第34話:箪笥の底の古い日記と、おばあちゃんの足跡
ジークフリートが宿舎へと戻り、森の木々が夕暮れの濃紺に染まり始める頃。
真昼はログハウスの窓を閉め、二連かまどの熾火が静かに眠りについたのを見届けてから、奥納戸の押し入れゲートをくぐった。
――スゥッ、と空気が切り替わる。
針葉樹の清冽な冷気が引き、代わりに肌を包み込んだのは、初夏の熱気を蓄えた古い土壁と、い草の畳が放つ懐かしい匂いだった。
襖を背中で静かに滑らせて閉め、首元に触れると、祖母の形見である真鍮の鍵がじんわりと体温を吸って温もっていた。
「……ふぅ」
柱時計が、コチ、コチ、と低く落ち着いたリズムで時を刻んでいる。
夕闇が迫る古民家の中は、昼間の暑さが嘘のように、静謐な藍色の影に満たされていた。
昼下がりのジークフリートの言葉が、まだ耳の奥に微かに残っている。
名門貴族の重圧、感情を殺して剣を握り続けた孤独な日々――。
誰にも頼れず、自分の命をすり減らしていたあの不器用な騎士団長の背中を思い出すたび、真昼の胸の奥がきゅっと切なく締め付けられた。
自分も同じだった。都会の過酷なオフィスで、誰にも弱音を吐けず、自律神経を壊して逃げるようにこの古民家へ辿り着いたあの日の冷たい絶望。
そんな自分を今、温かい出汁の香りと共に救ってくれているのは、間違いなくこの場所だった。
「……おばあちゃん。私、少しは前を向いて生きられてるかな」
真昼は縁側から奥納戸へと戻り、部屋の裸電球の紐を引いた。
パチリと橙色の柔らかな光が灯り、埃の舞う部屋を照らし出す。
ここは、半年前に他界した祖母タエの荷物が、まだ生前の面影を残したまま眠る場所だ。
都会での激務に追われていた頃は、年に一度顔を見せるのがやっとだった。タエはいつも縁側で真昼の帰りを待ち、手前味噌の味噌汁とぬか漬けを振る舞い、「真昼、無理をしちゃいかんよ」と、節くれだった温かい手で背中をさすってくれたものだった。
そのタエが遺してくれたこの古民家と、あの異世界へと通じる不思議な押し入れ。
(そういえば……この箪笥の引き出し、まだ全部は確認してなかったっけ)
真昼の視線は、奥納戸の壁際に据えられた、年季の入った総桐の箪笥へと吸い寄せられた。
タエが嫁入りの際に持ってきたというその箪笥は、四隅の角が丸く擦り減り、経年変化によって飴色から深い銀灰色へと美しいグラデーションを描いていた。
衣服や古い反物は少しずつ整理していたが、最下段の、最も深い引き出しだけは、建て付けが悪くなって引っかかっていたため、手付かずのままだったのだ。
真昼は床に膝をつき、最下段の真鍮の取っ手に両手をかけた。
――ギィィ……ガタタッ。
木と木が擦れ合う鈍い音を立てながら、慎重に力を込めて手前へと引く。
引き出しの中には、防虫用の樟脳の清々しい香りと共に、古い晒布に包まれたアルバムや、タエが愛用していた裁縫道具が几帳面に収められていた。
それらを丁寧に取り出し、空になった引き出しの奥へと指先を滑らせた、その時だった。
「……ん? これ……」
指先に、わずかな違和感が触れた。
底板の奥の合わせ目に、数ミリの段差がある。
軽く指の腹で押し上げてみると、薄い桐の板がペコリと音を立てて浮き上がった。
二重底だ。
板をそっと外すと、その暗がりの中に、紫色の縮緬の布で厳重に包まれた、小ぶりの四角い物体が収められていた。
真昼は息を呑み、両手でそれを持ち上げた。
ずっしりとした重み。
縮緬の結び目を解くと、中から現れたのは、藍色の布張りの表紙を持つ、一冊の古い日記帳だった。
布地は長年の歳月によって角が擦り切れていたが、大切に扱われていた証拠に、カビひとつ生えていない。
表紙をめくると、見返しには、万年筆の青いインクで、凛とした達筆な文字が記されていた。
『小鳥遊 タエ』
祖母の文字だった。
真昼の心臓が、トクンと小さく跳ね上がった。
パラパラと頁をめくっていく。
