵令嬢との政略結婚。
――そして、この森の平穏と、真昼と過ごす朝食の時間を守るために、たった一人で中央の巨大な権力に立ち向かい、すべてを投げ打とうとしているジークフリートの決意。
真昼は奥歯をそっと噛み締めた。
自分は、ただの元OLだ。
剣を振るって魔獣を倒すこともできなければ、王都の貴族たちを言い負かすような政治の知恵も持っていない。大貴族の権力争いの前では、あまりにも無力で、ちっぽけな存在にすぎない。
けれど――。
だからこそ、自分にできる唯一のことを、命のすべてを込めてやり遂げなければならない。
どんなに冷たい嵐が吹き荒れようと、彼が帰ってくるこの場所だけは、絶対に温かい光で満たしておくのだ。凍えきった心と身体を芯から解きほぐし、今日という過酷な戦いへと送り出すための、最高の朝ごはんを作ること。それこそが、この押し入れの向こうで真昼が見つけた、己の誇りであり、生きる道なのだから。
「よし……! 仕込みに入ろう」
真昼は紺絣の割烹着の袖をきゅっと引き上げ、両頬をパチンと叩いて気合を入れた。
***
今朝の主役は、ジークフリートがこの小屋で最も愛してやまない料理――土鍋で炊き上げる『炊き込みご飯』だった。
それも、ただの五目ご飯ではない。
真昼が作業台の上に並べたのは、昨日、薬草採りの少年ルッツが「崖の群生地で見つけてきたよ!」と届けてくれた、森の野生キノコだった。
「……本当に、素晴らしい香り」
竹籠に盛られたそのキノコは、日本の幻の銘茸と呼ばれる『香茸』に酷似していた。
傘の表面は黒褐色で、粗い逆立った鱗片に覆われており、一見すると無骨で毒々しいほどだ。しかし、ひとたび鼻を近づければ、まるで乾燥させた極上のポルチーニや上質なほうじ茶、あるいは深く熟成させた果実酒のような、濃厚で野趣あふれる甘美な薫香が立ち上ってくる。
乾燥させることでその香りは何倍にも跳ね上がるため、真昼は昨日から秋風に当てて半日陰干しにしておいたのだ。
真昼は燕三条製の三徳包丁を構え、下処理に取りかかった。
半乾燥させた森の香茸を、石突きを落としてから手で裂くように一口大に分ける。包丁で切り刻むよりも、手で繊維に沿って裂く方が、断面からキノコの出汁と香りが驚くほど豊かに煮汁へと溶け出すのだ。
続いて、業務スーパーで仕入れてきた新鮮な国産の『鶏もも肉』。
黄色い余分な皮下脂肪を丁寧に削ぎ落とし、親指の先ほどの小ぶりな角切りにしていく。小さめに切ることで、ご飯全体に鶏の脂の旨味が均一に行き渡る。
さらに、熱湯をかけて油抜きをし、細切りにした『油揚げ』。
皮をこそげて水にさらし、独特の大地の野趣を残した『ささがきごぼう』。
彩りと自然な甘みを添える、鮮やかな朱色の『細切り人参』。
「五つの具材……これで役者は揃ったね」
具材の準備が整ったところで、合わせ調味料の調合に入る。
昨夜からじっくりと水出しにしておいた、利尻昆布と本枯節の濃厚な黄金出汁。
そこへ、出汁の色を濁らせない淡口醤油を大さじ三、米の甘みを引き立てる純米酒を大さじ二、本みりんを大さじ一、そして隠し味として、味の輪郭をキリリと引き締める濃口醤油をほんの小さじ一杯。
指先で味見をすると、昆布のまろやかなアミノ酸の奥から、上品な塩気と米の芳醇な香りが広がる。炊き込みご飯の出汁は、通常の吸い物よりもわずかに「塩気が強め」に感じるくらいが、具材と米が合わさった時に完璧な塩梅になるのだ。
萬古焼の深型土鍋の底へ、研いで一時間しっかり浸水させた新米二合半をあける。
そこへ、計量した合わせ出汁を静かに注ぎ入れる。
ここからが、真昼のこだわりだった。
切り分けた五つの具材を、決して米と混ぜ合わせてはならない。
