第27話:冷徹財務官の来訪と、不審な森の拠点
シルヴァ辺境伯領の政庁タワーの地下、冷涼な石壁に囲まれた第一財務監察室。
そこは、真鍮のランプの灯火だけが頼りの、埃とインクと古い羊皮紙の匂いが立ち込める「領地の心臓部」だった。
カサリ、カサリと、乾燥した羊皮紙をめくる規則正しい音だけが、深夜の静寂に乾いた残響を響かせている。
高く積み上げられた分厚い出納帳簿の山。その奥に埋もれるようにして座る男の影があった。
「……合わない。やはり、計算が合わん」
低く、抑揚のない冷徹な呟き。
オズヴァルト・ハインツ(三十四歳)。
シルヴァ辺境伯領の財政を一手に握る若き財務官であり、領民や騎士団の兵士たちからは「血も涙もない歩く計算機」「予算の処刑人」と恐れられている男だった。
銀縁の細い眼鏡の奥で、知性を研ぎ澄ませた灰色の瞳が、帳簿に記された数字の羅列を獲物を狙う鷹のように睨みつけている。
仕立ての良い黒のスーツ風官服の襟元を几帳面に上まで留め、ネクタイは一ミリの歪みもなく締め上げられている。だが、その完璧な身だしなみとは裏腹に、オズヴァルトの顔色は死人のように土気色で、目の下には消えることのない濃い隈が刻まれていた。
オズヴァルトは片手を官服の上からみぞおちのあたりへと押し当て、苦悶を噛み殺すように浅く息を吐いた。
「……うっ……」
胃の奥底が、まるで腐食性の劇薬を注ぎ込まれたかのようにキリキリと焼けただれるように痛む。
慢性的な胃酸過多と、重度の胃潰瘍。
王都の中央貴族たちからは「辺境の防衛費を削れ、増税しろ」と理不尽極まりない圧力をかけられ、それを呑めば飢饉に苦しむ領民が飢え死にする。板挟みの中で数字と格闘し、一銭の無駄も出さぬよう毎晩徹夜を重ねてきた結果、彼の消化器官はとっくの昔に悲鳴を上げていた。
ここ数ヶ月、口にしたものといえば、冷え切った麦粉の粥と、気付けのために流し込む渋くて苦い安物の茶だけだ。
だが、今のオズヴァルトの脳髄を支配していたのは、己の肉体の激痛ではなかった。
彼の目の前にある、辺境警備騎士団の『物資受領および活動記録簿』。
そこに記された、ここ数週間の「異常極まりない記録」の数々だった。
「団長ジークフリート・フォン・ヘスラー、ならびに副官クラウス……両名による早朝四時台の不審な単独外出、計十四回。いずれも行き先は『領内深部・立ち入り禁止森林区域』……」
オズヴァルトは羽ペンを走らせ、羊皮紙の余白にトントンと苛立たしげにインクの染みを作った。
名門貴族の三男であり、清廉潔白を絵に描いたようなあの堅物の騎士団長が、公務の合間を縫って毎朝毎朝、部下にも告げずに森の奥へ消えている。
それだけではない。
さらに決定的な物証があった。
「騎士団専属鍛冶師バルトによる、官給資材の無断持ち出し記録。……耐火レンガ百二十個、高品質黒鉄板二枚、耐火煙突部材一式。加えて、工兵用の大型鋸、測量具、そして大量のナラの木材の伐採申請……」
オズヴァルトの灰色の瞳が、冷たく細められた。
それらの資材は、砦や防壁の補修用として計上されていた貴重な軍事物資だ。それが、正規の手続きを経ることなく、バルトの手によって森の深部へと運び出されている。