最初は、日々の畑仕事の記録や、味噌の仕込み具合、梅の収穫量といった、タエの素朴な暮らしの覚書だった。
だが――昭和五十二年の夏を迎えた頁で、突如として文字の熱量が跳ね上がっていた。
『昭和五十二年 七月十日。
裏山の奥より、涼やかなる風の吹き込むを覚ゆ。
納戸の奥の古き押し入れ、亡き祖父の遺した真鍮の鍵を差し込みたるに、カチリと澄みたる音して扉の開く。
驚くべきことかな。襖の奥には板壁あらず、見たることもなき巨木の茂る、青き森へと抜け出でたり。
森の木立の間に、小さき石の煙突を備えたる丸太の小屋を見出す。
ここは一体、いかなる神の庭なるや』
「…………っ!?」
真昼の手が、ガタガタと震え始めた。
昭和五十二年――今から半世紀近くも前。
タエが、まだ三十代半ばの若かりし頃の記録。
祖母もまた、自分とまったく同じように、あの真鍮の鍵を使って押し入れを開き、異世界の森と小屋へと足を踏み入れていたのだ。
真昼は息をするのも忘れ、吸い込まれるように頁をめくった。
『昭和五十二年 七月十五日。
小屋の前の広場にて、怪我を負いてうずくまる、美しき白き大狼に出会う。
その姿、まるで雪の精霊の如し。
恐れつつも、我が家に伝わる味噌にて仕込みたる熱き味噌汁と、握り飯を差し出したるに、大狼は静かにこれを食み、目を細めて喉を鳴らせり。
神の使いの如きその獣は、我が手より飯を受け取り、以後、毎朝小屋の前にて私を待つようになりぬ。
森の湧き水は甘露の如く清らかにして、木々の実る青き果実は、葡萄と林檎を合わせた如き芳香を放つ……』
「白き大狼……味噌汁を分かち合う……」
真昼の脳裏に、あの純白の毛並みを持つ神獣ベルの姿が、鮮烈にフラッシュバックした。
泥だらけで倒れていたベルに、一番出汁の卵雑炊を差し出したあの日。ベルが見せた、どこか懐かしむような、甘えるような仕草。
すべてが、一本の線で繋がっていく。
日記の記述は、数年間にわたって続いていた。
都会の親族との軋轢に悩み、心を痛めていた若き日のタエが、この押し入れの向こうの森で、どれほどその魂を救われていたかが、切々とした筆致で綴られている。
そして――日記の最後の頁。
昭和五十八年の秋の記述の末尾に、こう書き遺されていた。
『森の主は言えり。時が満ちれば、この扉は一度閉じ、再び真に心を休むべき者を迎えるであろう、と。
私はこの森の静けさと、あの白き獣の温もりに、生きる力を取り戻せり。
いつの日か、もし我が血を引く者の中に、世の荒波に揉まれ、心すり減らして泣く者ありせば――。
どうか、あの鍵を手に取り、扉を開かんことを。
このあたたかな食卓が、本当に心を休めたい誰かの居場所として、永遠に継がれゆかんことを、神に祈る』
「おばあちゃん……」
ぽたり、と。
日記の頁の上に、真昼の目から零れ落ちた大粒の涙が落ち、青いインクの文字を微かに滲ませた。
偶然ではなかったのだ。
会社を辞め、逃げるようにこの古民家に辿り着いたことも。
小箱の中から真鍮の鍵を見つけ出したことも。
すべては、かつて同じように傷つき、この森の食卓に救われた祖母タエが、時を越えて真昼のために遺してくれた――愛の導きだったのだ。
「ベルに見せなきゃ……!」
真昼は涙を手の甲で拭うと、藍色の日記帳を胸に抱きしめ、奥納戸の押し入れの襖を力いっぱい引き開けた。
***
森のログハウスは、夕暮れの穏やかな残光に包まれていた。
真昼がウッドデッキへと駆け出ると、日陰で丸くなっていた純白の毛玉――神獣ベルが、ピクリと耳を立てて跳ね起きた。
いつもの「おかえり」の挨拶をしようと駆け寄ってきたベルだったが、真昼の両手に抱えられた古い日記帳を目にした瞬間――。
「…………ッ!?」
ベルの足が、ピタリと止まった。
瑠璃色の瞳が、驚愕と、信じられないほどの動揺に大きく見開かれる。
ベルはそろり、そろりと、まるで壊れ物に近づくかのように、慎重に歩み寄ってきた。
