31話 白い沈黙
宿を出ると、夜明けの空には重たい雲が垂れ込めていた。
今にも雪が降り出しそうな灰色の空の下、吐く息が白く浮かんでは消えていく。
リラは冷えた指でフードを深く被り、籠を抱き直して坂を下った。
レオはリラのそばを歩き、ネロたちは少し離れたところを思い思いに進んでいた。
路地を覗いたり、建物の陰を抜けたりしながらも、リラたちから離れることはなかった。
道すがら、リラは何度か路地の奥へ目を向けた。
昨日の白い靄と、どこからともなく聞こえた声が頭をよぎる。
しかし、その不安は杞憂に終わり、一行は何事もなく門までたどり着いた。
門の脇ではカシウスとレグルスが待ち、騎士たちが風輪車へ荷を積み込んでいた。
車体には、ヴァレリウス家の紋章がなかった。
出発の手続きを待っていると、昨日とは別の門番が、短い柄のついた魔道具を差し出した。
リラが掌を置くと、魔石は淡く光って消えた。
「相棒も、一匹ずつお願いします」
リラが籠を下ろして蓋を開くと、近くにいた猫たちも足元へ集まってきた。
門番はしゃがんで魔道具を差し出し、順に確認を始めた。
ときおりルナへ視線を向けながらも、手際よく進めていった。
やがてレオが前脚を触れさせると、それまで淡く灯っていた魔石が赤く光った。
「昨日、街中で風の魔法を使ったのは、こちらの相棒ですね?」
レオがわずかに耳を伏せた。
「はい。危険だと思って、とっさに……。すみません」
「急に強い風が吹いたと通報がありまして。現場に残った魔力を、門での登録と照合しました。特に被害はありませんでしたので、確認だけです」
「ご迷惑をおかけしました」
リラが頭を下げると、門番は残る猫たちの確認を済ませ、道を空けた。
ルナを籠へ戻して風輪車へ向かうと、ハロルドが前部の操縦席のそばに立っていた。
その腕には、鷹のアーヴィンが翼を畳んで留まっていた。
「準備はできています。今日は、この車で王都までお送りします」
「よろしくお願いします」
ハロルドが曇った空を見上げた。
「いつ雪になってもおかしくありませんね。少しでも進んでおきたいところです」
リラも空へ目を向けかけて、止まった。
門の近くの建物の屋根に、一羽の大きな鷲が留まっていた。
こちらを真っ直ぐ見下ろし、目が合っても逃げようとはしなかった。
森を離れる日にも、あんな鷲を見たことがあった。
リラはしばらく、その姿から目を離せなかった。
すぐそばで、アーヴィンが短く鳴いた。
「ええ、気づいております」
ネロの声に振り向くと、アーヴィンが首を伸ばして屋根の鷲を見据えていた。
リラが再び屋根へ目を戻すと、鷲はゆっくりと翼を広げ、大きく羽ばたいて建物の向こうへ飛んでいった。
ハロルドはアーヴィンを空へ送り、前部の左の席へ上がった。
右の席には別の騎士が座り、ハロルドが操作部へ両手を添えるのが見えた。
リラはアルノに後ろの扉を開けてもらい、猫たちと乗り込んだ。
籠を足元へ下ろして蓋を開けると、ルナは膝へ上がった。
セナが隣へ座り、ほかの猫たちも座席や足元へ収まった。
「では、出発します」
アルノが扉を閉めると、風の唸りとともに車体が動き出した。
門を抜ける間、リラは窓越しに街を振り返った。
城壁の向こうには、まだルークたちが残っている。
早く元気になってほしいと願いながら、遠ざかる街並みを見送った。
やがて建物が途切れ、窓の外には冬枯れの景色が広がり始めた。
風輪車の揺れにも慣れてきた頃、リラは口を開いた。
「昨日のことなんだけど……皆にも、ちゃんと話しておきたくて」
外を眺めていたテトが振り向いた。
「森の近くの町で見た、あの白いもやもやしたもの。昨日、また見たの」
「また出たの?」
セナに尋ねられ、リラは頷いた。
「うん。でも昨日は、白いものが現れる前から、子どもの声がはっきり聞こえたんだ。『お母さん、どこ』って」
猫たちがリラへ目を向けた。
「迷子かと思って探したけど、誰もいなくて。もう一度声がしたとき、景色がずれているのに気づいたの。そこから白いものが出てきて、声もいくつも重なって……耳を塞いでも、小さくならなかった」
「ん? オレには声なんて聞こえなかったぞ」
足元のレオが顔を上げた。
「僕も、白いものは見えたけど、声は聞こえなかったよ」
ルナが続けると、トウカが身を乗り出した。
「ルナ様にも聞こえないの? リラにだけ聞こえるってこと?」
「……そうみたい。アルノ様たちは、白いものにも気づいていないみたいだった」
「森の近くの町でも、声は聞こえたのでしょうか」
ネロに尋ねられ、リラは頷いた。
「逃げているときに、『どこへ、いけばいいの』って。その前にも声みたいなものは聞こえたけど、何を言っているのか分からなかった」
