5話 証
町を飛び出してからも、リラは足を止めなかった。
森へ続く街道を駆ける間、レオは何度も背後を振り返り、鞄の中のルナも身を固くしたままだった。
二匹の張り詰めた様子に急かされるように、リラは息を切らしながら走り続けた。服の外へ引き出したままの猫紋の指輪が、胸元で激しく跳ねていた。
森の境までたどり着くと、木々の間からノエルとテトが飛び出してきた。息を切らしたリラの姿を見るなり、ノエルが金緑色の瞳を見開いた。
「リラ! フードを被って!」
普段の穏やかさを失った声に押され、リラは肩へ落ちていたフードを慌てて引き上げ、乱れた髪を内側へ押し込んだ。
リラたちが足を止めると、テトが周囲を見回しながら尋ねた。
「町で何かあったの?」
「路地で妙なもんに出くわした。空中に切れ目が入って、そこから白い何かが出てきやがったんだ」
「白いもの?」
「よくわからねぇ。オレの攻撃が効かなかった。それと……屋根の上に鳥が一羽いたな」
その一言に、ルナが鞄から顔を出した。
「その鳥はこちらを見ていたのかい?」
「ああ。こっちを見てたな。すぐに鳴きながら飛んでいったぜ」
ノエルは、被り直したばかりのリラのフードへ目を向けた。
「もしかして、そのフード、町で外れたの?」
リラはフードの縁に触れ、曖昧に首を傾げた。
「そうかも……いつ外れたんだろう」
レオはしばらく考えたあと、リラの胸元で揺れる指輪へ目を落とした。
「指輪を出したあたりじゃねぇかな。鳥が鳴いたのは、そのあとだった」
ノエルが耳を伏せ、テトも枝葉の隙間から空を仰いだ。
その反応に、リラの胸がざわついた。
「私の髪を見られると、そんなに困るの?」
誰も答えなかった。
テトは周囲へ視線を巡らせたまま、ノエルへ低い声で告げた。
「……鳥はおしゃべりだから、早くしないとまずいかも」
「そうだね。のんびりしていられない。今日は空から見つかりにくい道を使おう」
ノエルが森の奥へ体を向けると、テトも近くの木を駆け上がった。
「ごめん、リラ。今はまだ話せないんだ」
鞄の中からリラを見上げていたルナは、続いて胸元の指輪へ目を向けた。
「その指輪もしまって、早く家へ帰ろうか」
リラは服の上で揺れていた指輪を手に取った。
あれほど刺すようだった冷たさは、いつの間にか消えていた。
紐ごと服の内側へしまうと、森の奥へ進んでいくノエルたちのあとを急いで追った。
家に戻った頃には、空は深い群青色に染まっていた。
重なり合う木々の隙間から、見慣れた我が家の窓明かりが漏れていた。
玄関の扉を開けると、暖炉の熱が冷えた頬を柔らかく包んだ。
「おかえり! 待ちくたびれたよ!」
赤褐色の小さな影が、居間の奥から弾むように駆けてきた。
トウカが近づくにつれてあたりの空気がふわりと温まり、暖炉の炎もリラを迎えるように大きく揺らめいた。
「ただいま、トウカ」
リラはいつもどおり笑ったつもりだったが、声はわずかに掠れていた。
トウカはその場で足を止め、首を傾げてリラの顔を見上げた。
「……リラ、大丈夫?」
「うん。少し走って疲れただけ」
そう答えて背中の籠を下ろすと、奥の台所からセナが姿を見せた。
リラの顔をひと目見て、金色の瞳を曇らせた。
「顔色が悪いわ」
「リラ様、まずは暖炉のそばでお休みくださいませ」
玄関脇に控えていたネロの言葉に従い、リラは厚手の絨毯へ腰を下ろした。
肩から外した鞄を足元へ置くと、ルナが中から静かに抜け出し、リラの隣へ腰を下ろした。
ネロも近くに座り、長い尻尾を軽くひと振りすると、湯気を立てるポットとカップが台所からふわりと浮かび上がり、暖炉の前まで運ばれてきた。
リラの前にカップが置かれると、宙に浮かんだポットが静かに傾き、香りのよい茶が注がれた。