ごぼう、人参、油揚げ、鶏もも肉、そして森の香茸を、米の上にふんわりと、層を描くように平らに広げて乗せていく。
具材を米と混ぜて炊いてしまうと、米粒の間に隙間ができずに対流が阻害され、芯が残ったり炊きムラができたりしてしまう。具材は上に乗せ、蒸気の力でそのエキスだけを下のお米へとじっくりと染み渡らせるのが、料亭直伝の鉄則なのだ。
「バルトさんのかまど、今朝もよろしくお願いします」
二連かまどの左側の火床に、細く割った乾燥ナラの薪をくべ、火を放つ。
吸気弁を開くと、ゴォッ……と地鳴りのような吸気音とともに、清らかな炎が立ち上がった。
黒鉄の天板の上に、萬古焼の土鍋をどっしりと据える。
最初は中火。土鍋全体が均一に温まるのを待ち、沸騰の気配を察したら強火へ。
その間に、汁物の仕込みだ。
今朝の炊き込みご飯に合わせるのは、澄まし汁ではない。
秋の冷え込む朝に、身体の芯から温まり、キノコの濃厚な香りを受け止めるための『豆腐と三つ葉の赤だし』だった。
小鍋に、煮干しと厚削り鰹節から引いた力強い出汁を張る。
そこへ溶き入れるのは、愛知の伝統的な八丁味噌に似た、長期熟成の深い赤褐色の豆味噌。大豆と塩だけで何年も熟成された赤味噌は、独特の渋みと重厚なコクを持ち、加熱しても香りが飛びにくい。
出汁の中で赤味噌が溶け崩れ、深い赤銅色の汁がふつふつと揺らめく。
さいの目に切った滑らかな絹ごし豆腐を沈め、火を止める直前に、瑞々しい緑の三つ葉をざく切りにして放り込む。仕上げに、指先で粉末にした国産の粉山椒をほんの一振り。
ツンと鼻をくすぐる爽快な山椒の芳香と、赤味噌のどっしりとした薫香が混ざり合い、台所の空気をキリリと引き締めていく。
――チクタク、チクタク。
やがて、土鍋の蓋の穴から、シュルシュルと勢いよく白い蒸気が噴き出し始めた。
部屋中に満ちていく、甘く香ばしい匂い。
鶏の脂が爆ぜる微かな音。
香茸が放つ、森の深淵を凝縮したような圧倒的なアロマ。
真昼は吸気弁を絞り、熾火の極弱火へと火力を落とした。
じっくりと水分を飛ばし、米の芯まで旨味を閉じ込める。
パチパチ……チリチリ……と、土鍋の底から微かな「お焦げが生まれる音」が聞こえてきた瞬間、真昼は火床から土鍋を下ろし、黒鉄の天板の保温スペースへと移した。
「ここから、十分間の蒸らし……!」
蓋を開けたい衝動をぐっと堪え、余熱で蒸気を循環させる。
すべては、完璧だった。
***
――カラン、カラン……。
――ザッ、ザッ……ガシャン……。
森の広場から、重々しく、冷たい金属音が響いてきた。
真昼はそっと息を呑み、キッチンの窓から外を見遣った。
ウッドデッキの階段を、ゆっくりと踏みしめながら上がってくる人影。
そこにいたのは――白エプロンを着けた、いつもの穏やかな常連さんではなかった。
頭の先から爪先まで、一分の隙もなく磨き上げられた、純銀の重装甲冑。
肩からは、ヘスラー公爵家の紋章が銀糸で刺繍された、深い濃紺の儀礼用正装マントが重々しく垂れ下がっている。
腰には、儀仗用の大剣。
シルヴァ辺境警備騎士団長、ジークフリート・フォン・ヘスラー。
王都から訪れる大貴族の査察使を迎えるための、最高礼装たる軍装だった。
その白銀の甲冑は、初秋の淡い朝光を冷たく反射し、まるで触れるものすべてを一瞬で切り裂く氷の刃のような威圧感を放っていた。
金糸の髪は一糸乱れず撫でつけられ、彫刻のように整った顔立ちは、一切の感情を削ぎ落とした仮面のよう。
青氷の瞳は前方を冷たく見据え、その奥には、世界のすべてを拒絶するような、張り詰めた孤独の光が宿っていた。
(……ジークさん……)
