29話 声
人の流れについて歩きながら、リラは何度も風輪車が去った方を振り返った。
目を閉じて座席へ身体を預けていたルークの姿が、頭から離れなかった。
いくつもの車輪の音が重なり、皆がどちらへ進んだのかも、もう分からなかった。
「ルークさんたち、大丈夫かな……」
「アルバ医院には、セルペナやオロヴァで学んだ医師もいます。この辺りでは、特に信頼されている医院ですよ」
アルノは荷を運ぶ人を避け、リラの歩調に合わせた。
「セルペナと、オロヴァ……?」
「国の名前です。どちらも医学や薬学が進んでいるんですよ」
コレットだけでなく、そうした場所で学んだ人たちにも診てもらえる。
リラは籠を抱えていた腕を少し緩めた。
「それなら、少し安心しました」
顔を上げると、軒先からいくつもの看板が突き出していた。人にぶつからないよう歩くだけでも、視線が忙しく動いた。
「あの、門で魔力を登録したのは、何のためだったんですか?」
「一度登録した都市へ、転移できるようにするためです。門の外にあった転移広場をご覧になりましたか?」
「見ました。じゃあ、ここから王都にも行けるんですか?」
「リラ様は、王都ではまだ登録していませんから、今回は無理ですね。それに、遠いほど多くの魔力を使います」
「そうなんですね」
リラは小さく頷いた。
通りを曲がると、布や靴、旅鞄を並べた店が軒を連ねていた。
薬屋の窓には小瓶が並び、その向かいでは二軒の店が競うように果物の値段を呼び上げていた。
ヴァレリウス領で見た店先とは違い、どこも品物でいっぱいだった。
「あちらにも、まだお店があるんですね」
「あちらは貴族街です。王族の方々が利用する店もありますよ。こちらの角を曲がると、騎士たちが非番に立ち寄る酒場もあります」
アルノが示した角から、笑い声が漏れてきた。
すぐそばの店では、焼き上がったパンが籠へ移されていた。
リラがついそちらへ顔を向けると、ナディアが足を止めた。
「立ち寄りましょうか」
ナディアが小さなパンを二つ買い、一つをリラへ渡した。
リラは店先の隅へ籠を下ろし、受け取ったパンを割った。
湯気が立ち、ひと口齧ると、柔らかな中身にほのかな甘みがあった。
隣ではナディアもパンを食べ、ミレーヌが肩の上からその手元を覗いていた。
アルノのそばにいたグレンが、ふいに鼻先を持ち上げた。
何度か空気の匂いを嗅いだあと、通りの向こうへ顔を向け、小さく鳴いた。
「だよな! かなり美味そうな匂いがするぜ!」
レオも同じ方へ鼻先を向け、勢いよく尾を振った。
「あー、腹減った!」
視線の先では、店先で肉が焼かれていた。
リラは思わず笑った。
パンを食べ終え、籠を抱えて再び歩き出すと、道は緩やかな上り坂になった。
「この上の宿を見てみましょう。空きがあるとよいのですが」
アルノの後について上るうちに、賑やかな街の声は遠ざかっていった。
家々の間から買い物籠を提げた人が出てきたり、旅人が坂を下ってきたりしたが、肩が触れ合うほどではなくなった。
夕日が当たる壁には、窓辺の鉢植えの影が長く延びていた。
——お母さん。
リラは足を緩めた。
子どもの声がしたようだった。
家と家の間に細い横道が延びていたが、見える範囲に人の姿はなかった。
「何か気になるものでも?」
アルノに尋ねられ、リラはもう一度、横道の奥を見た。
森の近くの町で聞いた声が、ふと頭をよぎった。
耳を澄ませたが、今度は通りの足音しか聞こえなかった。
聞き違いだったのだろうか。
「……なんでもないです」
歩き出すと、胸元にひやりとした感触があった。
服の内側で人肌に温まっていた指輪が、少し冷えたようだった。
日陰へ入ったせいだろうか。
リラはローブの前を寄せ、皆に続いた。
——お母さん……どこ……?
