8話 偽装
東の空がかすかに白み始めた頃、リラははっと目を覚ました。
昨日感じた、自分を射抜くような不気味な視線を思い出し、胸の奥がざわついた。
小さく息を吐くと、枕元から温かな気配が寄り添ってきた。
「おはよう、リラ」
薄闇の中、ルナの青い瞳がリラを見つめていた。
「おはよう、ルナ」
柔らかな毛並みを撫でながら身を起こすと、足元で丸まっていたレオが気怠げに顔を上げ、大きな欠伸を漏らした。
「なんだよ、リラ。ずいぶん早いお目覚めじゃねぇか」
その声に、ベッドの脇で眠っていたノエルもゆっくりと身を起こした。
「まだ日も昇ってないよ。もう少し寝ていればいいのに」
「うん。なんか、昨日のことを思い出して目が覚めちゃって……それにしても、ずいぶん寒いね」
リラは両腕をさすりながらベッドを降り、厚手の羽織ものを肩に掛けると、三匹と共に階下へ向かった。
一階では、セナとテトが暖炉の前で身を寄せ合い、トウカは近くの椅子で丸くなっていた。
足音に気づいたトウカはすぐに飛び降り、暖炉へ駆け寄った。
「あ、リラ! おはよ。すぐ暖かくするからね」
残っていた火種へ薪をくべ、片方の前脚をかざすと、赤い炎が勢いよく燃え上がった。
「おはようございます、リラ様。何か口にされてから、もうひと眠りなさいますか?」
食堂の奥から姿を現したネロが、静かに頭を下げた。
「おはよう、ネロ。もう目が覚めちゃったから、このまま朝ごはんにしようかな」
「それでしたら、朝食後は早朝に採れる薬草を探しながら、町へ向かってはいかがでしょう。その足で、冬支度も済ませてきていただけますかな」
ネロの提案を聞き、ノエルが顔を上げた。
「僕が薬草のある場所まで案内するよ。町で買い取ってもらえば、買い物の足しにもなるからね」
「でも、昨日の鳥たちはもう大丈夫なの?」
リラが尋ねると、ルナが静かに答えた。
「昨日の鳥たちは、日暮れ前に森を離れたよ。けれど、念のため町ではフードを外さず、レオから離れないで」
「……分かった」
朝食を済ませたリラは動きやすい服に着替え、外套を羽織った。
ルナが肩掛け鞄の奥へ身を潜めると、空の薬瓶を入れた編み籠を背負い、レオとノエルを連れて家を出た。
森の中には明け方の冷気が満ち、吐く息が白く曇った。
先頭を歩くノエルは、ときおり足を止め、買い取ってもらえそうな薬草を鼻先で示した。
採った薬草を籠へ収めながら進んでいると、少し先でノエルが立ち止まった。
「リラ! こっちへ来て」
弾んだ声に呼ばれ、リラはレオと共に木々の間を抜けた。
その先には淡い光が満ちていた。
薄闇の中、葉先に宿った無数の雫が青白く揺らめき、地上へ零れ落ちた星々のように草の間で瞬いていた。
思わず息を呑んだリラの隣で、ノエルが嬉しそうに告げた。
「黎明の雫だよ」
「これが……?」
「昨夜はよく冷え込んで、風もなかったから、朝露に森の魔力がたくさん溶け込んだんだ。日が昇る前に集めよう」
「すごい……初めて見たよ! 薬瓶を出すね」
リラは籠を下ろし、中から瓶を取り出した。
葉の下へ瓶の口を添え、茎をそっと傾けると、青白い雫が音もなく硝子の中へ滑り落ちた。
「こっちにもあるぞ」
少し離れた場所で、レオが雫の宿った草を鼻先で示した。
ノエルとレオが見つけた雫を一粒ずつ移すうち、瓶の中には青白い星明かりが重なっていった。
やがて巨木の隙間から朝日が差し込み、光に触れた雫は次々と透明な朝露へ戻っていった。
「ここまでだね」
ノエルが満足そうに鼻を鳴らした。
リラは蓋を確かめ、朝の光が触れないよう薬瓶を籠の陰へ収めた。布で包む前に覗き込むと、瓶の中では掌ほどの小さな夜空が、かすかに瞬いていた。
