第28話:限界財務官の崩壊と、足元のアクシデント
――ドサリッッ!!
ナラの厚板で組まれた頑丈なウッドデッキの上に、鈍く重い衝撃音が響き渡った。
抱えられていた黒い革製の書類鞄が手元から弾け飛び、真鍮の留め金が外れて、中から監査用の真っ白な羊皮紙の束がバラバラと宙を舞う。初夏の爽やかな風に煽られた書類が、白銀に磨かれた床板の上を滑るように散らばっていった。
その紙吹雪の中心に、長身の男が、まるで操り糸を断ち切られた人形のように前のめりで崩れ落ちていた。
「きゃあああっ!? ち、ちょっと、大丈夫ですか!?」
手にした耐熱ガラスのピッチャーを危うく取り落としそうになりながら、真昼は悲鳴を上げて駆け寄った。
テーブルの上では、注がれたばかりの水出し麦茶のグラスが、氷をカランと鳴らして小さく揺れている。
足元にいた神獣ベルは、不審者の乱入に一瞬「グルルッ」と喉の奥から威嚇の唸り声を漏らしかけたものの、倒れ伏した男のあまりの無防備さと、その全身から立ち上る濃厚な「死の気配」に気づいたのか、ピタリと牙を引っ込めた。
尖った白い耳をパタパタと動かし、瑠璃色の瞳に困惑と心配の色を浮かべながら、トコトコと真昼の足元へと寄り添ってくる。
「う、嘘でしょ……!? 血は出てない……? 息は……!?」
真昼は泥だらけのウッドデッキの上に躊躇なく膝をつき、倒れ込んだ男の肩に手をかけた。
ずっしりとした成人男性の骨格。
黒いスーツ風の官服は、険しい森の茨を強引に突破してきたせいで至る所が引き裂かれ、泥水と木のヤニで無残に汚れていた。
仰向けに抱き起こそうとした瞬間、真昼の指先に伝わってきたのは、初夏の陽気とはあまりにもかけ離れた、まるで冬の氷塊のような「異常な冷たさ」だった。
「ひっ……冷たい……!」
男の顔面は、土気色を通り越して、死人のように鉛色に淀んでいた。
細身の銀縁眼鏡は衝撃で歪んで片耳から外れかけており、その奥の瞼は固く閉じられている。
額からこめかみにかけて、大粒の脂汗が滝のように滲み出て、乱れた黒髪をべったりと肌に張り付かせていた。
そして何よりも痛々しかったのは、その体勢だった。
男は意識を失っていながらも、両手を自らのみぞおち――胃袋のあたりへと万力のような力で押し当て、まるで海老のように身体を極限まで丸め、小刻みにガタガタと全身を痙攣させていたのだ。
「……う、あ……っ……ぐ……ぅ……っ」
白くひび割れた唇の隙間から、途切れ途切れの、苦悶の呼気が漏れ出る。
浅く、速く、喉の奥がヒューヒューと乾いた音を立てて鳴っている。
脈を確かめようと手首に触れると、皮膚は氷水のように冷え切っているのに、脈拍だけが狂った警鐘のように恐ろしい早さで乱れ打っていた。
「これ……胃痙攣だ……!」
真昼の背筋に、冷たい戦慄が走った。
見覚えがありすぎる。
かつて都内の中堅商社で、連日の深夜残業と上司からの怒号に晒され、自律神経を完全に破壊された真昼自身が、幾度となくオフィスの給湯室や駅のトイレで経験した、あの地獄の激痛そのものだった。
過度のストレスによる自律神経の失調。
激しい胃酸過多による胃粘膜の自壊。
そして、何日もまともな食事を口にせず、睡眠を極限まで削った肉体に、不慣れな長距離歩行という激しい肉体的負荷が加わったことで、内臓の神経が一気に暴走を起こしたのだ。
(放っておいたら、胃穿孔を起こして本当に命に関わる……! 早く、早くなんとかしなきゃ!)
