21話 作法
レオの声を追って庭園の奥へ向かうと、切り立った岩壁から水が流れ落ち、小さな滝となって岩場へ注いでいた。
その滝壺のそばでは、一頭の大きな熊がレオと向かい合っていた。
リラたちに気づくと、一度だけ鼻を鳴らし、大きな頭を下げた。
森の家を囲んでいた相棒の一匹だった。
あのときとは違い、今は大きな体を縮めるようにして、じっとしていた。
「もう大丈夫だよ。怒ってないから」
リラが声をかけると、丸い耳が動き、伏せられていた鼻先がゆっくりと上がった。
やがてレオはテトとトウカに加わり、三匹で水飛沫の上がる滝壺を覗き込み始めた。
「あら、良い水ね」
セナが岩の縁へ歩み寄り、前脚で水面を軽く叩いた。
跳ねた雫がトウカの鼻先にかかると、トウカは慌てて顔を引いた。
「冷たっ!」
「そんなに覗き込むからよ」
トウカが濡れた鼻先を舐めるそばで、セナは構わず水へ前脚を浸していた。
ノエルは岩場の草花へ鼻先を近づけ、ルナとネロも日の当たる場所でくつろぎ始めた。
リラも皆の近くへ腰を下ろした。
昼になると、侍女たちが木製のワゴンを押して現れた。
白い布を敷いた台の上には、温かなスープとパン、果物を盛り合わせた皿が並んでいた。
肉が山盛りの皿を見つけると、レオとトウカとテトの目が輝いた。
昼食を終えたあとも、皆は庭園で思い思いに過ごしていた。
庭園の中は、もうすぐ冬が来ることを忘れそうなほど暖かく、心地よかった。
リラは木の根元へもたれ、ルナを膝に乗せたまま、いつしかうとうとしていた。
「……リラ」
呼ばれて目を開けると、ルナがこちらを見上げていた。
すぐ横にはレグルスが座っていた。
「迎えに来てくれたよ」
枝葉の間から差す陽は、先ほどより傾いていた。
リラはルナを地面へ下ろして立ち上がり、皆を呼んでレグルスの後に続いた。
庭園を抜けて玄関ホールへ戻ると、一人の女性が侍女を伴って立っていた。
深い藍色のドレスを身に纏い、赤みを帯びた栗色の髪を一筋の乱れもなくまとめ上げていた。
その立ち姿には隙がなく、リラは近づくにつれて背筋を伸ばした。
「私はエレノア・ヴァレリウス。カシウスの妻です」
「リラです。お世話になっています」
頭を下げると、エレノアはリラの髪から足元へ目を移し、七匹にも視線を巡らせた。
「話は聞いているわ。王都へ向かう支度として、あなたには最低限の作法を身につけてもらいます」
そう言って、エレノアは傍らの侍女へ目を向けた。
「着替えを済ませたら、応接室へ連れてきてちょうだい」
「かしこまりました」
侍女に案内されて隣室へ入り、深緑のドレスへ袖を通した。
靴も履き替え、普段より高い踵に戸惑いながら応接室へ向かった。
部屋へ入ると、淡い茶色の毛並みに白い腹、脇腹をまっすぐ走る黒い帯が特徴的な一頭のガゼルがいた。
「私の相棒、リリアです」
「よろしくお願いします」
リラが頭を下げると、リリアも静かに首を下げた。
「では始めましょう。まずは基本からです」
最初に教わったのは、挨拶の仕方だった。
エレノアの手本を見て、リラもドレスの裾を摘み、膝を折った。
けれど、戻ろうとした拍子に身体が前へ傾き、片足を踏み出してしまった。
「急いで立ち上がらなくていいわ。もう一度」
今度は足元を確かめてから、ゆっくりと膝を曲げた。
顔を上げると、エレノアが頷いた。
「そう。そのくらいで結構です」
歩き方、姿勢、お茶のいただき方。
エレノアの指導は簡潔で的確だった。
間違いはすぐに正され、できたことは短く認められた。
ふと窓辺へ目を向けると、リリアのそばにテトとトウカが座り、セナもその脇に伏せていた。
リリアが短く鳴くと、「へえ、そうなんだ」とテトが応じ、トウカも興味深そうに耳を動かした。
窓の外が暗くなる頃、最後にもう一度挨拶をしてみせると、今度は足を踏み出さずに立ち上がれた。
「物覚えは悪くないようね。安心なさい。王都へ出ても、恥をかかせるつもりはないわ」