「銀鈴草を煎じたものでございます。どうぞ、ゆっくりお召し上がりくださいませ」
「ありがとう、ネロ」
リラは温かなカップを両手で包み、ゆっくりと一口含んだ。
銀鈴草のほのかな苦みが舌に残る頃には、胸の奥に張りついていた強張りも少しずつ和らいでいた。
カップを手にしたまま暖炉へ目を向けると、橙色の炎が穏やかに揺れていた。
いつの間にか、その周りには皆が集まっていた。
見慣れた顔に囲まれ、乱れていた呼吸が整っていくにつれて、ようやく家へ帰ってきたのだという実感が胸に広がった。
「あ、そうだ。みんなに見せたいものがあるの」
リラはカップを置き、足元の鞄から小さな紙包みを取り出した。
包みを開くと、深い青緑と紺色の糸に、微細な魔石を編み込んだ飾りが現れた。
大きさはそれぞれ違っていたが、草花の冠を思わせる編み模様はすべて同じだった。
「みんなにお揃いでと思って、それぞれの大きさに合わせてもらったの。つけてみてもいい?」
一番に身を乗り出したテトの首へ細い飾りを結ぶと、彼女は自分の首元を確かめようと何度も体を捻った。
「似合う?」
「テト、めっちゃ似合ってるよ! ぼくもつけて! 早く!」
トウカが隣へ飛び込み、期待に満ちた琥珀色の瞳でリラを見上げた。
首元へ飾りを結ぶと、テトと並んで互いの姿を見比べ、楽しげに声を弾ませた。
「トウカも似合ってるよ!」
「セナも早くつけてもらおうよ!」
二匹に急かされ、セナもリラの前へ歩み寄った。
続いてノエル、ネロ、レオの首元にも同じ色の飾りを結んでいくと、暖炉の前が少しずつ華やいでいった。
「僕にもつけてよ」
足元から声がして視線を向けると、ルナがリラを見上げていた。
「もちろん。ルナのが一番小さいよ」
リラはルナを抱き上げ、真っ白な首元へ一番短い飾りを結んだ。
ルナはくすぐったそうに首を振ったものの、すぐに胸を張って皆を見回した。
最後にリラが自分用の長い編み紐を左手首へ二重に巻いて結ぶと、トウカとテトがすぐに左右から覗き込んできた。
セナも傍へ寄り、三匹は互いの飾りを見比べながら楽しげに声を交わし始めた。
その賑やかな様子を眺めているうちに、リラの頬にも自然と笑みが浮かんだ。
「これで、みんなお揃いね。家族の証よ」
深い青緑と紺色の編み紐が、暖炉の明かりを受けて細かにきらめいていた。
「あっ、いつものお土産もあるよ。籠の中に入っているから、みんなで見てきて」
リラが籠を指差すと、トウカとテトを先頭に、皆がその周りへ集まった。
気づけば、暖炉の前にはリラとルナだけが残っていた。
籠の周りでは、土産を見つけた皆の弾む声が上がっていた。
リラはその声を聞きながら、手首の編み紐へそっと指を滑らせた。
隣にいたルナが、リラを見上げた。
「リラ。あのとき、どうして立ち止まったんだい?」
リラはしばらく炎を見つめたあと、膝の上で両手を重ねた。
「……声が聞こえたの」
「声?」
「最初は何を言っているのかわからなかった。でも、逃げるときにはっきり聞こえたの。どこへいけばいいの、って」
暖炉の中で薪が爆ぜ、小さな火の粉が舞い上がった。
「あの白いものから聞こえたのかい?」
「わからない。でも、とても苦しそうだった」
ルナは炎へ目を向けたまま、しばらく口を閉ざしていた。
「次に同じものを見ても、すぐに離れるんだ」
普段より硬い声に、リラは思わずルナへ顔を向けた。
「でも、あの声は助けを求めていたのかもしれない」
「それでもだ。何なのかわからないうちは、触れてはいけない」
リラは返事をせず、暖炉の炎へ目を戻した。
路地で聞いたあの声にも、こうして戻れる場所があるのだろうか。
橙色の炎が静かに揺れる中、苦しげな囁きだけは、いつまでも耳から離れなかった。