「ベル、手伝って! この人を日陰のベンチまで運ぶよ!」
「わふっ!」
ベルが真昼の意図を察し、倒れた男の官服の裾を小さな口でくわえて引っ張る仕草を見せた。
神獣の微かな加護が働いたのか、真昼がか弱腕で男の脇の下に手を差し入れて引き上げると、見かけの体格よりもふわりと軽く感じられた。
とはいえ、大柄な成人男性の質量であることに変わりはない。
真昼は奥歯を噛み締め、ナラの床板を滑らせるようにして、男をテーブル脇の大きな丸太ベンチへと引き上げた。
木漏れ日が遮られた、涼しい日陰の特等席。
古民家から持参していた清潔な木綿の掛け布を丸めて枕代わりに頭の下へ差し入れ、仰向けに寝かせる。
「まずは……呼吸を楽にしなきゃ」
真昼は手早く男の胸元へと手を伸ばした。
几帳面すぎるほどきつく結ばれていたネクタイの結び目を緩め、官服の第一ボタン、第二ボタンを外す。
さらに、泥で固まった黒革靴の靴紐を解き、窮屈な革靴を脱がせて、血行が滞っていた足先を解放した。
首元が広がり、新鮮な森の空気が肺腑へと通りやすくなったことで、男の荒い呼吸が、ほんのわずかだけ落ち着きを取り戻す。
「……う……ぁ……領主……への……反逆……を……っ」
うわ言のように、男の唇が微かに動いた。
意識が混濁した闇の底にあってなお、この男は自らの「任務」と「責任」に縛り付けられているらしかった。
眉間には、消えることのない深い皺が刻まれている。
その痛々しい横顔を見つめながら、真昼は胸の奥をぎゅっと鷲掴みにされるような痛みを覚えていた。
「……あなたも、限界まで頑張りすぎちゃったんだね」
真昼はそっと呟いた。
誰なのかは分からない。けれど、この擦り切れた官服と、抱えていた大量の帳簿や羊皮紙を見れば想像がついた。
この人もまた、ジークフリートやクラウスと同じなのだ。
誰にも弱音を吐けず、誰にも頼れず、理不尽な重圧と数字の責任をたった一人で背負い込み、自分の身体が壊れる瞬間まで走り続けてしまった、不器用で哀しい人間なのだ。
***
「くぅん……?」
ベンチの横に前足をかけ、ベルが心配そうに男の顔を覗き込んでいる。
テーブルの上には、先ほど真昼が淹れたばかりの水出し麦茶があった。
ガラスの器の表面には冷たい水滴が光り、透明な角氷がカランと涼やかな音を立てている。
喉がカラカラに渇いているはずの行き倒れの人間を見れば、誰もが真っ先にその冷たい麦茶を口に含ませたくなるだろう。
――だが、真昼は決してそれに手を伸ばさなかった。
(ダメ。今のこの人に、冷たいものを飲ませたら絶対にダメ……!)
元・胃痛持ちとしての知識が、真昼の脳内で警鐘を鳴らしていた。
冷やしうどんの時のように、熱中症で身体が火照っている状態であれば、冷たい食事は救いになる。
だが、今のこの男は違う。
胃痙攣を起こし、血の気が引いて四肢が氷のように冷え切っている人間に、キンキンに冷えた氷水を流し込んだらどうなるか。
急激な温度差によって胃壁の血管がさらに激しく収縮し、激痛は悪化し、最悪の場合は激しい嘔吐を引き起こして呼吸困難に陥ってしまう。
(必要なのは、刺激のない、ぬるい温もり。……内臓を優しく温めて、こわばった筋肉をほどくもの……)
「白湯だ……!」
真昼は決然と立ち上がり、ログハウスのキッチンへと走った。
バルトが組み上げてくれた『石造り二連かまど』。
右側の火床には、朝の調理の余熱がまだしっかりと残っており、灰の下でナラの薪が赤い熾火となって静かに息づいていた。
真昼は真新しい火吹き竹を手に取り、熾火の隙間へとふーっと息を吹き込んだ。
パチッ、と火の粉が爆ぜ、熾火が鮮やかな紅蓮の輝きを取り戻す。
細く割った乾燥薪を二本くべると、吸気口から清らかな風が吸い込まれ、あっという間に穏やかな、だが力強い弱火が立ち上がった。
黒鉄の天板の上に置いたのは、肉厚のステンレス製大容量やかん。
中には、ジークフリートが今朝一番に源流から汲んできてくれた、あの不純物の一切ない「精霊の湧き水」が満たされている。
「ただのお湯じゃなくて……ちゃんと、完璧な白湯を作らなきゃ」
白湯とは、単に水を温めただけの「お湯」ではない。