その輝きを惜しみながら、薬瓶を布で包んで籠の底へしまった。
町へ続く街道が見えてきたところで、ノエルは足を止めた。
「僕の案内はここまでだよ。薪を集めながら、みんなの帰りを待っているね」
「じゃあ帰りは、どっちが多く持ち帰れるか勝負な」
レオが振り返ると、ノエルは楽しげに尾を揺らした。
「いいよ。たくさん集めておくから、楽しみにしていて」
「おう。どうせすぐ戻ってくるし、大した量にはなんねぇだろ。帰りは全部運んでやってもいいぜ」
得意げに胸を張ったレオを見て、ノエルはふっと目を細めた。その表情に企みを感じ取り、リラは小さく笑った。
ノエルはすぐに表情を戻し、町の方へ顔を向けた。
「それから、この前町で見た白いものにも気をつけて」
肩掛け鞄の隙間から、ルナがそっと顔を出した。
「路地裏には入らず、人通りのある道だけを通って。異変を感じたら、すぐにその場を離れるんだよ」
「分かった。気を付けるよ」
「買い物が済んだら、まっすぐ戻るさ」
ふたりの返事を聞き、ノエルはようやく安心したように頷くと、身を翻して森の奥へ戻っていった。
リラは外套のフードを深く被り直し、ルナが鞄の奥へ身を隠したのを確かめてから、レオと共に街道を歩き出した。
早朝の町には人影が少なく、店を開け始めた商人の姿がちらほら見えるだけだった。
レオは気怠げに歩きながらも、耳を絶えず動かして周囲を警戒していた。
「まずはよろず屋だな。籠の中身を買い取ってもらおうぜ」
「うん。黎明の雫を見たら、きっと驚くよ」
リラは籠を揺らさないよう気をつけながら、使い込まれた木製の扉を押し開けた。
「おはようございます。朝早くにすみません」
奥から顔を出した店主は、リラを見るなり表情を強張らせた。
レオへ向けた視線をすぐに逸らし、落ち着かない様子で口を開いた。
「お、おう。リラちゃんか。ずいぶん早いな」
「早く目が覚めてしまって……薬草を採ってきたので、見ていただけますか?」
店主は差し出された籠を受け取った。
足元では、大きな黒い犬が後ろ脚の間に尾を巻き込み、身を低くして震えていた。
「そんなに怖がらなくていい」
レオが優しく声をかけたが、犬は短く鼻を鳴らし、さらに身体を小さく丸めた。
店主は困ったように犬を見下ろしたあと、籠の中を確かめ始めた。
布に包まれた薬瓶を取り出し、包みを解くと、その青白い輝きに目を見開いた。
「こりゃ、黎明の雫じゃないか!」
薬瓶を持ち上げ、食い入るように見つめた。
「しかも純度が高い。これだけまとまって採れるなんて、滅多にないぞ」
「町へ来る途中で見つけたんです。日が昇る前に急いで集めました」
「よく見つけたな。貴族が欲しがる品だし、いつもより色をつけて買い取ろう」
「ありがとうございます!」
店主は薬草も手早く確かめ、空になった籠と、普段より重い革袋を差し出した。
リラは礼を言って店を出ると、革袋を嬉しそうに持ち上げた。
「こんなに大金になるなんて……まずは、保存の利く食料を買いに行こうか」
歩き出そうとしたところで、鞄の奥からルナの声が届いた。
「待って、リラ。先に靴と外套を見に行こう」
「食料じゃないの?」
「保存食はあとからでも揃えられる。今の靴も、外套も古くなっているだろう?」
「それは、そうだけど……」
ルナが買い物の順番まで決めたことは、これまで一度もなかった。
「……分かった。じゃあ、近くの靴屋さんから行こう」
リラは革袋を握り直し、レオと共に歩き出した。
それでも、保存食より先に靴と外套を選ぶことが、なぜか妙に胸に引っかかった。