しかも、当のジークフリートはここ最近、あれほど過労で青白かった顔に劇的な血色を取り戻し、全身から凄まじい活力を漲らせて訓練場に立っているのだ。すれ違いざまには、王都の最高級の香水ですら及ばない、甘く香ばしい「謎の匂い」を漂わせているという報告まで上がっている。
「……王都の政敵と通じているのか? あるいは、森の深部に秘密の拠点を築き、禁制品の密輸や武器の横領に手を染めているのか……?」
オズヴァルトは冷徹に思考を巡らせた。
辺境伯領の財政は今、崖っぷちにある。もし騎士団のトップが不正に手を染め、中央貴族に弱みを握られでもしたら、この領地は一瞬で取り潰しの憂き目に遭う。
憲兵隊に調査を命じることもできた。だが、相手は王国屈指の剣の達人であるジークフリートと、老獪な鍛冶師バルトだ。生半可な兵を動かせば、事前に証拠を隠滅されるか、力でねじ伏せられるのが関の山だろう。
「……私が、自ら確かめるしかない」
オズヴァルトは決然と立ち上がった。
黒の革製書類鞄に、告発用の白紙の羊皮紙と公式の監査印、そして万年筆を詰め込む。
机の上の引き出しから、護身用の小さな短銃を一丁、内ポケットへと忍ばせた。
胃の奥を灼く激痛に額に脂汗を滲ませながらも、融通の利かない堅物財務官は、深夜の政庁を単身で後にしたのだった。
***
――そして、翌朝。
初夏の陽光が、森の濃密な天蓋を突き破り、緑の海を照らし始めていた。
「はぁっ……はぁっ……! く……っ、この、木々の密度は……何なのだ……!」
オズヴァルトは立ち止まり、荒い息を吐きながら、手近な白樺の幹に手をついた。
胸元が激しく上下し、肺腑が酸素を求めて悲鳴を上げている。
彼の現在の姿は、政庁で見せるあの怜悧で隙のないエリート財務官の姿とは程遠いものだった。
仕立ての良かった黒の官服は、幾重にも重なる茨のトゲに引っかかってあちこちがほつれ、泥水と木のヤニで無残な縞模様を描いている。
磨き抜かれていたはずの高級な黒革靴は、湿った腐葉土をたっぷりと吸い込んで見る影もなく汚れ、つま先は泥でずっしりと重い。
木の枝に引っかかって歪んだ銀縁眼鏡を、泥のついた人差し指で苛立たしげに押し上げる。
無理もなかった。
オズヴァルトは生まれてこの方、羊皮紙と帳簿の数字だけを相手にしてきた生粋の文官だ。
馬車が通れる街道すら外れ、獣道すら途絶えた立ち入り禁止区域の森の深部を、重い書類鞄を抱えて二時間以上も藪漕ぎし続けているのだ。
足腰の筋肉はとっくに限界を超え、鉛のように重く軋んでいた。
だが、何よりも彼を苛んでいたのは、空腹と疲労によって暴走を始めた「胃の激痛」だった。
「……ぐ……ぅっ……!」
思わず膝を折りそうになるのを、気力だけで押し留める。
昨夜から何も口にしていない。朝一番の冷えた空気と、急激な運動によるストレスが祟り、胃壁が内側から爪で引き裂かれるような鋭い痛みの波が押し寄せていた。
喉はカラカラに渇き、唾液すら出ない。
携行してきた水筒の水は、先ほど険しい斜面を滑り落ちた際に落とし、どこかの谷底へと流れていってしまった。
めまいがして視界が白く明滅する。
(だが……引き返すわけにはいかん……! バルトが木材を運んだと思しき、微かな轍の痕跡は、確実にこの先へと続いている……!)