今度は、はっきり聞こえた。
リラは足を止めた。
前を行くレオとグレンが数歩先へ進み、アルノが振り返った。
「また、この声……」
——どこへ、いけばいいの。
あの町を逃げ出すとき、背後から聞こえた言葉だった。
リラは籠を抱え直し、声のした方へ顔を向けた。
次の横道の奥で、何もないはずの空間に、縦一筋の切れ目が走っていた。
建物の壁も石畳も、その境を挟んでわずかにずれ、奥の窓の縁まで途中で噛み合わなくなっていた。
家並みの間へ、別の何かが無理に割り込んできたようだった。
「冷たい……」
胸元から、身体の奥まで冷えが染み込んできた。
リラは籠を片腕に預け、震える指で首の紐をたぐった。
服の外へ引き出した指輪は、触れている指先が痛むほど冷たかった。
アルノが横道へ目をやり、すぐにリラへ視線を戻した。
「リラ様?」
返事をしようとしたとき、切れ目がわずかに開いた。
内側から白い靄が滲み出し、石壁を覆うように膨らんだ。
その後からも薄い白が重なり、先に出た靄をこちら側へ押し出していた。
前の町では、あれほど多くはなかった。
子どもの声に、別の声が重なった。
低い声も、高い声も、途切れることなく頭の奥へ流れ込んできた。
男なのか女なのか、大人なのか子どもなのかさえ、聞き分けられなかった。
何かを訴えている。
それだけは分かるのに、一つの言葉を拾おうとすると、次の声が覆いかぶさった。
指輪を手放し、空いた手で片耳を塞いだ。
それでも、頭の奥へ流れ込む声は少しも弱まらなかった。
「レオ!」
振り返ったレオが、リラの視線を追った。
その背の毛が、一気に逆立った。
「下がってろ!」
レオがリラの前へ飛び込み、四肢を踏ん張った。
直後、強い風が路地へ吹き込んだ。
石畳の落ち葉が巻き上がり、軒先の看板が激しく鳴った。
通りを横切った風に外套の裾を煽られ、歩いていた男が立ち止まった。
けれど、白い靄は表面を揺らしただけで、そこに留まっていた。
落ち葉だけが路地の奥へ飛ばされ、風が収まると、白さはまたゆっくりと膨らんだ。
「なんだ、今の風は」
「あそこの豹が……ん? 豹じゃないな」
数人が足を止め、レオと横道を見比べていた。
白い靄が溢れる横道を見ても、誰一人怯えた様子はなかった。
「レオ、今は人目がある」
籠から、ルナの抑えた声が届いた。
蓋の隙間から覗く青い目は、横道へ向いていた。
レオは耳を伏せたが、リラの前から退かなかった。
低く唸りながら身体を横にし、額でリラの脚を押した。
アルノが剣の柄へ手を置き、ナディアも腰の短剣に手を添えていた。
グレンは耳を動かしながら周囲の音を拾い、ミレーヌはナディアの肩の上から辺りをきょろきょろと見回していた。
こちらを見る人が増えかけたところで、アルノがリラのそばへ寄った。
「目立ちます。こちらへ」
アルノの腕が、背へそっと添えられた。
リラは籠を両腕で強く抱え、レオに押されるように横道から離れた。
以前、胸元へ伸びてきた白いものが頭から離れなかった。
振り向きかけると、まだ裂け目の周りに靄が溢れていた。
リラはそれ以上確かめられないまま足を速めた。
ナディアとグレンが後ろへ回り、レオはリラの横を離れずについてきた。
角を曲がると、立ち止まっていた人々も、あの横道も見えなくなった。
いくつも重なっていた声は、歩くにつれて少しずつ遠ざかっていった。
リラは足を止めず、宿へ向かう坂を急いだ。
どこへ、いけばいいの。
お母さん。
どちらの声も、何かを探しながら迷っているように聞こえた。
いったい、誰だったのだろう。
服の外で揺れていた指輪が胸へ触れ、リラは思わず手を添えた。
なぜ自分に声が聞こえるのか。あの白いものは何なのか。
指で包んでも、指輪はまだ、身体の芯へ染み込むほど冷たかった。




