3話 境界
天窓の向こうは濃い朝霧に白く閉ざされ、寝室にもひんやりとした冷気が満ちていた。
いつも足元で眠るノエルの姿はなく、すでに階下へ下りたようだった。
「おはよう、ルナ、レオ」
リラが眠たげに声をかけると、窓辺に座っていたルナがゆっくりと振り返った。
「おはよう、リラ。今日は霧が深いよ」
「ほんとだ。少し寒そうだね」
リラがベッドから身を起こすと、レオは大きな欠伸をひとつ漏らし、そのまま気怠げに体を伸ばした。
「ふぁ~っ。町へ行く日くらい、もう少し寝てもよかったんじゃねぇか?」
「そういうわけにもいかないよ。準備もしないとね」
リラが笑いながら立ち上がると、ルナとレオも後に続いた。
階段を下りるや否や、銀灰色の縞模様が勢いよく目の前を横切った。
「リラ! 今日は町に行く日だよね?」
「わっ、テト。どうしたの、そんなに慌てて」
テトは落ち着きなくリラの周りを行き来しながら、大きな耳をぴこぴこと揺らした。
「だってお土産の日だもん。干し肉! 干し肉!」
「ふふ、忘れないよ。ちゃんと買ってくるからね」
はしゃぐテトの向こうでは、ノエルが小さな布袋を几帳面に並べ、昨日採集した月見草を丁寧に仕分けていた。
最後の袋を整えると、顔を上げてリラへ声をかけた。
「リラ、おはよう。町へ持っていく分は分けておいたよ。こっちは僕たちの保存用で、こっちが町での交換用」
「ありがとう、ノエル。助かるよ」
リラが並べられた布袋を見比べていると、閉ざされた裏口の戸の前で影が揺らぎ、朝靄の冷気をまとったネロが音もなく姿を現した。
「リラ様、おはようございます。周囲の巡回より戻りました」
「おかえりなさい、ネロ。何か変わったことはあった?」
「……いえ。森は静かなままです」
そう答えながらも、ネロは金色の瞳をわずかに細めた。
食卓には、暖かなスープとパン、香草で炒めたベーコンと卵料理がすでに並んでいた。
暖炉の火が優しく爆ぜるなか、それぞれが好きな場所で朝食をとった。
食事を終えたリラが席を立つと、部屋の奥からトウカの元気な声が飛んできた。
「リラ、帰ったら町の話を聞かせてね!」
「うん。たくさん話すね」
リラは笑って答え、町へ行くための身支度を始めた。
厚手の茶色い外套を羽織り、白銀の髪を内側へしまい込んだ。
ノエルが月見草を詰めてくれた布袋を籠に収めて背負い、最後に斜め掛けした鞄の口を大きく開いた。
「そろそろ行こっか」
ルナはするりと鞄の中へ身を収め、白い顔だけをひょこりと覗かせて居心地よさそうに目を細めた。
リラが玄関の扉を開けて一歩外へ出ると、冷たく湿った空気に触れ、思わず身を震わせた。
「わぁ、ちょっと寒いかも。霧はいつ晴れるかな」
「リラー! どうしよう、木の上からじゃ何も見えないよ!」
いつの間にか先に外へ出ていたテトの声が、頭上から降ってきた。
リラの前を歩いていたレオも足を止め、鼻先を上げて周囲の匂いを探った。
「すげぇ白いな。これは困ったぜ」
「大丈夫、僕に任せて。リラが通れる道はこっちだよ」
ノエルが先頭に立ち、白い霧の中へ続く獣道を慎重に進んでいった。
玄関先に残るトウカ、セナ、ネロへ手を振り、リラたちもその後に続いて霧の中へ踏み出した。
森の空気はどこまでも冷たく、落ち葉を踏みしめる音だけが霧の中へ溶けていった。
ノエルは時折足を止め、片方の前脚で地面を確かめながら、安全な獣道を選び取った。
テトはリラのそばを歩きながら、「干し肉、干し肉~」と小さな声で歌い、歩調に合わせて尾を楽しげに左右へ揺らしていた。
やがて巨木の間隔が広がり、霧も少しずつ薄れるにつれて湿った土の匂いが遠のき、白い霧の向こうに踏み固められた街道が姿を現した。
先頭を歩いていたノエルがふと足を止めると、テトも弾むような歩調をぴたりと止め、大きな耳を立てた。
振り返ったノエルは、落ち着いた眼差しでリラを見上げた。
「リラ、僕はここまでだよ。気を付けて行ってきてね」
「あたしもここまで。ノエルと森で待ってる。早く帰ってきてね」
「ノエル、テト、ありがとう。行ってきます!」
リラが屈んで二匹の頭を撫でると、テトは名残惜しそうに一度だけ喉を鳴らしたものの、すぐにいつもの軽やかさで身を翻し、森の影へ飛び込んでいった。
ノエルも一礼するように頭を下げ、その後を追って霧の奥へ姿を消した。
「行くぞ。こっからはオレに任せろ」
レオの声からは、いつもの気安さが消えていた。
「頼んだよ、レオ。リラも、何かあったらすぐに呼んで」
そう言い残すと、ルナは鞄の奥へ身を沈め、白い耳の先まで姿を隠した。
リラはその気配を確かめるように鞄の紐をきゅっと握り、白く霞む街道へ足を踏み出した。
森を完全に抜け、整えられた街道を進むにつれて、霧の向こうに町の屋根が見え始めた。
荷車の車輪が残した轍は町へ向かって続き、遠くから人々の話し声や生物たちの鳴き声が重なって聞こえてくる。
やがて町の入口にたどり着くと、荷車を引くロバが石畳をゆっくりと踏み、商人の肩では小鳥が賑やかにさえずっていた。
井戸端では狐が桶につながる綱を引き、その傍らを人々が慣れた様子で行き交っていた。
リラとレオが、その流れへ足を踏み入れた。
その瞬間、町の空気がざわりと揺れた。




