30話 休息
坂を上り、いくつか角を曲がったところで、アルノが道脇の休憩場所に足を止めた。
低い柵の向こうには街の屋根が重なっていた。
リラは籠を抱えたまま腰を下ろし、乱れた息を整えた。
通りの足音と、遠くの話し声だけが聞こえていた。
「グレン、何か感じるか?」
グレンは鼻先を上げ、周囲の匂いを確かめた。
耳を左右へ動かしたあと、アルノを見上げて首を振り、短く一度だけ吠えた。
「そうか……。ナディアは?」
「私にも異変は感じられません。ミレーヌも同じようです」
ナディアの頭上で辺りを見回していたミレーヌも、小さく鳴いた。
それを確かめると、ナディアはリラの前へ片膝をついた。
「古き縁の祖よ。先ほどは、何が起きたのでしょうか。今も危険は続いているのでしょうか」
リラは膝へ籠を置き、蓋を少し開けた。
顔を上げたルナは、ナディアではなくリラの胸元を見た。
「僕にも、あれが何なのかは分からないんだ。リラ、指輪はまだ冷たい?」
服の外へ出したままだった指輪を、リラは指で挟んだ。
金属のひやりとした感触はあったが、先ほどのように身体の奥まで冷えが染み込むことはなく、包んでいるうちに指先へ馴染んでいった。
「さっきみたいじゃない。もう、普通だと思う」
「それなら、今は大丈夫だと思う」
ナディアは静かに息をついた。
「以前にも、同じことが?」
「はい。森の近くの町で、一度だけ……」
言いながら、リラは坂の下へ目をやった。
あの横道は、もう建物に隠れて見えなかった。
「分かりました。では、ここで少しお休みください。私は宿を確認してきます」
アルノはナディアへ顔を向けた。
「ここを頼む」
「はい」
アルノはグレンを連れ、坂の先へ向かった。
リラは指輪を服の内側へ戻し、レオの背へ手を置いた。
まだ少し逆立っていた毛を整えるように撫でていると、毛並みと一緒に、手のひらへ伝わる感覚も少しずつ穏やかになっていった。
しばらくして、アルノとグレンが帰ってきた。
「部屋を取れました。こちらへどうぞ」
宿は坂の先にあり、アルノが先に室内を確かめてから、リラたちは二階の部屋へ入った。
リラは小卓のそばへ籠を下ろしてルナを出すと、ナディアに促されてローブを脱いだ。
肩の重さが少し楽になり、リラは乱れた髪を整えた。
そのとき、扉の向こうからアルノの声が聞こえた。
「アルバ医院へ行って、レグルスに宿の場所を伝えてくれ。父からの返事も頼む」
グレンの短い鳴き声が返り、ほどなく足音が階段の方へ遠ざかっていった。
グレンを待つ間に、夕食が運ばれてきた。
リラはルナとレオの分を用意してから、湯気の立つスープを口にした。
冷えていた身体が、少しずつ内側から温まっていった。
ルークはどうしているだろう。
ノエルたちは、薬のことをうまく伝えられただろうか。
器から立つ湯気を見つめていると、先ほどの子どもの声がふと蘇った。
——お母さん。
あの子は、どこで母親を探していたのだろう。
食事を終えた頃、廊下からアルノの声が聞こえた。
「戻ったか。ありがとう、グレン」
短い鳴き声のあと、聞き慣れた声が重なった。
「リラはここに泊まるの?」
「テト、声が大きいわよ」
「あ、みんな帰ってきた!」
ナディアが扉を開けると、リラはすぐそばへ駆け寄った。
グレンが扉の脇へよけると、その横を小さな足音が次々と通り抜けた。
ネロの姿がはっきりし、続いてセナ、テト、トウカ、ノエルの輪郭も現れた。
「リラ様、ただいま戻りました。グレン殿のおかげで、迷わずに済みましたよ」
「みんな、おかえり。ネロも、お疲れさま。ありがとう」
最後の一匹が部屋へ入ると、ナディアが扉を閉めた。
リラはしゃがみ、まずネロの頭へ手を伸ばした。
耳の間から頭をゆっくり撫でると、ネロは目を細め、そのまま静かに瞼を閉じた。
けれど、順番を待っていられなかったらしく、テトがすぐに駆け寄り、しゃがんだリラの脚へ身体を擦りつけた。
そのまま足元をぐるりと一周し、もう一度膝へ頭を寄せた。
もう片方の手を差し出すと、セナが鼻先を寄せた。
指先の匂いを確かめてから、鼻筋を手のひらへ擦りつけた。
そこへトウカが横から頭を押し込み、セナを押し退けるように額をぶつけてきた。
リラが思わず笑ってトウカの頭を撫でると、その向こうにノエルが前脚を揃えて座っていた。
まるで自分の番を待っていたような姿を見て、リラは手を伸ばした。
「ノエル。ルークさんは?」
「大丈夫だよ。先生たちが、治療できるって。今は毒と、肩の傷の処置をしてもらってる」
リラを見上げたノエルの目が、穏やかに細まった。
「蜜房花のこと、知ってるお医者さんもいたよ。マドイ蔓に作用するって話も、ちゃんと通じた」
「知ってたの……?」
「うん。あと、蜜房花の代わりにモリュエラを入れたことなんだけど」
リラの手の下で、ノエルの喉が小さく鳴った。
「ここに着くまで、進行を抑えるのには役に立ったはずだって言ってた」
小鍋の蓋を見つめながら待っていた時間と、薬を持ち上げるのをためらった瞬間が、リラの胸へ戻ってきた。
あれで、よかったのだ。
「よかった……。ありがとう、ノエル」
言葉と一緒に息が抜け、肩の力が落ちた。
ほどなく扉が叩かれた。
ナディアが扉を開けると、廊下にアルノが立っていた。
「父から伝言です。ルークとフレデリック、それに治療が必要な者はアルバ医院に残します。明日は風輪車も替える予定です」
「分かりました」
アルノが扉の向こうへ下がると、ナディアは静かに扉を閉めた。
戻ってきた猫たちにも食事を分け終える頃には、身体の疲れが一気に押し寄せていた。
ナディアが掛け布団をめくると、リラは靴を脱いで横になった。
背中も肩も、柔らかな寝具へ沈んでいった。
ルナたちが次々と寝台へ上がり、枕元や足元へそれぞれ身体を収めていった。
頬へ寄ってきたルナを撫でながら、リラは二つの町で聞いた声を思い出した。
——どこへ、いけばいいの。
——お母さん。
どうして、私に聞こえるんだろう。
みんな、何を探して——。
続きを考えようとしても、もう瞼を持ち上げていられなかった。
「おやすみ、リラ」
すぐそばで、ルナが言った。
リラは小さく返事をし、皆の温もりを感じながら、そのまま眠りに落ちた。