オズヴァルトは奥歯をギリリと噛み締め、震える足に力を込めた。
四角四面で融通が利かないと言われようと、彼には彼なりの誇りがあった。
領民から預かった血税を一銭たりとも私腹を肥やす輩に渡してなるものか。騎士団の不正を白日の下に晒し、公金横領の現行犯として告発する――その執念だけが、彼の折れかけた身体を前へと突き動かしていた。
バキバキと、目の前を塞ぐ熊笹の藪を両手で力任せに押し分ける。
朝露の冷たい水滴が顔に散り、泥が跳ねる。
最後の茨の茂みを強引に潜り抜けた――その瞬間だった。
――パッと、視界が拓けた。
「……え……?」
オズヴァルトの口から、掠れた呆然とした声が漏れた。
乱れた呼吸が、ぴたりと止まる。
眼鏡の奥の灰色の瞳が、信じられないものを見るように見開かれた。
そこに広がっていたのは、彼が想像していたような「薄暗い密輸のアジト」でも、「埃っぽい山賊の掘っ立て小屋」でも断じてなかった。
木漏れ日が燦々と降り注ぐ、美しく掃き清められた広大な空間。
その中央に鎮座していたのは――。
「……な、何だ……この木床は……!?」
オズヴァルトは息を呑んだ。
ログハウスの前に広がる、見事なまでに滑らかに削り出されたナラのウッドデッキ。
大人数十人が同時に乗ってもビクともしないであろう重厚な厚板は、表面にささくれひとつなく、まるで宮殿の舞踏会場のように清らかに磨き上げられている。釘を一切使わず、木組みの技術だけで寸分の隙間もなく噛み合わされたその構造は、一目で超一流の職人が心血を注いだものだと分かった。
さらに、ログハウスの壁際。
そこには、真新しい耐火レンガが幾何学的な美しさで積み上げられ、黒光りする極厚の鉄板が据え付けられた、巨大な『石造り二連かまど』が聳え立っていた。屋根を貫く黒鉄の煙突からは、かすかな陽炎がゆらゆらと立ち上っている。
(ば、バルトが持ち出した資材は……これか!? 砦の補修資材を横領し、こんな森の奥に、これほど贅を尽くした厨房施設を建設したというのか……!?)
横領の動かぬ証拠。
オズヴァルトの疑念は確信へと変わった。
だが――怒りが湧き上がるよりも早く、彼の嗅覚を、ひとつの「抗いがたい気配」が直撃した。
――スゥッ……。
初夏の爽やかな風が、ウッドデッキの上を吹き抜けてくる。
その風に乗って、オズヴァルトの乾ききった鼻腔へと届いたのは――。
「……っ!? な……何だ、この香りは……!?」
オズヴァルトの喉仏が、大きく上下した。
かつて嗅いだことのない香りだった。
貴族たちが嗜む、鼻を刺すような人工的な香料で香りづけされた王都の紅茶ではない。
もっと素朴で、もっと力強く、大地の恵みそのものをじっくりと焙煎したかのような、どこまでも香ばしい穀物の薫香。
麦の粒が熱い鉄の上でじっくりと転がされ、芯まで均一に煎り上げられたときにだけ生まれる、深く、甘やかな焙煎香。
そして、その香りは――驚くべきことに、熱い湯気とともに漂っているのではなかった。
風に乗って届いたのは、ひんやりとした、氷のように冷涼な気配を伴った、澄み切った芳香だったのだ。
***
ウッドデッキの中央、丸太のテーブルの前。
そこに、ひとりの少女が立っていた。
小柄な身体に、清潔な木綿の白い上着――割烹着を纏い、後ろで束ねた黒髪を初夏の風に揺らしている。
小鳥遊真昼。
彼女は、ログハウスの北側にある冷暗所の床下収納から、大きめの耐熱ガラス製ピッチャーを両手で大事そうに抱え上げてきたところだった。
「うん、一晩じっくり置いたから、完璧に出てる!」
真昼がテーブルの上に置いたガラスピッチャーの中には、光を透かして眩い琥珀色に輝く、たっぷりの液体が満たされていた。
その水面の下には、無漂白の不織布でできたパックに詰められた、丸々と太った国内産の『六条大麦』の粒が、静かに沈んでいる。
今朝、真昼が仕込んでおいたのは――日本の夏の風物詩、『水出し麦茶』だった。
麦茶の淹れ方には、お湯で煮出す方法と、冷水でじっくり抽出する水出しの方法がある。
煮出し麦茶の力強い苦みと香ばしさも格別だが、ジークフリートが汲んできてくれたあの不純物のない「精霊の湧き水」の柔らかさを最大限に活かすなら、真昼は迷わず「水出し」を選んだ。