水を強火で一気に沸騰させ、そこから蓋をずらして湯気を逃がしながら、弱火で十分から十五分ほどコトコトと煮立たせ続ける。
そうすることで、水の中に含まれる微細なガスや余分なカルキ分(この世界の湧き水にはカルキはないが、微細な空気のトゲ)が完全に抜け、水の分子が細かく整い、角の取れた驚くほどまろやかで甘い「白湯」へと昇華するのだ。
やかんの口から、シュンシュンと細い湯気が立ち上り始めた。
真昼はやかんの蓋を少しだけ斜めにずらし、蒸気を逃がしながら、火の番を続けた。
コトコト、コトコト……。
静かな沸騰音が、ログハウスの台所に響く。
黒鉄のかまどの熱が、真昼の割烹着越しにじんわりと伝わってくる。
焦る気持ちを抑え、時間をかけて、丁寧に。
誰かの強張った内臓を救うための、最も原始的で、最も優しい「手当て」。
十二分が経過したところで、真昼は火床の吸気弁を閉め、やかんを火から下ろした。
食器棚から取り出したのは、祖母タエの形見の、厚手の萩焼の湯呑み茶碗。
ぽってりとした土の温もりを持つ器に、沸かしたての熱湯をトトト……と八分目まで注ぎ入れる。
立ち上る湯気は、何の香りもしない。
出汁の匂いも、茶葉の香りも、果実の甘みもない。
ただ純粋な、極限まで澄み切った大地の水の蒸気。
「ここから……人肌より少し温かい、五十度くらいまで冷ます……」
熱湯をそのまま飲ませては、ただでさえ荒れ果てた食道を火傷させてしまう。
真昼は別の空の湯呑みを用意し、高い位置からトトト……と湯を移し替えた。
湯呑みから湯呑みへ。
空気に触れさせながら、交互にゆっくりと湯を行き来させる。
湯気が少しずつ穏やかになり、器を素手で包み込んだときに「心地よい温かさ」を感じる温度――。
手のひらに伝わる、まるで生まれたての赤ん坊の体温のような、柔らかく角のない温もり。
「よし……これなら、絶対に胃を驚かせない」
真昼は木製の小さなスプーンを添え、湯呑みを両手で大切に抱えて、ウッドデッキへと戻った。
***
ウッドデッキの日陰では、男が依然として浅い呼吸を繰り返していた。
額の汗は少し引き始めていたが、唇は乾燥して血色を失い、みぞおちを押さえる手の力は緩んでいない。
「……聞こえますか? ちょっとだけ、起きてください」
真昼はベンチの横に膝をつき、男の肩を優しく揺すった。
そして、男の背中にそっと右腕を回し、上体をゆっくりと抱き起こす。
男の頭が、真昼の肩口へと力なくもたれかかった。
大人の男性の重み。だが、その身体は驚くほど骨ばっており、日頃の過酷な激務と栄養不足を痛々しいほど物語っていた。
「……う……ん……」
微かな呻きとともに、男の長い睫毛が震えた。
重たげな瞼が、わずかに数ミリだけ押し上げられる。
歪んだ眼鏡の奥、濁った灰色の瞳が、ぼんやりと光を捉えようと彷徨っていた。
視界の端に映るのは、新緑の木漏れ日。
そして――至近距離で自分を支えている、見知らぬ黒髪の娘の、真剣で優しい横顔。
「……な……に……を……」
掠れた、今にも途切れそうな声。
警戒しようと、男の右手が微かに動いた。だが、指先には力が入らず、真昼の割烹着の裾を弱々しく擦るのが精一杯だった。
「喋らなくていいですよ。胃が激しい痙攣を起こしてるんです。……今、急に冷たいものや固いものを食べたら危ないですから、この温かいお湯を、少しずつ飲んでください」
真昼の声は、どこまでも穏やかで、静かだった。
都会にいた頃、誰も自分にかけてくれなかった、心底からの労わりの響き。
真昼は湯呑みから木のスプーンで人肌の白湯をひとすくいすると、男の渇ききった唇へとそっと運んだ。
「はい、ゆっくり……少しずつですよ」
唇に触れた、柔らかな木のスプーンの感触。
そして、そこから零れ落ちてきた――温かい、一筋の雫。
「…………っ」
男の喉仏が、反射的に小さく動いた。
乾ききっていた口腔内に、温もりが広がる。
味など、何もない。
塩気も、甘みも、出汁の旨味すらもない、ただの水。
――だが。
それは、男がこれまで口にしてきたどんな液体とも、根本から異なっていた。
(……温、かい……?)
