第30話:書類に走る万年筆と、絶対不可侵の聖域
深い森を渡る初夏の風が、ナラのウッドデッキの木肌をさらさらと撫でていく。
大粒の涙をぼろぼろと零し、肩を震わせて泣きじゃくっていた男――オズヴァルトは、真昼から手渡された藍染めの木綿の手ぬぐいで目元を何度も丁寧に押さえ、ようやく荒い呼吸を整えつつあった。
三十四歳。シルヴァ辺境伯領のすべての予算を冷徹に司るエリート財務官の顔には、もはや「血も涙もない歩く計算機」と恐れられたあの冷淡な仮面はどこにも残っていなかった。
丸太のテーブルの上には、最後の一滴、米粒ひとつ残さず綺麗に空になった萩焼の木椀と平鉢。
生姜の効いた鶏団子の滋味と、出汁を吸ったとろとろの白粥、そして五年熟成の南高梅が放つまろやかな酸味が、彼の焼けただれていた胃粘膜を奇跡のように修復し、冷え切っていた全身に温かな血潮を巡らせていた。
「……ふぅ……」
オズヴァルトは長く、深い息を吐き出した。
手ぬぐいを膝の上で几帳面に四つ折りに畳み直すと、外されていた細身の銀縁眼鏡を震える指先で拾い上げ、埃を拭って再び耳へと掛けた。
レンズの奥の灰色の瞳は、先ほどまでの激痛と猜疑心に濁っていた光が嘘のように澄み渡り、そこには穏やかで、どこか憑き物が落ちたような深い静寂が宿っていた。
「……失態を……晒しました。真昼殿」
低く、だが先ほどの掠れ声とは打って変わって、よく通る落ち着いた声音。
「見ず知らずの行き倒れに対し……これほどの手間と心を尽くした料理を施していただくとは。……何とお礼を申し上げればよいか、言葉も見つかりません」
「ううん、気にしないでください。お腹が空いていて、胃が痛かったら、誰だって心細くなりますよ。……少しは、身体が楽になりましたか?」
「ええ。……嘘のように、胃の激痛が消え去りました。何ヶ月もの間、常にみぞおちを灼熱の鉄で焼かれているようだった痛みが……まるで春の陽光を浴びた残雪のように、綺麗に溶けてなくなってしまった。……このような奇跡は、王都の高位治癒魔導士の施術ですら経験したことがありません」
オズヴァルトは自らの平らな腹部にそっと掌を当て、噛み締めるように呟いた。
真昼はその様子を見て、ほっと胸を撫で下ろした。
過労死寸前の限界OLだったかつての自分。そして、胃痛に苦しんでいたジークフリート。彼らと同じ痛みを抱えていたこの堅物の官吏が、自分の料理で少しでも救われたのなら、これ以上の喜びはなかった。
「よかったです。……あ、そうだ。胃が落ち着いたなら、食後のお茶にしましょうか。昨日、街の先輩のお店からいただいた、すごく良い甘味があるんですよ」
「甘味……ですか?」
オズヴァルトが怪訝そうに眉を動かすのを見届け、真昼はくるりと踵を返し、ログハウスの台所へと小走りで向かった。
***
キッチンに戻った真昼は、まず萬古焼の急須に『ほうじ茶』の茶葉をたっぷりと入れた。
黒鉄のかまどで沸かしておいた、精霊の湧き水の熱湯を一気に注ぎ入れる。
シュンシュンと立ち上る蒸気とともに、台所いっぱいに広がるのは、茶葉の香ばしい焙煎香。緑茶とは違い、炒ることでカフェインやタンニンが抑えられているため、病み上がりの胃腸にも一切の負担をかけない、食後に最適の優しいお茶だ。
そして、床下の冷暗所に保管していた木箱から、ひとつの竹皮の包みを取り出した。
昨日、カフェ『野良時計』の店主・聡美から「これ、試作してみたから真昼ちゃんも食べてみて!」と持たされた、特製のおすそ分け。