真昼がデッキの上に膝をつき、胸元の縮緬と日記帳をそっと差し出す。
「ベル……これ、おばあちゃんの日記帳なの」
真昼の声が震えていた。
ベルは息を殺し、湿った小さな黒い鼻先を、擦り切れた藍色の布表紙へと近づけた。
ふん、ふん……と、何度も、何度も、吸い込むように匂いを嗅ぐ。
半世紀の時を越えてなお、微かに染み付いていた祖母タエの樟脳の匂いと、手前味噌の香気、そしてタエの魂の温もり。
「……くぅ……ん……」
次の瞬間。
ベルの喉の奥から、今までに真昼が一度も聞いたことのないような、甘やかで、切なくて、泣き出しそうな声が漏れ出た。
神獣の威厳など、そこには欠片もなかった。
ベルは日記帳の表紙に、自らの純白の頬をぐりぐりと押し当て、まるで長年離ればなれになっていた母の胸に飛び込む幼子のように、身体を激しく擦り付け始めたのだ。
前足で日記を抱きしめるようにして、真昼を見上げる。
その瑠璃色の瞳からは、キラリと光る雫が零れ落ちていた。
「くぅぅん……わふっ、わふ……!」
尻尾を千切れんばかりに高速で振り回しながら、ベルは真昼の膝の上へと飛び込んできた。
真昼の首元に前足を回し、ペロペロと涙の跡を舐め上げる。
『覚えているよ』と。
『あの優しい温もりを、忘れたことなど一度もなかった』と、神獣がその全身で叫んでいるようだった。
「ベル……あなた、本当におばあちゃんのこと知ってたのね……」
真昼はベルの温かい小さな身体をぎゅっと抱きしめ、日記帳を胸の間に挟んで、声を上げて泣いた。
祖母がこの森で過ごした日々。
ベルと共に分け合った味噌汁の湯気。
そして、自分が今、ジークフリートやクラウス、仲間たちと囲んでいるこの温かな食卓。
ふたつの世界の時を越えて、二代にわたる愛が、今、確かにひとつの輪となって繋がったのだ。
「おばあちゃん……ありがとう。私、この場所を絶対に守るよ。おばあちゃんが遺してくれたこの小屋と、ベルと……みんなの居場所を、私の命にかえても守り続けるからね」
夕暮れの森の風が、ふわりとウッドデッキを吹き抜けていく。
木々の葉がさらさらと擦れ合う音は、まるで「よく言ったね、真昼」と、天国のタエが優しく微笑んでいるかのようだった。
***
ひとしきり泣いて心が洗われた真昼は、ベルの頭を優しく撫で、立ち上がった。
時計を見れば、異世界の森もすっかり宵闇が迫り、心地よい夜風が吹き始めていた。
胸いっぱいに満ちた感謝と温もりを、形にしたい。
祖母タエへの供養として、そして今を生きる自分とベルの命を養うために――今夜は、タエが昔、暑い夏の夕暮れに決まって作ってくれた、あの懐かしい郷土の家庭料理を作ろうと心に決めた。
「ベル、今夜はおばあちゃんの味だよ。涼しくて、身体に染み渡るご飯を作ろうね」
「わふっ!」
真昼は押し入れゲートを往復し、現代の古民家から今夜の食材を調達してきた。
今夜の献立は、祖母直伝の『きゅうりとミョウガの浅漬け』。
そして、宮崎の郷土料理であり、タエが夏バテ予防に毎年仕込んでくれた、冷たい出汁と胡麻のハーモニー『冷や汁』だ。
「まずは、アジの干物を焼くところから!」
真昼はバルトが作ってくれた二連かまどの左側の火床に、細い薪をくべた。
黒鉄の天板の上に魚焼き網を据え、現代の鮮魚店で手に入れておいた、肉厚で脂ののった『真アジの天日干し』を二尾、乗せる。
――パチパチッ……ジュゥゥゥ……。
炭火のような遠火の強火。
アジの皮目がぷつぷつと泡を立て、香ばしい魚油の匂いが煙突へと吸い込まれていく。
じっくりと両面を焼き上げ、皮はパリッと、身はふっくらと黄金色に焼き上がったところで網から下ろす。
粗熱を取る間に、真昼は熱いアジの身を手早くほぐしていった。
小骨や皮、血合いを丁寧に取り除き、純白で脂ののった身だけを細かくほぐす。
そのうちの一握りを、味付けをする前に小皿へと取り分け、足元で待ちきれないように尻尾を振っていたベルの前へと置いた。