真昼の胸が、きつく締め付けられた。
あの重たい鉄の鎧の下で、彼がどれほどの覚悟と痛みを押し殺しているのか。
たった一人で王都の不条理と戦い、この場所を守るために、己のすべてを投げ打とうとしている男の、あまりにも痛々しい決戦の装い。
ジークフリートはウッドデッキの中央まで来ると、扉の前で足を止めた。
金属の手甲に包まれた拳が、微かに震える。
入るべきか、このまま去るべきか、迷うように躊躇ったあと――彼は静かに、鉄の指先でログハウスの木の扉を押し開けた。
ギィィ……と、蝶番が静かに鳴る。
「……おはよう、真昼」
低く、地を這うような重厚な声。
甲冑の擦れ合う硬い音が、静かなログハウスに響く。
ジークフリートは部屋の入り口に佇み、真昼と視線を合わせた。
その瞳は、何かを警戒するように、あるいは自らの抱える過酷な運命から真昼を遠ざけようとするように、わずかに伏せられていた。
昨日の今日だ。
勘のいい彼女のことだ、なぜ自分が今朝このような正装の甲冑を纏っているのか、何か不穏なことが起きているのではないかと、問い詰めてくるに違いない――そう身構えているのが、痛いほど伝わってきた。
――だが。
真昼は、何も聞かなかった。
「ジークさん、おはようございます!」
真昼はいつもと何一つ変わらない、春の木漏れ日のような、柔らかで屈託のない満面の笑顔を向けた。
王都の査察使のことも。
侯爵令嬢との政略結婚のことも。
なぜ薪割りをせず、朝からそんな物々しい甲冑を着ているのかということも。
野暮な詮索も、重苦しい同情も、ただの一言すら口にしなかった。
「寒かったでしょう? ちょうど今、朝ごはんが完璧に仕上がったところですよ。……甲冑を着たままで窮屈かもしれませんけど、どうぞ、座ってください」
「……あ……」
ジークフリートの青い瞳が、わずかに見開かれた。
肩透かしを食らったような、驚きと戸惑い。
追及される覚悟で固く閉ざしていた彼の心の防壁が、真昼のあまりにも日常的で温かな笑顔の前に、拍子抜けするように揺らぐ。
ジークフリートは甲冑を軋ませながら、丸太テーブルのいつもの席へと歩み寄り、マントの裾を払って腰を下ろした。
真昼は、使い慣れた萬古焼の土鍋の前に立った。
ジークフリートがしっかりと椅子に深く腰を下ろし、背筋を伸ばしたのを――その呼吸を、静かに見計らう。
そして。
「……さあ、召し上がれ!」
真昼は両手で土鍋の二重蓋の取っ手を掴むと、斜め手前に向けて、迷いなく持ち上げた。
***
――ボワァァァァァッッッ!!
瞬間。
純白の、濃密な蒸気が、火山の噴煙のように天に向かって立ち上った。
そして、その湯気とともに解き放たれたのは――。
ログハウスの空間を一瞬にして塗り替え、初秋の冷たい朝気を粉々に吹き飛ばすような、暴力的なまでの『香りの奔流』だった。
「……………………ッッ!?」
ジークフリートの全身の神経が、雷撃に打たれたかのように硬直した。
冷徹を装っていた青氷の瞳が、限界を突破して見開かれる。
鼻腔を、脳髄を直撃したのは――かつて嗅いだことのないほど、深く、気高く、力強い薫香だった。
森の香茸が熱気によって解き放った、大地の奥底を思わせる濃密なキノコのアロマ。
そこへ、鶏もも肉から溶け出した上質な脂の甘やかな香り。
香ばしく焦げた濃口醤油の、胸をかきむしられるような薫煙。
油揚げのまろやかな大豆のコクと、ごぼうが放つ力強い大地の野趣。
それらすべての旨味の粒子を抱え込んだ、新米の瑞々しいデンプンの湯気。
ただ匂いを吸い込んだだけで、甲冑の下で凍りついていたはずのジークフリートの胃袋が、ギュゥゥッ……と切実な悲鳴を上げ、口内には耐えきれないほどの唾液が溢れ出してきた。