スプーン一杯の白湯が、喉の奥を滑り落ちていく。
棘が一切ない。
まるで絹の布のように滑らかで、角が完全に削ぎ落とされた温かい水分が、焼けただれたように乾いていた食道の粘膜を、優しく、慈しむように潤していく。
そして、胃の腑へと届いた瞬間――。
――ジュワッ……。
男の全身が、微かに震えた。
氷のように硬くこわばり、内側から激しく痙攣していた胃袋の壁に、じんわりと、確かな温もりの波が染み渡っていったのだ。
まるで、凍てつく冬の吹雪の中で死にかけていた身体に、そっと小さな焚き火の温もりを差し入れられたかのような感覚。
痛みが、引いていく。
万力のように締め上げられていた内臓の筋肉が、温かい湯気に包まれるようにして、ほんのわずか、ふわりと緩んだ。
「……ごく……っ」
男の喉が、自らの意志で動き始めた。
もっと欲しいと、身体の奥底に眠る生命の本能が叫んでいた。
「ふふ、焦らないで。もう一口どうぞ」
真昼は二杯目、三杯目と、丁寧にスプーンで白湯を運んでいく。
四杯目を飲み終えたところで、真昼はスプーンを置き、湯呑みの縁を直接男の唇へとあてがった。
男は震える両手を添え、陶器の温もりにすがるようにして、人肌の白湯をゆっくりと、一口、また一口と喉へと流し込んでいった。
ず、ずず……。
静かな森のテラスに、男が湯を啜るかすかな音だけが響く。
一杯の白湯をすべて飲み干した瞬間――。
「……はぁぁ……っ……」
男の口から、魂が抜けるような、深くて長い安堵のため息が零れ落ちた。
みぞおちを押さえつけていた手の力が、完全に抜け、ベンチの床板へと力なく落ちる。
鉛色だった頬に、わずかに血色が戻り始めていた。
「……落ち着きましたか?」
真昼が優しく問いかけると、男の灰色の瞳が、ゆっくりと焦点を結んだ。
歪んでいた眼鏡の奥で、知性の光が微かに蘇る。
男――シルヴァ辺境伯領財務官オズヴァルトは、自分が平民の娘の腕の中に抱き抱えられ、介抱されているという事実に、ようやく気づいたようだった。
その顔が、驚愕と、屈辱と、そして隠しきれない羞恥によって、みるみるうちに耳の付け根まで朱に染まっていく。
「……あ……貴様……私を……何を……っ」
掠れた声を絞り出し、真昼の腕から逃れようと身じろぎするオズヴァルト。
だが、長年の過労と激しい胃痙攣を乗り越えたばかりの肉体は、鉛のように重く、指先ひとつ思うように動かせない。
ジタバタと無駄な抵抗をする財務官の姿に、真昼は呆れたように眉を八の字に下げ、ポンと彼の肩に手を置いて制した。
「動いちゃダメですってば。今動いたら、また胃が痙攣しちゃいますよ」
「だ、だが……私は……貴様を……告発……」
「告発でもお説教でも、元気になってからいくらでも聞きますから。……今は、ただじっとしててください」
真昼の屈託のない、澄み切った瞳。
そこには、罪人を見るような警戒も、権力者に怯える媚びも、微塵も存在しなかった。
あるのは、ただただ目の前の弱者を心配する、純粋な温もりだけだった。
「くぅ〜ん」
足元から、愛らしい声が上がった。
見下ろすと、純白の毛並みを持つ小さな神獣ベルが、オズヴァルトの脱ぎ捨てられた靴の横にお座りし、瑠璃色の瞳でじっと彼を見つめていた。
その姿には、敵を平伏させる神罰の冷気などどこにもなく、まるで「お前も大変だな」とでも言いたげな、穏やかな労わりが宿っていた。
「……あ……」
オズヴァルトの口から、言葉が失われた。
森の魔女。公金を横領し、騎士団を私兵化する不逞の輩。
そう決めつけ、冷徹に断罪するために乗り込んできたはずの場所。
だが、そこで彼を迎えたのは――。
木漏れ日が揺れる、清らかに掃き清められた美しいウッドデッキ。
神話の守護神の、穏やかな眼差し。
そして、行き倒れた見知らぬ自分を、嫌な顔ひとつせず抱き起こし、胃を痛めないように丁寧に冷ましてくれた、一杯のあたたかな白湯のぬくもりだった。
(……私は……何を、見誤っていたのだ……?)
オズヴァルトの胸の奥底で、何十年もかけて築き上げてきた頑迷な理性の壁が、ピシリと音を立てて微かに軋み始めていた。
初夏の柔らかな風が、ナラの木肌を優しく撫で、二人の間を吹き抜けていく。
倒れ伏した冷徹な財務官と、割烹着姿の元OL。
言葉を失った静寂の中で、ふたつの世界の新たな出会いは、一杯の素朴な湯気とともに、静かに、だが決定的に動き出していたのだった。