「はいベル、味付けしてないアジの身だよ。冷ましてあるから食べてね」
「わふぅぅん!」
ベルは嬉しそうに目を輝かせ、ハフハフと美味しそうに魚の身を平らげていく。
ここからが、冷や汁の真骨頂だった。
真昼は祖母の形見である、年季の入った大きな美濃焼の『すり鉢』と、山椒の木で作られたすりこぎを取り出した。
すり鉢の中に、フライパンで香ばしく乾煎りした『白いりごま』を、大さじ四杯分、どっさりと投入する。
――スリスリスリ、ゴリゴリゴリ……。
すりこぎを円を描くようにリズミカルに動かす。
パチパチと胡麻が弾け、外皮が擦り潰されるたびに、すり鉢から立ち上るのは――脳を痺れさせるほどに濃厚で、香ばしい胡麻の脂の薫香。
完全にペースト状になる一歩手前、半擂り(はんずり)の粗い粒が残る絶妙な状態まで擂り上げたところで、ほぐしておいたアジの身を投入。
さらにすりこぎでトントンと叩き、胡麻の油分と魚の繊維を一体化させていく。
そして、味の心臓部。
タエが遺してくれた、手前味噌――田舎味噌を大さじ三杯、すり鉢の底へ投入した。
味噌と胡麻、魚の身を、すりこぎで力強く練り合わせる。
茶褐色のねっとりとした味噌ペーストが完成したところで、真昼はすり鉢の内側の側面に、ヘラを使ってその味噌をペタペタと薄く塗り広げた。
「おばあちゃん直伝の、一番大事な一手間……!」
真昼はすり鉢を両手で持ち上げると、なんとそれを逆さまにし、かまどの直火の炎の上へとかざしたのだ。
――ジュワァァッ……パチパチッ!
炎の熱を直接浴びた味噌の表面が、チリチリと泡立ち、瞬く間に香ばしい黒茶色の焦げ目を纏っていく。
立ち上る焦がし味噌の匂い!
生味噌特有の尖った発酵臭が一瞬で消え去り、火で炙られることで生まれた香ばしいカラメル香が、夜のログハウスを満たしていく。
表面に美しい焼き目がついたところで火から離し、粗熱を取る。
その焦がし味噌のすり鉢へ、真昼は冷暗所でキンキンに冷やしておいた『利尻昆布と本枯節の水出し黄金出汁』を、少しずつ、少しずつ注ぎ入れていった。
すりこぎで丁寧に溶きのばす。
焦がし味噌と擂り胡麻、アジの旨味が、冷たい出汁の中に溶け合い、濁りのない美しい白濁した琥珀色の冷製スープが完成した。
そこへ、古民家の冷凍庫から運んできた角氷をカランと落とし、さらに温度を氷点下近くまで引き締める。
具材の下拵えも抜かりない。
木綿豆腐の一丁を清潔な布巾で包んで水気を切り、手で一口大にぽろぽろと崩して冷や汁の海へ投入。手で崩すことで断面に味が絡みやすくなる。
さらに、薄切りにして塩揉みし、水気をギューッと固く絞った『きゅうり』。
細かく刻んだ『ミョウガ』と、爽快な香気を放つ『大葉(青じそ)』をたっぷりと散らす。
仕上げに、箸休めの浅漬けだ。
乱切りにした瑞々しいきゅうりと、縦四等分に割ったミョウガをポリ袋に入れ、祖母直伝の塩昆布と少量の薄口醤油、ごま油を垂らして揉み込んでおく。
器に盛り付ければ、鮮やかな緑と紅が涼しげに映える『きゅうりとミョウガの浅漬け』の完成だ。
萬古焼の土鍋の蓋を開けると、ふっくらと炊き上がった『麦飯』が、湯気を立てて待っていた。
真昼は深めの大きな平茶碗に麦飯をよそい、大きなお盆の上に、氷の浮かぶ冷や汁のすり鉢、浅漬けの小鉢、そして木のお玉と塗り箸を並べた。
「おばあちゃん、いただきます」
真昼は手を合わせ、ウッドデッキの丸太テーブルへと料理を運んだ。
***
夜風が吹き抜けるウッドデッキ。
満天の星空の下、ランタンの灯りに照らされた食卓は、静かで、清らかで、息を呑むほど美しかった。
真昼はお玉を持ち上げ、氷の浮かぶ冷や汁をすくった。
すり鉢の底から、胡麻とアジのほぐし身、豆腐、そして緑のきゅうりと赤紫のミョウガが、たっぷりと持ち上がる。
それを――湯気を立てる温かい麦飯の上へと、惜しげもなく、豪快にぶっかけた!