リラは胸元から指輪を引き出した。
今は、指先へ伝わる冷たさも穏やかだった。
「それに、この指輪。白いものが出る頃にすごく冷たくなったの。離れたら戻るんだけど……どうして、あれに反応するんだろう」
猫の紋を親指でなぞった。
小さな頃から、ずっと身につけていたものだった。
「……そもそも、この指輪って何なの?」
膝の上のルナが、指輪を見つめた。
揺れる車内でしばらく黙っていたが、やがてリラへ顔を上げた。
「君の首に、その指輪を掛けたのは、君のお母さんだよ」
「お母さんが……?」
指輪を持つ手が止まった。
リラは紐を指でたどり、もう一度指輪を見つめた。
「でも、もともとは君のお母さんのものじゃない。ずっと昔、ある人が身につけていたものなんだ。今では、始祖王の一人として知られているよ」
「始祖王……?」
「今ある国々の礎を築いた、ずっと昔の人たちだよ」
そんな昔のものが、今は自分の手の中にある。
リラが猫の紋を見つめていると、ルナは静かに続けた。
「その指輪には、僕の力の一部が残っている」
「ルナの力が?」
「うん。あの白いものが何なのかは、僕にも分からない。ただ、指輪に残る力に、何かが反応しているのかもしれない」
「……どんな力なの?」
ルナはすぐには答えず、膝の上で尾の先をゆっくりと揺らした。
片方の耳がぴくりと動き、視線がリラの手にある指輪へ落ちた。
やがて尾の動きが止まり、ルナは静かに顔を上げた。
「僕が九祖霊だということは、前に聞いたね」
「そうだね」
「僕は、縁と繋がりを司っている。人と人、ものともの。そうした縁を結ぶのが、僕に与えられた役割なんだ」
九祖霊の話になったとき、ルナは何も答えず、窓辺へ離れてしまった。
庭園で改めて尋ねたときも、自分には九祖霊を語る資格がないと言っていた。
けれど今は、リラの膝に留まったまま、話を続けてくれている。
「……これ、話したくないことだった?」
「話したくはないよ」
ルナは一度目を伏せ、それからリラを見上げた。
「でも、君に危険が及ぶかもしれないなら、何も言わないわけにはいかない」
リラは指輪を包んでいた手を緩めた。
「じゃあ、ここに残ってるのも、その縁を結ぶ力なの?」
ルナの目が指輪へ向き、すぐに逸れた。
前脚がリラの膝を押し、白い身体がわずかに後ろへ退いた。
「これは……もう、使ってはいけない力なんだ」
ルナは耳を伏せ、苦しげに目を細めた。
やがて顔を上げ、リラをじっと見つめた。
その青い瞳には、今まで見たことのない悲しげな色が浮かんでいた。
「……ごめん」
ルナは目を逸らすと、リラの膝からそっと降りた。
隣の座席へ移り、そのまま窓の方を向いてしまった。
リラは声を掛けようとして、口を閉じた。
指輪をそっと服の中へ戻し、ルナの小さな背中を見つめた。
皆もそれ以上は尋ねず、ノエルがそっと身を寄せてきた。
リラは手首に触れた長い毛を撫でた。
なぜ自分にだけ声が聞こえるのかは、まだ分からない。
胸元へ戻した指輪に手を添えたまま、リラも黙って窓の方へ目を向けた。
何度か休憩を挟んだあと、ふと窓の外を白いものが横切った。
目で追うと、灰色の雲から小さな雪が次々と舞い落ちてくる。
「あ、雪……」
テトとトウカが窓へ寄り、リラと並んで外を眺めた。
雪は地面に触れるとすぐに消え、まだ積もる様子はなかった。
「リラ様、王都が見えてきました」
窓の近くからアルノの声がした。
リラが進む先へ目を向けると、遠くに城壁が延び、その向こうには幾重にも建物が連なっていた。
屋根の合間に細い塔が立ち、さらに奥には大きな王城がそびえていた。
薄い日の光を受けた街並みの前を、雪が静かに舞っていた。
森を出たときには、こんな場所へ来るとは思ってもいなかった。
あの城には、母の姉がいる。
会えたら、母のことを聞いてみたい。
どんなふうに笑い、自分と同じくらいの頃は何をして遊んでいたのか。
聞きたいことは、たくさんあった。
でも、まずはちゃんと挨拶をしなければ。
リラはエレノアに教わった言葉を、胸の中で繰り返した。
ふと隣を見ると、ルナも王城を見つめていた。
目が合うと、ルナはゆっくりと瞬きをした。
リラは小さく微笑み、テトとトウカが並ぶ窓へ目を戻した。
雪の向こうで、王城が少しずつ近づいていた。
第二章「ヴァレリウス領」は、今回で完結となります。
ここまでリラと七匹の猫たちの旅を見守ってくださり、本当にありがとうございます!
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物語は第三章へと続きます。
これからもリラたちを見守っていただけたら嬉しいです!