包みを開くと、そこには息を呑むほど美しい、涼やかな和菓子が鎮座していた。
――ルミナスベリーの水羊羹。
森の深部で採れる規格外の芳香を持つ青い果実、ルミナスベリー。
その果汁を丁寧に搾り出し、北海道産の極上白小豆から作った滑らかな白こし餡と、寒天、そして少量の氷砂糖とともに、弱火で丹念に練り上げて冷やし固めた逸品だった。
透明感のある深い青紫色。
朝の光を吸い込んで、まるで磨き上げられたサファイアのように艶やかに光を反射している。表面には微かな水滴が宿り、見ているだけで喉の渇きを癒やしてくれるような清涼感。
真昼は三徳包丁を水で濡らし、竹皮の上で直方体に美しく切り分けた。
青磁の小皿に一切れずつ乗せ、小さな黒文字の楊枝を添える。
「オズヴァルトさん、お待たせしました」
真昼は、湯気を立てるほうじ茶の湯呑みと、サファイア色の水羊羹の小皿をお盆に乗せてウッドデッキへと運んだ。
***
「……これは……水菓子、でしょうか」
テーブルの上に置かれた青磁の小皿を見つめ、オズヴァルトは思わず身を乗り出した。
皿の上で、ぷるん、と微かに身を揺らす濃紺の塊。
王都の貴族たちが好む、過剰な砂糖と乳脂肪で固められた重たい焼き菓子や、どぎつい着色料のゼリーとはまるで違う。
素材そのものが放つ、奥深く静謐な美しさ。
添えられた黒文字を手に取り、水羊羹の角へとそっと刃を入れる。
――スッ……。
吸い込まれるように、何の抵抗もなく羊羹が切り分けられた。寒天の絶妙な配合比率によって、形を保ちながらも極限まで水分を含んだ、みずみずしい断面。
オズヴァルトは一切れをすくい上げ、口の中へと運んだ。
――ツルン……トロン……。
「……………………ッ!?」
オズヴァルトの全身が、微かに跳ね上がった。
舌の上に乗った刹那、水羊羹は体温で解けるように、驚くほど滑らかな水気となって口いっぱいに広がっていった。
まず訪れたのは、白小豆のこし餡が持つ、極限まで上品で優しい甘み。舌の上に嫌なザラつきなど微塵も残らない、絹のように洗練された漉し具合。
だが――その直後に訪れた衝撃は、彼の味覚の常識を遥か彼方へと吹き飛ばした。
餡の甘みの奥から、突如として湧き上がってきたのは――まるで最高峰のマスカットと野生の野いちごを丸ごと絞り込んだかのような、信じられないほど澄み切った、高貴な芳香だったのだ。
(な……何だ、この果実の香気は……!? 甘いのに、重くない……! 清流のように澄んだ酸味が、舌の上を一瞬で駆け抜けていく……!)
喉を通る瞬間、ひんやりとした冷涼感が食道を潤し、頭の奥底の疲労物質がさらさらと洗い流されていくような錯覚すら覚える。
すかさず、温かい湯呑みを両手で持ち上げ、熱いほうじ茶を一口含む。
――ず、ずずっ……。
香ばしい茶葉の熱気と焙煎香が、口内に残っていた果実の余韻を優しく包み込み、えも言われぬ深い安らぎとなって胸の奥へと落ちていく。
冷たい甘みと、熱く香ばしい茶。
完璧極まりない調和に、オズヴァルトの表情は、完全に蕩けきっていた。
「……あぁ……美味い……。何という、洗練された味だ……。脳の芯が、蕩けてしまいそうだ……」
眼鏡を少しだけ指で押し上げ、夢中になって二口目、三口目へと黒文字を運ぶオズヴァルト。
かつて「血も涙もない計算機」と呼ばれた冷血の財務官が、今やウッドデッキの木漏れ日の中で、至福の笑みを浮かべて和菓子を頬張っている。
――まさに、その時だった。
――ドォォォォォンッッッッ!!