リラは裾から手を離した。
まだ覚えることは多そうだったが、何をすればよいか、その都度教えてもらえるのはありがたかった。
「さて、この後は晩餐へと向かいますが、お連れの皆さんには、庭園で待っていてもらいましょう」
「みんなは、一緒に行けないんですか?」
「相棒を伴わずに出る席もあります。王都で戸惑わないよう、今夜はその練習をしましょう。相棒の食事は庭園で用意させてあるわ」
エレノアは出入口の横へ歩み寄った。
壁の低い位置には、手のひらほどの魔石が埋め込まれていた。
「リリア、使い方を見せてあげて」
リリアは七匹へ向けて短く鳴くと、魔石の前へ進み、鼻先でそれを示した。
「これ、触るだけでいいの?」
テトの言葉に、リラも魔石へ目を向けた。
リリアがそこへ鼻先を当てると淡い光が灯り、その身体が光の粒子となって消えていった。
後に続き、皆も一匹ずつ魔石へ触れ、光の中へ消えていった。
「また後でね」
最後にルナの白い姿を見送ると、部屋はしんと静まり返った。
リラはいつものように足元を見た。
そこにはドレスの裾が広がっているだけだった。
「参りましょう」
エレノアの声に顔を上げ、リラはその後へ続いた。
晩餐の間まで来ると、鷹を左腕に乗せた騎士が扉を開けてくれた。
中には、カシウスと、その隣に若い男が座っていた。
エレノアとよく似た暗い栗色の髪に、カシウスを思わせる落ち着いた眼差しをしていた。
「紹介しよう。次男のアルノだ。明日からリラ殿の護衛を務める」
アルノは立ち上がり、胸に掌を当てて頭を下げた。
「アルノ・ヴァレリウスと申します。どうぞよろしく」
「リラです。よろしくお願いします」
リラは教わった通りに裾を摘み、ゆっくりと膝を折った。
エレノアの小さな頷きを見てから、勧められた椅子へ腰を下ろした。
カシウスがエレノアへ向き直った。
「私も王都まで同行する。遅くとも二週間ほどで戻るつもりだ。それまでのことは頼んだよ、エレノア」
「ええ。こちらはお任せください」
カシウスはアルノへ視線を移した。
「準備は整っているか」
「滞りなく」
「よろしい。リラ殿、困ったことがあればアルノを頼るといい」
「はい、わかりました」
リラがアルノへ目を向けると、彼は静かに頷いた。
やがて料理が運ばれてきた。
肉を切り分けたとき、つい傍らを見てしまったが、膝にも足元にも、白い毛並みはなかった。
ルナたちも今頃、食べているだろうか。
リラは皿へ視線を戻し、次の一切れを切った。
食事が終わる頃、エレノアが翌日の予定を告げた。
「明日は作法のおさらいをして、旅に必要なものを揃えに行きましょう」
「よろしくお願いします」
リラは背筋を伸ばして答えた。
晩餐を終え、侍女の案内で客室へ戻った。
扉が閉まると、リラは小さく息を吐いた。
慣れない作法に気を張り続けたせいか、足も肩もいつもより重かった。
何より、こんなに長く皆と離れて過ごしたのは初めてだった。
「あ、みんなにも終わったって伝えに行かないと」
「すでに別の者が庭園へ知らせに向かっております。皆様がお戻りになるまで、リラ様はご就寝の準備をいたしましょう」
「はい。そうします」
湯浴みを済ませ、柔らかな布の寝間着へ着替えた。
侍女に髪を整えてもらって寝室へ戻ると、ルナたちはすでにそれぞれ好きな場所で毛繕いをしていた。
「リラ、おかえりー!」
トウカの声に迎えられながら、リラはそのままベッドへ飛び込んだ。
「みんなもおかえり! はぁ……疲れたぁ」
枕へ顔を埋めると、身体から一気に力が抜けた。
挨拶の仕方も、歩き方も、晩餐も、今日は初めてのことばかりだった。
「お貴族様って、すごい大変なのね。今夜は、よく眠れそう……」
足元へ集まった気配に頬を緩めながら、リラは布団を引き寄せた。
返ってきた皆の声を聞くうちに、重くなった瞼がゆっくりと閉じていった。