土鍋の中に満たされていたのは――まさに、秋の恵みの小宇宙だった。
出汁と醤油の旨味を極限まで吸い込み、艶やかな琥珀色に染まり上がった米粒たち。
その合間に、ふっくらと煮含められた大ぶりの鶏肉が誇らしげに顔を覗かせ、黒褐色の香茸がたっぷりと散りばめられている。人参の鮮やかな朱色と、油揚げの黄金色が彩りを添え、表面からは細かな湯気がキラキラと光を乱反射して立ち上っていた。
「わぁ……完璧に炊けてる!」
真昼は木製のしゃもじを水で濡らすと、土鍋の縁に沿って刃を入れ、底から大きく空気を含ませるようにして切り混ぜた。
――サクッ、ふわっ。
しゃもじの先から伝わってくる、米粒同士が心地よい弾力でほどける感触。
底から持ち上げられたご飯の裏側には、ほんのりと香ばしく色づいた、キツネ色の美しい『お焦げ』が顔を覗かせていた。
真昼は萩焼の深めの大茶碗を手に取ると、しゃもじで山盛りに、こんもりとご飯を装った。
一粒一粒が潰れることなく立ち上がり、出汁をまとってダイヤモンドのように輝いている。
大きなお盆の上に、湯気をもうもうと上げる五目炊き込みご飯の大茶碗。
隣には、深い赤銅色の汁に純白の豆腐と鮮やかな緑の三つ葉が浮かぶ、熱々の赤だしの木椀。
そして、黒檀の塗り箸。
真昼はお盆を両手でしっかりと抱え、ジークフリートの目の前へと歩み寄った。
コトリ、と。
丸太テーブルの上に置かれた器から、温かな湯気がふわりと立ち上り、ジークフリートの冷え切っていた頬を優しく撫でる。
真昼はジークフリートの青い瞳を、まっすぐに見つめた。
どこまでも澄んだ、一片の曇りもない瞳。
そして、静かに、だが胸の奥底に届く確かな温もりを込めて、こう告げたのだ。
「……団長さん」
「……真昼……」
「いろいろ大変みたいですけど……まずはこれ、しっかり食べてください」
真昼は微笑み、大茶碗を彼の両手の間へと、そっと押し進めた。
「お腹が空いてたら、勝てる戦も勝てなくなっちゃいますから」
「……………………ッッ!」
ジークフリートの胸の奥で、何かが激しく音を立てて崩れ落ちた。
言葉が、出なかった。
喉仏が激しく上下し、息が詰まる。
彼女は――知っていたのだ。
何も言わなくても。自分が隠そうとしていた過酷な現実も、これから立ち向かわねばならない王都の理不尽も、すべてを察した上で。
それでも、何も詮索せず、何も責めず、ただ一言――「勝てる戦も勝てなくなる」と。
自分が戦うことを信じ、その背中を押すためだけに、この至高の飯を炊き上げて待っていてくれたのだ。
ジークフリートの鋼のような背中から、張り詰めていた見えない糸が、ぷつりと切れた。
全身を縛りつけていた重い緊張の鎖が、一瞬にして砕け散っていく。
彼は白銀の甲冑の重みに身を任せるように、ふっと、深く、長いため息を吐き出した。
強張っていた肩の力が、ことりと抜け落ちる。
冷徹な騎士団長の仮面の下から現れたのは――。
ただ一人の、温かい食事を前にして心を震わせる、素直な人間の顔だった。
「……ああ」
ジークフリートの口から漏れたのは、掠れた、だが心底からの安堵に満ちた声だった。
その青氷の瞳には、かつての冷たい孤独の影はどこにもなかった。
湯気を見つめる彼の目元が、ふわりと、泣き出しそうなほどに優しく緩んでいく。
「……ああ。そうだな、真昼。……腹が減っていては、戦えんな」
ジークフリートは震える手甲を外し、素手を露わにした。
無骨で傷だらけの手を、胸の前で静かに合わせる。
目の前に立ち上る、温かな五目ご飯の湯気。
彼を守り、彼を信じてくれる少女の、何物にも代えがたい食卓が、そこにあった。