静かな森の大気を引き裂くように、凄まじい地響きと衝撃音が轟いた。
木々が一斉に激しく揺れ、鳥たちが悲鳴を上げて飛び去っていく。
ウッドデッキの階段の木材が軋む音とともに、風を巻き起こして広場へ突入してきたのは――。
「真昼ッッ!! 無事かッッ!!」
大気を震わせるほどの怒号。
現れたのは、白銀の甲冑の胸当てを外した活動服姿のまま、そして――なぜかその上から、糊のきいた真っ白なリネンエプロンをきっちりと身につけた、シルヴァ辺境警備騎士団長ジークフリート・フォン・ヘスラーだった。
その金糸の髪は乱れ、青氷の瞳には鬼気迫る殺気が渦巻いている。
腰に佩いた大剣の柄を固く握りしめ、まるで戦場で行方不明になった我が子を救出するかのような猛烈な形相で、ウッドデッキへと飛び込んできたのだ。
「オズヴァルトが単身で森へ向かったとの急報を受けた! あの堅物が嗅ぎ回っていると知れば、貴殿にどのような危害が及ぶか――ッ! オズヴァルト! 真昼に一指でも触れようというなら、財務官とて容赦は――」
抜刀しかけたジークフリートの白銀の大剣が。
空中で、ピタリと止まった。
「……………………は?」
ジークフリートの口から、間抜け極まりない掠れ声が漏れた。
青氷の瞳が、限界まで見開かれる。
そこに広がっていた光景は、彼が想定していた「悪辣な財務官による尋問と糾弾」などでは断じてなかった。
丸太のテーブルの前。
綺麗に空っぽになり、ピカピカに舐め尽くされたかのような萩焼の木椀と平鉢。
その横で、膝の上に泥除けの手ぬぐいを几帳面に敷き、青磁の小皿からサファイア色の水羊羹を黒文字で優雅に口に運びながら、熱いほうじ茶の湯呑みを両手で愛おしそうに包み込んで、ほっこりと蕩けた笑みを浮かべている――我が天敵たる財務官、オズヴァルト・ハインツの姿だった。
「……え……?」
ジークフリートの思考が、激しい火花を散らして完全にフリーズした。
抜刀しかけた大剣の切っ先が、中途半端な位置でプルプルと震えている。
白エプロンをつけた騎士団長と、眼鏡をかけた堅物財務官の視線が、真正面から激突した。
「……おや、ジークフリート殿」
オズヴァルトは至極穏やかな、まるで王都のサロンでお茶会を楽しんでいるかのような上品な手つきで、ほうじ茶をずずっと一口啜った。
「息を切らして、ずいぶんと騒々しいお出ましですね。……それに、何ですかその格好は。騎士団長たる者が、胸当ての上にそのような真っ白な前掛けを着けて抜刀するなど……規律の乱れも甚だしいですよ」
「なっ……貴様ッ!? な、何を……貴様、ここで何をしているのだッ!?」
ジークフリートは怒りと混乱のあまり、顔を真っ赤にして叫んだ。
「貴様、真昼を不法占拠や密輸の罪で告発しに来たのではなかったのか!? 砦の資材横領を追及し、この小屋を接収しようと企んでいたのではないのかッ!? それが……なぜ、そんな穏やかな顔で茶をしばいているッ!?」
「茶をしばく、とは下品な物言いですね」
オズヴァルトは冷淡に眼鏡を押し上げると、残りの水羊羹を黒文字で切り、一口でパクリと口に含んだ。
そして、ふぅ……と至福の吐息を漏らしながら、空になった小皿を愛おしそうに眺めた。
「確かに、ここへ来るまではそう考えていましたよ。……だが、真昼殿のこの一杯の生姜の効いた鶏団子スープと、梅がゆ……そしてこの天上の水菓子を口にした今、私の結論は完全に覆りました」
「……は?」
「ジークフリート殿。あなたは、無能だ」
ピシャリと、オズヴァルトの容赦ない舌鋒が炸裂した。
「な、何だと貴様ッ!?」
「これほどの……国家の宝とも呼ぶべき至高の料理人を、ただの『森の掘っ立て小屋』に放置し、正規の法的手続きも取らず、薪割りと前掛け姿で満足していたとは……! もし王都の査察使や中央の貴族どもにこの場所が見つかれば、一瞬で真昼殿は連れ去られ、騎士団は資材横領の罪で取り潰されていたのですよ! 危機管理能力が絶望的に欠如していると言わざるを得ません!」
「ぐっ……そ、それは……」
図星を突かれ、ジークフリートがぐうの音も出ずに言葉を詰まらせる。
そこへ、足元で丸くなっていたベルが「まったくその通りだ」とでも言いたげに、短く「わふ」と鼻を鳴らした。
***
「……真昼殿」
オズヴァルトは椅子から立ち上がると、散らばっていた黒い革鞄を拾い上げ、埃を払った。
そして、中から取り出したのは――厚手の真っ白な最高級羊皮紙の束、黒光りする真鍮の万年筆、そしてシルヴァ辺境伯領財務部の公式刻印だった。
オズヴァルトの表情が、一瞬にしてプロの財務官の鋭利なものへと切り替わる。
彼は丸太テーブルの上に羊皮紙を叩きつけるように広げると、万年筆のキャップを外した。
――カリカリカリカリカリッッッ!!
