20話 庭園
玄関ホールのさらに奥へと進み、突き当たりにある大きな二枚扉の前で、カシウスとレグルスは立ち止まった。
「ここが庭園だ。皆で少し休むといい」
開かれた扉の向こうから、春を思わせる柔らかな風が頬を撫で、青々とした草木の香りが流れ込んできた。高く伸びる木々のさらに上には、陽光を透かす透明な天井が広がっていた。
「……すごい、森みたい」
木々の間を透明な小川が縫うように流れ、降り注ぐ木漏れ日が水面をきらきらと照らしていた。屋敷の中とは思えないほど深い緑が、奥まで続いていた。
リラは扉をくぐり、草木の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
まるで森の中へ入り込んだようで、ここが屋敷の中だということを忘れそうになった。
「ここ、いい感じじゃねぇか!」
レオが真っ先に駆け出し、「ぼくも!」と声を弾ませたトウカがその後を追った。テトも二匹の間をすり抜け、ノエルは一度足元の土へ鼻を近づけてから、皆の後へ続いていった。
ルナ、ネロ、セナの三匹はリラの傍に残り、庭園の匂いを確かめていた。
「ここは屋敷で働く者たちと、その相棒たちの憩いの場でもある。皆とも仲良くしてやってくれ。私は少し用事を済ませてくる。リラ殿は、ここで休んでいてくれるか」
「はい。ありがとうございます」
カシウスが扉の向こうへ戻ると、レグルスはリラたちへ軽く頭を下げ、慣れた足取りで庭園の奥へ歩いていった。
「私たちも行こっか」
ルナたちと小川に沿って進むと、木々の切れ間から遠くの緩やかな丘が見えた。
騎士や使用人らしい人々が草の上に腰を下ろし、それぞれ相棒らしき動物とくつろいでいた。
さらに奥へ進み、人の声や相棒の鳴き声が遠のいた木陰で、リラは小さな木製の腰掛けに腰を下ろした。
セナは足元の草へ伏せ、ネロもその隣に座った。
ルナは腰掛けへ飛び乗り、リラの傍らに落ち着いた。
書斎では遠ざかってしまったその背へ、リラはためらいながら手を伸ばした。
指先が毛並みに触れると、ルナが顔を上げた。
「ルナ、さっきはごめんね。私、嫌なこと聞いちゃった?」
ルナはすぐには答えず、リラを見上げていた。
「そうじゃないんだ。僕の方こそ悪かったね。ただ、僕には九祖霊を語る資格はないんだ……だから、そのことは僕以外に聞いてほしい」
言い終えたルナは、リラの手に鼻先を触れさせ、そのまま頬をすり寄せた。
「……そっか」
返事をしながら、ほんの少しだけ寂しさが残った。
ルナがこんなふうに、自分から話を終わらせたことはなかった。
リラがルナの頭を撫でていると、ルナは再び顔を上げた。
「自分が王女だって聞いて、どう思った? あまり驚いていないようだったけど」
「驚いてるよ。でも、急に言われても、まだよく分からなくて……ずっと森で、みんなと暮らしてきたからさ。王女って言われても、私は私だよ」
ルナの青い瞳が、ふっと和らいだ。
「……そうだね」
「でも、お母さんのことは知りたい。私を産んでくれた人だから。ルナに聞いてもいい?」
「いいよ」
「どんな人だったの?」
ルナはふとリラから視線を外し、木々の向こうへ目を向けた。
「僕が知っているのは、最期のわずかな時間だけなんだ。君のお母さんは、森の中で、君を助けてほしいと祈っていた」
「それで、ルナが来てくれたの?」
「うん。僕が君に名前をつけて、君のお母さんもその名前を呼んでたよ」
リラは目を瞬き、ルナの顔を覗き込むように身を傾けた。
「私の名前、ルナがつけたの?」
「そうだよ。リラって」
その声を聞いた瞬間、胸の奥を何かがかすめた。
ずっと昔にも、同じように名前を呼ばれた気がした。
けれど、思い出そうとした途端に、その感覚は消えてしまった。
「お母さんは、最期まで君を抱いていたよ」
リラは自分の膝へ目を落とした。
母のぬくもりは、少しも思い出せなかった。
けれど、母が最期まで自分を抱いていてくれたことは、もう遠い誰かの話には思えなかった。
しばらく黙ったまま、リラはルナの背を撫でていた。
「そのあと、ルナたちと森で暮らすようになったの?」
「最初はネロに来てもらったんだ。少ししてセナとトウカも呼んでね。二匹にもずいぶん助けられたよ」
足元でセナが顔を上げた。
「リラ、あの頃はこーんなに小さかったのよ」
いつもより少し弾んだ声で言うと、草の上で立ち上がってくるりと回り、尾を身体に沿わせて小さく丸まった。
「え、そんなに? 覚えてないなあ」
リラは腰掛けから降り、丸くなったセナのそばにしゃがみ込むと、その背を撫でた。
セナは顔を上げて満足そうに目を細めた。
リラはその隣で前脚を揃えているネロへ目を向けた。
「そういえば、さっきカシウスさんが、私たちの家がなかったって言ってたよね。ネロが隠してくれてたから、見つからなかったんだね」
「はい。家とその周りを隠しておりました」
「私が小さい頃から、ずっと?」
「人目を避ける必要がございましたから」
朝にはネロに見送られ、夜には見回りへ出る背中を見送った。
ずっと当たり前だったその姿を思い返し、リラは揃えられた黒い前脚へ目を落とした。
自分の覚えていない頃から、ネロはこうして守ってくれていたのだ。
「……ネロ、ありがとう」
手を伸ばして頬に触れると、ネロは目を細めた。
「お礼には及びません。私も、あの家で過ごす時間が好きでございました」
リラの指先へ、黒い頭がそっと押しつけられた。
自分はずっと、みんなに支えられ、守られてきた。
すぐに同じことができるとは思わなかったけれど、今度は自分も、みんなを守れるようにならなければ。
ふと、庭園の奥からレオの声が響いた。
「リラー! こっちに来てみろ! すっごく大きなやつがいるぞ!」
「なになに? あたしもそっちに行く!」
「レオ、あまり驚かせちゃ駄目だよ」
テトに続いて、少し困ったようなノエルの声まで聞こえてきた。
リラは顔を上げ、思わず笑った。
「ふふっ……何を見つけたんだろう」
ネロから手を離して立ち上がると、ルナも腰掛けから降りてきた。セナが前脚を伸ばして身体を起こした。
「行こっか」
リラは三匹とともに、木漏れ日の揺れる庭園の奥へ歩き出した。