熱を加えないことで、麦の皮に含まれる余分な苦みや渋み、デンプンの濁りを一切出さず、大麦本来の純粋な甘みと、焙煎によって生まれた香ばしいアロマだけを、何時間もかけて澄んだ水の中へと溶け出させるのだ。
ガラスピッチャーの表面には、冷たさに触れた森の湿気が細かな水滴となってびっしりと結露し、結晶のように朝光を乱反射している。
真昼はテーブルの上に、現代から持ち込んだ透明なガラスのグラスを並べた。
そして、古民家の冷凍庫から運んできた、カチ割りの純度の高い角氷を、トングでグラスの中へと落とす。
――カラン、コロン。
静かな森の朝に、息を呑むほどに涼やかで澄んだ音が響き渡る。
氷の入ったグラスへ、真昼はピッチャーを傾け、琥珀色の麦茶を静かに注ぎ入れた。
トトトト……。
注がれるたびに、グラスの氷がカランと心地よい音を立てて身をよじる。
立ち上るのは、湯気ではない。
氷によって極限まで冷やされた水面からふわりと広がる、大麦の香ばしくも甘い、どこまでも清涼な冷気。
「わふっ」
足元で丸くなっていた純白の毛並みを持つ神獣ベルが、真昼を見上げて小さく鼻を鳴らした。
真昼は笑いながら、ベルの専用の陶器の小鉢にも冷たい麦茶を少しだけ注ぎ分けてやる。
ベルは舌を伸ばし、ペチャペチャと美味しそうに喉を鳴らし始めた。神獣にとっても、この大地の香ばしさは心地よいものらしい。
木漏れ日が揺れるナラのウッドデッキ。
氷が涼やかに鳴る音。
琥珀色に透き通る、冷たい水出し麦茶。
それは、絵画のように美しく、そしてこの過酷な辺境の森にあっては、奇跡のように穏やかな朝の光景だった。
――だが。
藪の陰からその光景を目撃したオズヴァルトの理性は、完全に限界を超えていた。
(な……何なのだ、あの娘は……!? 王都の平民とも、貴族とも違う、見たこともない奇妙な白布を纏い……。そして、あの足元にいる白き獣は……よもや、伝説の白狼神獣……!?)
情報が多すぎる。
神話の守護神が、小娘の足元で飼い犬のように寛ぎ、見たこともない透明な硝子の器から茶を飲んでいる。
そして何より、あのウッドデッキ。
横領された軍事物資で建てられたと思しき、不法占拠の秘密拠点。
あそこで涼しげに佇むあの娘こそが、我が辺境警備騎士団長ジークフリートを誑かし、軍の規律を乱し、公金を横領させている「黒幕の魔女」に違いない!
「……そこ、までだ……ッ!」
オズヴァルトは激痛に苛まれる胃袋を無理やりねじ伏せ、革鞄を握りしめて立ち上がった。
千鳥足になりながらも、背筋を伸ばし、威厳を取り繕おうとする。
藪を蹴破り、ナラのウッドデッキの階段へと、泥だらけの足を力任せに踏み出した。
「そこまでだ、不届き者め……! 領主への反逆、ならびに軍事物資横領の現行犯として……貴様を、告発――」
乾ききった喉から絞り出した、告発の叫び。
真昼が驚いたように振り返り、ベルが「グルルッ」と低く身構える。
オズヴァルトは内ポケットの短銃に手をかけ、冷徹な視線で少女を射すくめようとした。
――だが。
彼の肉体は、すでに完全に限界を迎えていた。
「こ、告発……す……る……っ……ぐ、あ……っ!?」
声が、途中でかすれ途切れた。
刹那。
オズヴァルトの胃袋を、内側から燃え盛る鉄杭で抉り抜かれたかのような、凄まじい激痛の雷撃が襲ったのだ。
過労。睡眠不足。極度の脱水。そして、不慣れな山道を踏破したことによる肉体の限界。
すべての歪みが一気に決壊し、オズヴァルトの腹筋が激しい痙攣を起こした。
「が、はっ……!?」
呼吸が、止まる。
視界が真っ白に染まり、足元の平衡感覚が完全に消失した。
手から革鞄がこぼれ落ち、羊皮紙がデッキの上に散らばる。
オズヴァルトの細身の身体は、前へ踏み出そうとした姿勢のまま、白目を剥いて前のめりに崩れ落ちていったのだった。
「きゃああっ!? ちょ、ちょっと大丈夫ですか!?」
静かな森の朝に、真昼の悲鳴が響き渡った。
倒れ伏す冷徹な財務官と、グラスの中で涼やかに揺れる琥珀色の麦茶。
平穏だった森の小屋に、新たな波乱の幕が、今まさに切って落とされようとしていた。