凄まじい筆圧。
静かな森のウッドデッキに、猛烈な勢いでペン先が羊皮紙を削る音が鳴り響いた。
インクを吸ったペン先が、流麗かつ厳格な公式書体で、驚くべき速さで条文を刻み込んでいく。
「お、オズヴァルトさん……? 何を書いてるんですか……?」
真昼が恐る恐る尋ねると、オズヴァルトは顔も上げずに、滑らかに口を動かした。
「公文書の作成です。……標題『シルヴァ辺境伯領・第十七号特別保全区指定令』」
「とくべつ……ほぜんく?」
「そうだ」
オズヴァルトは万年筆を走らせながら、早口で淀みなく解説を続けた。
「此度のバルトによる資材の持ち出し、ならびにジークフリート殿らの労働奉仕を、すべて『領主直轄による防衛重要拠点の設営』として追認・処理する。……名目は『過酷な辺境任務に従事する騎士団員の極度の肉体疲労を緩和し、精神安定および士気高揚を図るための、領内唯一の【辺境警備特別保全補給拠点】』だ」
「……へ?」
「つまりだ、真昼殿!」
オズヴァルトは顔を上げ、眼鏡の奥の灰色の瞳をギラリと燃え上がらせた。
「このログハウス、ならびに周囲半径一キロメートルの森林区域は、本日ただいまを以て、シルヴァ辺境伯領財務部直轄の『絶対不可侵特区』に指定された! 領主の直接命令以外の立ち入りを一切禁じ、中央貴族や王都の査察使であっても、私の許可なき臨検は領内法第十四条違反として即座に身柄を拘束する法的根拠を付与したのだ!」
――ガチャンッッッ!!
オズヴァルトは羊皮紙の末尾に、真紅の封蝋を落とすと、懐から取り出した重厚な財務部の公印を、全体重を込めて叩きつけた。
朱色の鮮やかな紋章が、羊皮紙の上に焼き付けられる。
完璧な法的防壁。
一分の隙もない、辺境伯領最高峰の頭脳が編み出した、国家機密指定の公式公文書。
「ジークフリート殿」
オズヴァルトは出来立ての書類をバッと掲げ、呆然と立ち尽くす騎士団長を冷徹に見据えた。
「これで、中央の査察使がどれほど嗅ぎ回ろうと、ここは完全に守られる。……ここを密輸や横領などと断じる中央の輩がいれば、私が領の予算と法律の壁で叩き潰して差し上げましょう。税務監査のメスを王都の奴らの実家に突き立てて、二度と辺境に口出しできぬよう破滅させてやりますよ」
「お、お前……そこまでやるのか……」
「当然です」
オズヴァルトは冷笑を浮かべ、それから――真昼に向き直ると、深々と、直角に腰を折った。
その声音には、先ほどの冷酷さなど微塵もない、心底からの敬意と忠誠が満ちていた。
「真昼殿。あなたのその料理の腕と、この清らかな食卓は……過労で崩壊寸前だった辺境警備騎士団を、そして私自身の命を救ってくれた。……この場所は、領の存続に関わる国家機密そのものです。このオズヴァルトが、命と誇りにかけて、全力で守り抜くことをお誓い申し上げます」
「あ、ありがとうございます……! すごく心強いです……!」
真昼が目を丸くしながら頭を下げると、オズヴァルトは満足そうに眼鏡を押し上げ、居住まいを正した。
そして、空になった萩焼の器を見つめ、蚊の鳴くような小さな声で、ぽつりと付け足したのだ。
「……ついては、真昼殿。……私も、週に三度ほど、帳簿の点検の合間にここへ立ち寄ることをお許し願いたい。……あの鶏団子のスープと、梅の粥を……再び所望したいのだが」
「ふふっ、もちろんですよ! オズヴァルトさんの胃腸の調子に合わせて、いつでも優しいご飯を作りますからね!」
真昼が満面の笑みで頷くと、オズヴァルトの青白かった頬が、ほんのりと赤く染まり、安堵のため息を漏らした。
その様子を横で見ていたジークフリートが、エプロンの胸元をギリッと握りしめ、青氷の瞳を細めて低く唸る。
「……おい、オズヴァルト。貴様、職権乱用で真昼の朝食に割り込む気か」
「職権乱用とは聞き捨てなりませんね、ジークフリート殿。私は保全拠点の『定期査察』を行うだけです。……それより団長、その白エプロンはいつまで着けているおつもりですか? 似合ってはいますが、あまりに滑稽ですよ」
「なっ……貴様ッ!!」
火花を散らす騎士団長と財務官。
だが、その言い争いには、以前のような殺伐とした険悪さはどこにもなかった。
足元では、真昼から削りたての鰹節をもらったベルが、男たちの足元をすり抜け、ウッドデッキの日だまりで満足そうにあくびをひとつ。
木漏れ日が揺れる、初夏の森の小さなログハウス。
力で守る騎士団長と鍛冶師に加え、法と予算で守る最強の「政治的盾」を手に入れた朝。
ふたつの世界を結ぶあたたかな食卓は、誰にも侵すことのできない絶対の聖域として、より深く、より盤石に、その根を大地へと下ろしていたのだった。