――ザバァッ……トローリ。
熱い麦飯の上に、氷のように冷たい焦がし味噌の出汁が雪崩れ込む。
温と冷の衝突。
立ち上る蒸気とともに、爆発したのは――香ばしい焼き味噌と胡麻の、どこまでも深く、芳醇な大地の薫香だった。
真昼は箸をスプーンに持ち替え、出汁と具材、そして麦飯をざっくりと混ぜ合わせ、大口を開けてかっこんだ。
――ズズッ、ハフッ、シャキシャキッ!
刹那。
真昼の全身の毛穴が、心地よい快感にカッと開いた。
「…………っ! んん〜っ……!!」
冷たい。そして、信じられないほど美味い!
氷水で冷やされた出汁が、乾いた喉を滑り落ちていく爽快感。
直火で炙られた味噌の香ばしさと、丁寧に擂り潰された胡麻の濃厚なコク。そこに、アジの干物が持つ力強い野趣と塩気が重なり、単なる味噌汁とは次元の違う重層的な旨味となって舌を制圧する。
だが、決して重たくない。
塩揉みされたきゅうりのシャキシャキとした小気味よい歯ごたえと、手崩し豆腐の滑らかな舌触り。
そして何より、ミョウガと大葉が放つ鮮烈な清涼感が、魚の脂を完璧に洗い流し、驚くほど後味を爽やかに引き締めている。
温かい麦飯のぷちぷちとした弾力が、冷たい出汁をぐんぐんと吸い込み、噛むほどに米本来の甘みが溢れ出してくる。
合間に、きゅうりとミョウガの浅漬けを一切れ口へ。
――ポリッ、サクッ。
昆布の旨味を含んだ浅漬けの、キリッとした塩気と瑞々しさ。
口の中が一瞬でリセットされ、再び冷や汁をかき込む手が止まらなくなる。
ズズッ、ズズズッ!
スプーンを動かすたび、身体の中に籠もっていた熱気がすうっと引いていき、五臓六腑が清らかな滋養で満たされていくのが分かった。
「……美味しい……おばあちゃんの味だ……」
最後の一粒、最後の一滴の出汁まで椀を傾けて飲み干した真昼は、器を置き、ふぅ……と長くて温かな息を吐き出した。
胃袋は満たされ、身体は軽やかで、胸の奥底には確かな力が満ち溢れていた。
足元では、アジの身と鰹節を堪能したベルが、真昼の足首に顎を乗せ、満足そうに目を細めていた。
テーブルの端に置かれた、祖母の古い日記帳。
夜風がその頁をぱらりとめくり、あの最後の言葉を揺らす。
『このあたたかな食卓が、本当に心を休めたい誰かの居場所として、永遠に継がれゆかんことを――』
真昼は夜空を見上げた。
青白い満月が、深い森の木々を白銀に照らし出している。
明日の朝もまた、押し入れを開ければ、薪を割る乾いた音が響き、白エプロンを着けたジークフリートが待っているだろう。
甘党のクラウスがスコーンを求めて駆け込み、頑固なバルトがかまどの火を自慢し、ヨハンが大盛りの白米に歓声を上げるだろう。
祖母タエが愛し、守り、そして自分へと託してくれた、このふたつの世界を繋ぐ食卓。
「おばあちゃん、見ててね」
真昼は日記帳の布表紙を、愛おしそうにそっと掌で撫でた。
「私も、ここで大切な人たちと一緒に、前を向いて生きていくから。誰にもこの場所を壊させないし、ずっとずっと、温かいご飯を作り続けるからね」
ベルが真昼の決意に応えるように、「わふっ」と誇らしげに短く一声鳴いた。
初夏の夜風が、ふたつの世界の境界を優しく撫でていく。
二代にわたって受け継がれたあたたかな朝餉の記憶は、確かな希望の光となって、真昼の未来をどこまでも明るく照らし出していたのだった。




