25話 毒
矢羽がまだ震えているうちに、テトがリラの足元を駆け抜けた。
車輪を蹴り、風を巻いて屋根へ跳び上がった。
その前脚から放たれた小さな風の刃が、幾筋にも分かれてカラスへ走った。
黒い翼が開き、飛び立ったかと思った瞬間、その身体が黒い霧のように崩れた。
風の刃は何もない空間を通り抜け、屋根際には羽の一枚も残らなかった。
「闇の魔法です!」
ネロの鋭い声が飛んだ。
金色の目は、霧散したカラスではなく周囲の木々へ向けられていた。
「術者が別にいる恐れがございます。どこから見られ、狙われているか分かりません。皆様、周囲にもご注意を!」
屋根のテトが身体の周りへ風を巡らせ、低く身構えた。
トウカとセナも車体を駆け上がった。
「リラちゃん、早く!」
コレットに手を引かれ、リラは籠を抱えたまま踏み段を上がった。
「そこに座って!」
空いていた座席へ腰を下ろした直後、外からアルノの声が飛んだ。
「出せ!」
扉が閉まり、風輪車が動き出した。
隣には脚を負傷した騎士、向かいにも手当てを受けた二人が座っていた。
足元ではフレデリックが横たわり、コレットがその傍らで処置を続けていた。
「鎮静剤は打ったわ。エンバー、回復薬を」
エンバーリーフから受け取った薬を、コレットがフレデリックへ少しずつ飲ませた。
リラは膝の上の籠を抱きしめた。
扉に矢が突き刺さった音は、まだ耳に残っていた。
「カァ」
同じ鳴き声が、今度は前方から響いた。
「いつの間に――!」
テトの声に重なって、男の短い呻きが上がると同時に、車体が大きく横へ振られた。
リラの肩が壁へぶつかり、向かいの騎士も座席の端を掴んだ。
「ルークが射られた!」
ハロルドの切迫した声が聞こえた。
頭上で風が唸り、屋根を駆ける足音と水の弾ける音が重なり、カーテン越しに赤い光が一瞬走った。
すぐにトウカが叫んだ。
「またどっか行った!」
「ハロルド、一人では無茶だ! 出力を落とせ!」
カシウスの声が響く間にも、風輪車は反対側へ揺れた。
コレットがフレデリックの身体を支え、エンバーは小瓶を胸へ抱き込んだ。
リラは籠を片腕で抱え直し、空いた手で座席の縁を握った。
「アーヴィン、矢が来た方を探れ!」
外で鷹の鳴き声が響いた。
続いて、窓のすぐ外からネロの叫び声が届いた。
「リラ様、私もアーヴィンと参ります!」
「ネロ、気をつけて!」
言い終えるのとほぼ同時に、車輪が何かを踏み、身体が座席から浮きかけた。
風の音が弱まり、車体が何度か左右へ振れたあと、風輪車はようやく止まった。
リラは座席を掴んだ指を、すぐには離せなかった。
「車の周囲を固めろ!」
カシウスの指示に、外でいくつもの声が応じた。
矢の刺さった右扉が少し開き、アルノが顔を覗かせた。
「リラ様、ご無事ですか」
「はい……大丈夫です」
リラが頷くと、開いた扉の外に、グレイドに乗ったカシウスが姿を見せた。
コレットがすぐに立ち上がった。
「ルークの容態はどうなんですか?」
「芳しくない。呼びかけへの反応も鈍い」
カシウスが言い終える前に、コレットは傍らの鞄を掴んで外へ降りていた。
エンバーリーフもその肩へ飛びつき、そのまま車体の陰へ消えた。
「リラ、平気?」
屋根からテトが身を乗り出し、トウカとセナも続いて上からリラの様子をうかがった。
扉の隙間からはレオが顔を上げ、その隣へノエルもやってきた。
「うん。みんなは……」
答えかけたリラは、ノエルが扉をじっと見ていることに気づいた。
ノエルは踏み段へ飛び乗ると、扉に刺さった矢へ鼻先を近づけた。
矢の根元では、裂けた木肌に何かが薄くこびりついている。
「ノエル、どうしたの?」
「さっきのも、同じ相手だよね。これ、毒が塗ってある」
「毒……?」
リラは矢とノエルを見比べた。
ルークに同じ矢が当たっていたら——。
リラは籠を抱えて立ち上がり、扉の外のアルノを見た。
「この矢、毒が塗ってあるそうです。コレットさんに伝えないと……」
「分かりました。そばを離れないでください」
アルノは前方を確かめて手を差し出した。
リラがそれを借りて踏み段を降りると、ノエルも続いた。
アルノは街道側につき、グレンとともにリラを車体の前方へ導いた。
右前の車輪のそばでは、ルークが車体に背を預けていた。
左肩の鎧は外され、矢もすでに取り除かれていた。
ナディアが傷口を細い水で洗い流していた。
ルークの足元では、相棒のマングース、ラッセルが落ち着かない様子で行き来していた。
「もう少しよ。飲み込める?」
コレットがルークの口元へ小瓶を当てた。
ナディアが息をついて手を下ろすと、代わるようにミレーヌの水が傷口へ伸びた。
「コレットさん、扉の矢に毒が……」
「こちらの矢にも塗られていたわ。今、解毒薬を飲ませているところよ」
ルークの喉仏がゆっくりと上下した。
リラが近づいても、ルークはどこを見ることもなく目を開けていた。
少し遅れてレオたちも集まったが、ランドルフとハロルドは木立を警戒し、カシウスはアルノと短く言葉を交わしていた。
ミレーヌの水が細くなったところで、セナがそのそばへ進んだ。
「私が代わるわ。傷口を洗い流しても大丈夫かしら」
エンバーリーフがコレットへ声をかけ、頷きが返ると、ミレーヌと入れ替わるようにセナの水がルークの左肩を包んだ。
薄くまとわりついた水の内側を細かな流れが巡り、血で濁った水だけが下へ流れていく。
「……すごい」
ナディアは小さく零しながら、傾きかけたルークの背を支え直した。
コレットは体温計に目を落とし、ルークの手首へ指を当てた。
しばらく脈を確かめると、わずかに眉を寄せた。
「脈は少し落ち着いてきたけど……」
そのとき、ルークの唇が動いた。
「暑い……これ、脱がせてくれ……」
弱々しい右手が、肩に掛けられたマントを引いた。
「ルーク、もう雪が近い季節よ。どこにいるか分かる?」
「何、言ってんだ……こんな、炎天下に……」
吹き抜ける風は冷たく、袖口から入り込んだ空気が肌を刺した。




